忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

日本人はIt(それ)を知らない

誰も読まないようなこんなブログにこういう話を書くのも意味が無さそうだが、まあ、もともと誰かに読ませるより、自分の頭の整理と考察と保存のためのブログであり、それを誰かが読んで参考にでもしてくれれば大いに満足である。
などと前置きしたのは、これから書く記事の中身が「英語に関する思い付き」で、私自身英語は苦手であり、今さら勉強する気も無いのだが、ふとした思い付きを大事にするというのが私のポリシーなので、浮遊思考を失わせないためにこうして書いているわけだ。

その「英語考察」の内容は、「itの使い方」であり、広く言えば「英語の指示語の使い方はわりと幅が広い」ということだ。たとえば「this」は身近な事柄や物を指すが、それは「空間的に近い」場合にも「時間的に近い」場合にも用いる、といったようなことである。
とりあえず、「it」について言えば、その基本的用法は「漠然と何かを指す」という、用法自体が漠然としたもので、ボケ た老人が「あれだよ、あれ」というような感じに似ているか。で、ポイントになるのは、会話をしている双方で「今話題の中心になっている物や事柄」が「it」であることだ。
たとえば、「That's it!」というのは、その問題となっている漠然とした対象が明確になった時の思わず手を打ち合わせる感じだと言えそうだ。この「that」の使い方も面白いが、この一文を心理的に言えば、「遠いところにあると思っていた何か(あれ)が、現在の話題の中心となっている物や物事そのもの(それ)であった」という「解決感」だろうか。「あれがそれなんだよ!」と直訳しても感じは分かりそうだ。

"I don't get it."(分かりません)は、「私は、あなたが言っているそれ(it)を把握できません」ということだろう。つまり、双方の話題の中心がitである。
" Let's give it a try."(ちょっとやってみましょう)は、「問題のそれ(it)に、我々(私)がそれを試す機会を与えましょう」ということで、Itの示す概念が日本人の使う「それ」より生々しく現実的な印象が強い。ほとんど擬人化的だと思う。
" Hold it!"(待て!)は、「それ(it)を保持せよ」という命令文で、当然、保持状態を維持することを含意するから「待て」という訳になる。この場合、日本人は絶対にitを使った英文にすることは想像もしないと思う。なぜなら、itが両者の間の問題事項であるという概念が無いからだ。もちろん、「wait!」でも同じことだが、英語文化圏の人間にとってはitが「親しい存在の言葉」(使い勝手のいい言葉)だということだろう。
" Leave it to me!"(私に任せて)は日本人にも分かりやすい。「それ(it)を私に(私の仕事として)残して」ということだが、日本人だと「私にそれを任せて」ではなく、「私に任せて」と言うだろうというのが文化の違いである。物事の関係を明確にする、つまり、主語と目的語を明確にするのが英語文化だと思う。それは日本の「責任の所在がどこにあるのか分からない(意図的に曖昧にする)」という文化とも関連すると思う。
" We've made it."(着きました)は、分かりにくいが、itが現在の問題事項だと理解していれば、自動車に乗っているふたりの間の問題事項は「目的地に到着すること」であり、「我々はそれ(it)を為した」は「目的地に到着した」となるわけである。
" You've got it."(了解しました)も上記と同じことである。現在の問題事項が「私が相手の指示内容を把握したかどうか」であるなら、「あなたはそれ(it)を得た」は、「私があなたの指示を了解するという結果をあなたは得た」は「了解しました」となる。たぶん、「I've got it」でも同じだと思うが、これだと「私の頭が鈍くて、了解するのに手間取った」というニュアンスになるのではないか。そうではなくて、「お前の説明が下手だから私は了解するのに手間取った」が"You've got it"のニュアンスだろうというのは考えすぎか。
" You have it all wrong."(君は全部勘違いしている)のhaveは知的把握(理解)も「所持」の一種だということだろう。で、ここでもit が話者双方の問題事項だというのが分かる。だが、私が上に書いたこと全体が「君は全部勘違いしている」と英語話者から言われるかもしれないwww

