神道の発生とその意味
司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に「ポンぺの神社」という話があるが、これが日本における神道の起こりを暗示する話である。
それは、江戸期にオランダ人ポンぺから蘭学(主に医学)を学んだ山口の人が、ポンぺの学問の深さと教育への熱意に感動し、郷里に帰ってから実家の庭に祠を作り、それを「ポンぺ神社」として毎日拝み、家族にも拝ませた、というような話である。もちろん、ポンぺ本人の知らないことである。
「唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれるものの一形態ではないだろうか」と司馬遼太郎は書いている。
この言葉は非常に示唆的だと思う。
神道の本質は何か、納得のいく説明をした人は少ない。自然現象などを恐れて、これは何かが祟るのだ、と思って、祟りを受けないようにと祭ったのが神道だ、という解釈もあるだろうし、森羅万象に魂があるとするアニミズムの一種だ、とする人もいるだろう。
だが、古代の神道はともかく、近代の「東郷神社」や「乃木神社」に見られるように、普通の人間を神として祭るのが日本の神道の特徴であり、それなら、無名の人間の人格や行為に大きな感動を受けた人が、その人間を神として祭ることもあっていい。むしろ、それが日本的な「神」だったのではないか。(我々は「神」を、まず西洋的な絶対神としてイメージするから日本の神道が理解できなくなるわけだ。)
要するに、何かへの「畏敬の念」というのが先にあり、それを形にしたのが祠であり神社であるわけだ。
西洋の宗教のように教義や(フィクションとしての)神が先に存在するのではなく、自分が畏敬する存在が「神」になるのである。
「神」とは要するに「上(かみ)」と同義だったのではないか、と私は思う。すなわち、自分より高みにいる存在である。
自分のまったく及ばないような何かを持つ人間(あるいは動物でも自然現象でもいい)を畏敬する気持ちが神道の本質だ、ということである。
なぜ、その畏敬の気持ちを祠のような物や礼拝などの儀礼にするかと言えば、それを目に見て拝むことで、自分の畏敬の気持ちをその度毎に新たにするという、一種の知恵だと思う。拝むことで精神が高まり、勇気も得られる、ということだ。
これが、多くの神社が特に軍人を祭る理由でもある。(国策としてそういう「軍神」を祭ることの弊害は今は措いておく。)
死者であるというだけで神になるのではない。
それは、江戸期にオランダ人ポンぺから蘭学(主に医学)を学んだ山口の人が、ポンぺの学問の深さと教育への熱意に感動し、郷里に帰ってから実家の庭に祠を作り、それを「ポンぺ神社」として毎日拝み、家族にも拝ませた、というような話である。もちろん、ポンぺ本人の知らないことである。
「唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれるものの一形態ではないだろうか」と司馬遼太郎は書いている。
この言葉は非常に示唆的だと思う。
神道の本質は何か、納得のいく説明をした人は少ない。自然現象などを恐れて、これは何かが祟るのだ、と思って、祟りを受けないようにと祭ったのが神道だ、という解釈もあるだろうし、森羅万象に魂があるとするアニミズムの一種だ、とする人もいるだろう。
だが、古代の神道はともかく、近代の「東郷神社」や「乃木神社」に見られるように、普通の人間を神として祭るのが日本の神道の特徴であり、それなら、無名の人間の人格や行為に大きな感動を受けた人が、その人間を神として祭ることもあっていい。むしろ、それが日本的な「神」だったのではないか。(我々は「神」を、まず西洋的な絶対神としてイメージするから日本の神道が理解できなくなるわけだ。)
要するに、何かへの「畏敬の念」というのが先にあり、それを形にしたのが祠であり神社であるわけだ。
西洋の宗教のように教義や(フィクションとしての)神が先に存在するのではなく、自分が畏敬する存在が「神」になるのである。
「神」とは要するに「上(かみ)」と同義だったのではないか、と私は思う。すなわち、自分より高みにいる存在である。
自分のまったく及ばないような何かを持つ人間(あるいは動物でも自然現象でもいい)を畏敬する気持ちが神道の本質だ、ということである。
なぜ、その畏敬の気持ちを祠のような物や礼拝などの儀礼にするかと言えば、それを目に見て拝むことで、自分の畏敬の気持ちをその度毎に新たにするという、一種の知恵だと思う。拝むことで精神が高まり、勇気も得られる、ということだ。
これが、多くの神社が特に軍人を祭る理由でもある。(国策としてそういう「軍神」を祭ることの弊害は今は措いておく。)
死者であるというだけで神になるのではない。
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