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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

子供にとっての自然と人生

例の、うちの次兄のブログだが、この辺りの時には私自身も小学生で物心がついており、幾らか記憶もある。下の話に出てくる當銘由一は、子供心にも非常なハンサムで、まさに沖縄のアラン・ドロンという感じだったが、後に銀行の現金輸送車の運転手をして、その金を盗むという大胆な事件を起こした人間でもある。下の記事にあるように、まさに「その日のことしか考えない」という精神構造の人間だったように思う。
また、山内という地域はコザ市の中で当時はまさに名前どおり山の中にあり、夜中にその山中を通るのが怖かったのは私も覚えがある。恐らく、なぜか次兄と一緒にその友人の家を訪ねたのだろう。闇の中にホタルの光が幾つか見えたのは幻想的だった。確か、小さな川にはイモリなどがいた記憶があるのは、小学校時代には昼間にその近辺で遊んだからだろう。木桃(と我々は呼んでいた。)や野いちご(実際には何と言うのか分からない。草苺か蛇苺か。)が、当時の子供には贅沢なおやつだった。


(以下引用)



想像の世界(134) 由市は、このように女好きで、女を口説くための人生だったわけだ。



想像の世界(134)  由市は、このように女好きで、女を口説くための人生だったわけだ。



コザ 市(今の沖縄市)での友達のことを話そう。

最初に友達になったのは夏休みでもあり、家主の長男坊の4歳位の男の子だ。

まだ戦後12年の時だから、那覇市はゴミゴミした感じの街で、僕たちは早速広々としたアスファルト舗装の道路の続く、諸見の大通りの新城さんと言う、当時としては大きな店を借りたわけだ。

そこは店舗兼住宅で、大通りからは僕たちは1階で、裏は坂道になっていて、僕たちは2階で、1階は家主一家が住んでいたのだ。



そこに専ら沖縄方言をベラベラおしゃべりする4歳位の男の子がいて、僕は早速その子に沖縄の言葉を習っていたのだ。

学校が始まり転入するまでの約1ヵ月間は、毎日その子と言葉遊びをしていたので、2学期が始まり新しい同級生たちの中には方言をよく使う奴もいたが、僕は割と簡単に受け答えをしていたのだ。

これは4歳の男の子との言葉遊びのおかげで、僕は今でも宮古島の方言は何とか聞き分けるが、使う方はそう上手ではないが、沖縄方言はペラペラだ。

4歳の子のレクチャー恐るべしで、今も基本は全部その時のおかげだ。

学校が始まっての最初の友達が、当銘由市で、よく学校帰りは彼の母の小さなそば屋で、そばのご馳走になったもんだ。

僕にとっては彼は驚異的な奴で、つまり、いつも数セントの小遣いを持っていたのだ。

小遣いなんて、大学になって初めて仕送りがあるまで、もらったことのない我が家では、信じられないことだったのだ。

ある意味では、それによる誘引力が1番強かったのかもしれないな。



彼は、彼が死んだ今でも親友だったと強く思っているが、考えたらロマンなんて一切ないし、想像すら考えられないタイプだったな。

ただその場を切り抜け、その日を暮らせば、又明日が来たと言う男で、ただ女には泣き落としでも口説くと言う熱意があり、2人でよく飲みに行ったが、僕はそれほど熱心でもなく、ただ由市が必死に口説いているので、しょうがなく僕も他の子を口説くというのがあったのだが、それなりに僕は僕でとりあえず彼女にした女もいたが、そんなにせっかちに体を求めるでもなく、ただ彼女として付き合っていたら、翌日由市が、“まーちゃんすまん、昨日お前の彼女とやっちゃった”、と言うので、僕は苦笑いして、しょうがない奴だなーと思いながら、“いいよ、でも俺はもうあの店にはいかないよ”、と言ったが、由市はしばらく行っていたみたい。

もっとも2人もヤッたわけだから、間も無くバレて、もう行けなくなったけどね。



由市は、このように女好きで、女を口説くための人生だったわけだ。

僕は中々趣味の合うと言うか、気の合う女と巡り会うことも少なく、数年に1度付き合えば良い方だったが、由市は常に女がいなければならない、いわば女は彼の人生そのものだったのだ。

又、車の運転は本当に上手く、まさに天才だったのだ。

時代と環境に恵まれれば、絶対F1レーサーになれた男だったと思うが、ま、その時は問題が女で、案外女の問題、物議を醸していたのではないかな。

ま、とりあえずコザ 高のアラン・ドロンでミーハーからはモテていたけどね。

僕が勝手にミーハーには由市が沖縄1モテるが、まともな女には俺が1番モテると思っていたがね。



諸見小学校6年2組に編入したわけだが、何故か2学期の級長に指名され、宮古島の平一小学校の1学期の級長に続いてて変な来ましたが、まず級長もロクな仕事はないが、ま、いいかとやったら、それでもちょっとやる気を見せなきゃなと思い、担任の浦崎キミ先生に言って、校舎の壁に大きな世界地図をペンキで描いたのだった。