なお、例文はすべて「英語コミックス鉄腕アトム」(実業之日本社)から採った。



PR

J・ブレイク氏射殺事件への個人的感想

動画が転載できないので、町山智弘のツィッターなどでご覧になるといい。

下手に異見(つまり、一般とは異なる意見)を言うと社会的制裁に遭いそうだし、私自身米国における黒人差別に批判的な人間だが、ジェイコブ・ブレイク氏の射殺事件に関しては、動画を見ると、警官が氏を連行しようとした際に氏が車に乗って逃走を図ろうとしたので車外(前部ドアの隙間)から射殺したように見える。(背後から7発撃ったことだけ声高に言われているが、その状況はそういうことだ。)この行為が米国でも警察官の違法行為となるのか、それとも警察官にとって当然の行為なのかで事件の意味が異なるだろう。もちろん、「それが現在は当然視されていても人道的に大問題だ」と世界中の人は思うだろうが、そういう意見と、それが違法行為かどうかは別問題である。

なお、私は別ブログも持っているが、この問題はまさしくセンシティブな問題なので、あまり誰も読まないこのブログに、私の管見を記録しておくわけだ。あるいは、後で別ブログにも載せるかもしれない。私は「正義のためなら事実を捻じ曲げてもいい」というやり方は大嫌いなのである。

エアコンは窓開け換気の時もつけっぱなしが安くなる



エアコンは窓を開けて換気する場合も「つけっぱなしの方が安い」 ダイキンの調査結果

参考になるー。

[コンタケねとらぼ]

 ダイキンが8月24日、窓を開けて換気する際のエアコンの電気代についての調査結果を発表しました。同調査によると、換気時もエアコンはつけっぱなしの方が安いという結果になったとのこと。


ダイキン エアコン 換気 電気代 つけっぱなし換気の際もエアコンはオンのままで!

ダイキン エアコン 換気 電気代 つけっぱなし調査環境

 この調査では、「窓を開けるとどの程度電気代が上がるのか」と、「換気のときはエアコンをつけっぱなしの方が良いのか消した方が良いのか」という2つのテーマを検証。マンションの広めのリビングを使った実生活空間を使い、調査を実施しました。

advertisement

 1つ目の調査では、真夏の日中(7時~19時)30分に1回、5分間の窓開け換気をエアコンつけっぱなしの状態で実施。この調査の結果、窓開け換気をするとしない場合と比べて電気代が1日で約40.5円上がりました。


ダイキン エアコン 換気 電気代 つけっぱなし

 続いて、同じ様に窓開け換気をする際に、エアコンの電源をつけっぱなしにした場合と、小まめにオン/オフしたときの電気代を比較。結果、付けっぱなしの方が1日で約45.7円、1カ月換算で1371円電気代が安く済みました。


ダイキン エアコン 換気 電気代 つけっぱなし

 ダイキンは今回の調査の結果を受け、「窓開け換気時のエアコンはつけっぱなしが省エネ性と快適性の両面から正解といえそうです」とコメント。COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の影響で換気が重要となっているこの夏ですが、エアコンはつけっぱなしで実施しましょう。


ダイキン エアコン 換気 電気代 つけっぱなしエアコンの電源オン・オフと消費電力、電気代の関係


子供を産む道具としての処女の意味

「革命者キリスト」という、私自身の小論文の一部を載せる。その理由は、古代ユダヤ人が他部族との闘いに勝利した後、その部族の男はすべて殺し、女は処女だけを残して後は皆殺しにした、その「処女」をどのように利用したのか、という問題を考えたいからだ。
当然、性奴隷としたのだろうと誰でも想像するが、それならなぜ「処女」限定なのかが分からない。美女だけ残し、ブスは皆殺しにしたのなら、性奴隷にしたと考えられるが、そうではないわけだ。では、なぜ処女限定なのか。まあ、処女相手のほうが性的快楽が大きいという可能性もゼロではないだろうが、挿入の面倒くささ、相手が暴れることなど、セックスの相手として処女が適切だとも考えにくい。処女とのセックスのほうがいいというのは、かなり形而上学的なものだろう。あるいは性的に爛熟したサークルでの趣味的なものではないか。
ということで、古代社会において処女が尊重されたのは、明らかに、「他の男と寝ていないから、かりに妊娠したら確実に、その処女と性交した男のタネである」という、血族主義によるものだろう。これは「家制度」の根幹でもある。だから中世までは家制度の下で処女は尊重されたのである。遊ぶ相手、遊びのセックス相手なら遊女でいいが、家に置くなら貞潔な女でないと家制度が崩壊するわけだ。
つまり、他部族から奪った処女たちは「子供を産む道具」として利用されたというのが私の推理である。

(以下引用)

