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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

暴力と政治

某書評の一節だが、埴谷雄高や高橋和巳に「内ゲバの論理」を論じたものがあったように思う。しかし、難しい本をわざわざ読む気はないから、この問題を自力で考察してみる。

(以下引用)

 余談だが、評者はかつて、100人以上の死者を生んだ過激派の内ゲバについて、その精神病理を研究している学者はいないか、探ったことがある。もとは「普通」だった若者が「殺人」を繰り返すようになったのはなぜか? ところが、「暗殺」という大昔の事件を調べている学者はいたものの、「内ゲバの病理」を研究している学者はいなかった。理由は簡単で、非公然組織に属する「内ゲバ専従犯」が捕まっておらず、自供も得られていないので研究ができないということだった。

 過剰な正義意識が一線を越えて逸脱する様々な実例の背後には、個人や組織、指導者など入り組んだ事情があると思われる。時々の社会情勢や長い歴史的な軋轢も含まれる。直ちに結論が出そうな話ではない。


(引用終わり)


実は結論が先にあって、

1:暴力は常に「弱い相手」に向かう。
2:暴力は常に「目の前の相手」に向かう。
3:暴力は常に「具体的な相手」に向かう。

もちろん、この「常に」は「基本的に」を強い口調にしただけだが、「内ゲバの論理」は、この単純な「人間性の原理」に沿っているだけのことではないか。
そこに、「自分は正義である」というキチガイ信念が入り込むと、陰惨な暴力事件になり殺人事件になり、リンチ事件になり、暗殺事件になるわけだ。

埴谷雄高は、政治の原理を単純化したら「あいつは敵だ。敵を殺せ」だとしたが、確かに国家や政府が敵なら、敵を破壊すること、つまり殺すことが革命だとなる。あるいは、他政党が敵なら、敵の立ち位置を粉砕して勢力をゼロにすることが「敵を殺せ」になる。
だが、これは政治闘争の原理であって、政治のすべてではないのは当然だ。政治とは何より国民(民衆)の幸福の増進に存在意義があるのであり、たとえ政府が国民の敵だとしても、政府の人間を殺し尽くしたり、公務員を殺し尽くしたり、政府という存在を無くしてアナーキズム社会を作れば国民が幸福になるものではない。
つまり、政治とは闘争だ、という思考法は政治の本質を見失ったものではないか。
では「話し合い」ですべてが解決するかというと、強者と弱者の間では話し合いすら不可能というのが現実だろう。民主主義というのは「人は道義に従うはずだ」という錯覚の上に立つ幻想だ。
とすれば、どういう道が可能か、それは別項を立てて考察したい。



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