20代になってたまたま見たが、まだきれいに残っていたのには、ちょっと感動した。

色を塗る時には1学期の級長を務めた親川正治が加勢してくれた。

正治は諸見里の裏のほうに住んでいて、母は体格の良い大きな女性で、それなりに美人ではあったが、どうも母1人子1人だったような気がした。

もう1人の親友は比嘉神吉で、彼の山内と言う山奥の家へは、正治の家の横を通って行ったもんだ。

由市と遊ばない時は、殆ど神吉に会いに山内へ行っていたが、暗いジャングルのような谷底の道を通っていくし、時々夜まで遊んでの帰り道は、真っ暗な木のトンネルの道は時々ガサゴソッとまるで獣でも動いてるようで不気味で、ときには幽霊でも出そうに感じたもんだ。



神吉は真面目な奴で勉強熱心でもあったし、大学も卒業し、後日話していたが、ずっと僕を抜きたい、勝ちたいと目標にしていたらしい。

僕に言わせれば、中学では僕もオール5ぐらいでかなり優秀だったが、高校では確実に神吉が勝っていたはずだ。

ただ試験にはヤマカンの働く僕は、コザ高では2番になったこともあったので、多分神吉はまだ負けていると思ったかもしれないな。

そういえば、後日議員になり国会の赤絨毯を目指すと言っていた仲宗根 国夫が、“武男は恐くないけど、誠は恐かった”、と言っていたが、僕に言わせれば、それはちょっとお門違いだな。

高江洲武男は数学者を目指し、小学校でも猛勉強スタートしていて、全琉(全沖縄)でもトップを争う成績の猛者で、勉強嫌い、勉強無視の僕とは比較にもならない男だ。

それを恐くないとは、国夫もかなり優秀なのは分かるけど言い過ぎで、僕は1度は2位になってみんなをびっくりさせたが、その時のコザ高での2位、全琉30何番が、平良鉄彦のやる気を奮起させたから皮肉なもんだ。



コザでは、後は息勇と高校1年1組で親友になったぐらいで、友はその他に、新崎盛市、高良康男、喜瀬フテツ、山内盛幸、など殆どは高校1年生のときの付き合いだ。

後は、高3で1学期だけ一緒だった高江洲義満で、彼は本当は一期上だが、事情があって僕と同じクラスになり、よく彼の家に遊びに行った仲良しだが、空手は二段で滅法強かった。

彼に勝てる高校生なんて、まずいないんじゃないかな。

もちろん喧嘩となれば、僕の脅しも中々ドスが効いて、過去10回以上喧嘩に巻き込まれたもんだが、戦わずしてみんな買っており、10数千戦無敗だ。

ま、当時はまともに戦ったら、義満には1分足らずでやれるだろうか、喧嘩になったとしたら、まず僕の勝ちだろうな。

皆さん、ヤクザで強い奴の厄介なのは、1番脅しの凄い奴か、しつこい奴なんだ。

だから基本的にヤクザとはっきりしたら、まず逃げることだ。

そうだな、逃げるが勝ちと言うことだってあるんだから、命には代えるものもないしな。



高校を出て、いわば一浪した形で遊んでいたが、昭和大学薬学部に合格したが、つまらないので休学したら母に勘当され、しょうがないので由市と一緒のバイトで左官屋をしたら、そこが高江洲武男がやっている左官屋で、なんと武男もいるんだ。

聞くと東北大学の数学科に入学し、末は大学に残り数学者になるつもりだったが、東北大学の数学科には、沖縄に1、2位を争った武男より優秀な奴だらけで、1年も経たずに大学を辞めて兄のところで左官屋になったと言うのだ。

全く人の運命なんて分からないもんだよ。



だが、それからしても、テレビで長年に渡ってコメンテーターしていたり、もてはやされているものは、おそらく凄く頭の切れる奴だと思うね。

要するに、彼らは皆ただ者じゃないのだ。

政治家でも長年にわたり組織のトップクラスに上り詰めた奴は、やはりただ者じゃない頭の良い、度胸もある人だと思うな。

ただ問題は、人の一生は限られており、誰がいい一生だったかは、人それぞれで何とも言えないな。

ま、俺の基本は傍観者で、1番得した人生だったと思っているがね。



2019年5月27日




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