モーゼは旅の途中で死ぬが、その後のユダヤの指導者ヨシュアは、カナンの地の先住部族を次から次へと皆殺しにし、その土地を奪ってユダヤ人のものとする。これが神の「約束の地」である。約束の地なら、神が平和的にユダヤ人のために取っておけば良さそうなものだが、他部族を殲滅して奪ったものでも、神が彼らに約束したのなら、その略奪行為は許されるという理屈らしい。ついでながら、カナンの地の近くまで来た時点でのイスラエル(ユダヤ)の民はおよそ60万人である。これだけの数の人間が大移動をしたのは、それだけでも確かに奇跡的ではあるが、食料などを持ってエジプトを出たはずはないから、当然ながらその間に無数の略奪行為があったに決まっている。書かれざる歴史だ。

引用するのも面倒だが、他部族に対する戦い方、あるいは略奪の指令の一例を挙げよう。民数紀略第三十一章

「モーゼすなわち彼らに言いけるは、『汝らは婦女どもをことごとく生かしおきしや。見よ、是らの者はバラムの謀計によりイスラエルの人々をしてベオルの事においてエホバに罪を犯さしめ、遂にエホバの会衆の中に疫病おこるに至らしめたり。されば、この子等のうちの男の子をことごとく殺し、また男と寝て男知れる女をことごとく殺せ。ただし、未だ男と寝て男知れる事あらざる女の子はこれを汝らのために生かしおくべし。云々』」

ついでに、その略奪品の例

「その略取物すなわち軍人たちが奪い獲たる物の残余(神への供物の残余)は羊67万5000、牛7万2000、驢馬6万1000、人3万2000、是未だ男と寝て男知れる事あらざる女なり。

その処分は、神への供物にそれぞれの50分の1を取った後、戦に出た者に略奪品の半分を与え、残りを戦に出なかった者で分けるというような感じである。

エリコ(ジェリコ)の戦いの前に、エホバがモーゼに言った(とされている)言葉。

「汝らヨルダンを渡りてカナンの地に入る時は、その地に住める民をことごとく汝らの前より追い払い、その石の像(すなわち、彼らの信仰する偶像)をことごとく壊し、……その地の民を追い払って其処に住むべし。……されど汝らもしその地に住める民を汝らの前より追い払わずば、汝が残し置くところの者、……汝らを悩まさん。且つまた我は彼らに為さんと思いし事を汝らに為さん。」

つまり、敵を殲滅せよ。そうしないと、神がお前たちを殲滅するぞ、ということをモーゼは彼の率いる民に神の言葉として言ったわけだ。

 

ユダヤ教の基本部分は、こうしてエジプト脱出とその後の40年以上もの放浪の間に作られたと推定できるが、もちろん、その大半は、ユダヤの民族宗教を元にしてモーゼが「神の掟」を追加したものだ。つまり、宗教の伝説的部分は伝承を利用し、規則部分はモーゼの創作というわけである。

売色とは何か

売色という言葉は最近ではほとんど聞かれなくなった言葉だが、売春と同じ意味でも使うが基本的には性的魅力を売り物にすること、異性(あるいは同性にでも)に媚びることだと私は理解している。いわゆる昔の「色小姓」というのがそれである。そしてそういう侍が軽蔑されたのは言うまでもない。侍というのは武芸や勇気や忠義で主君のお役に立つもの、というのがおそらく武士道だと理解されていたわけだろう。
現代人でも昔の大衆小説などを読んで成長した男は、「男らしくない」男を軽蔑する気持ちがあるわけだ。だから、だいたいの男はジャニーズ系の美少年タレントやホストなどを毛嫌いする。彼らが内面的に男らしい性格だろうが、どれほど努力していようが、「色を売っている」時点でアウトだということだ。
この感情は女性には理解されにくいと思う。女性の場合には「性的魅力を売り物にする」ことが社会的武器として公認されているからだ。もちろん、学校時代には他の女生徒からはそういう女性は嫌われると思う。「自分がやるのはいいが、他人がやるのは嫌」なのではないか。性的魅力に富んだ女性はあらゆる女性の潜在的な敵なのである。男の場合は、ジャニーズ系男子を嫌うのは「敵」だからではなく、単に不快な異生物に対する感情に近い。つまり「種類が違う」という感じだと思う。男だのに男でない存在への不快感だ。まあ、これは昔ながらの「男らしさ」概念の呪縛かもしれないし、生物としての本能かもしれない。女性でも本当は男らしくない男は本能としては嫌いなのだが、男の危険性や暴力性を感じさせないからペット的に好まれるのだろうと思う。