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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

新しい「教育勅語」のこと

私は思想としてはウェッブ夫妻のような漸進的社会主義者で、議会を通じて社会主義的政策を拡大するのが社会全体の幸福につながると思っている。つまり、大雑把に言えば左翼のひとりになるのだろうが、文化的には保守主義者であり伝統主義者であり、したがって天皇制(象徴天皇制)は護持すべきだという意見である。自由主義思想というのは、それが行き過ぎると新自由主義になり、経済的には労働者の貧困となり、文化的には道徳の破壊になる、と思っている。下手をしたら「法の支配」すら失われるのが自由主義の極点だろう。つまり、人間の動物化であり、社会のジャングル化だ。力がすべてを支配する世界である。
ここでとりあえず問題にするのは「道徳」である。「倫理とは禁止の体系である」というのは倫理のもっとも見事な定義だと思う。つまり、その「倫理」の内容は問わず、何かが「禁止される」というのが倫理だということだ。倫理の「倫」とは「道」の類語であり、それ以外の道を歩くことが禁止されるわけである。ただし、その禁止が緩い社会と厳しい社会がある。イスラム社会などは厳しい倫理の社会だろう。当然、「発展性」は無い社会になる。厳しい倫理のある社会だからいいという話でもないわけだ。だが、あらゆる倫理が消滅した社会というのも一種の地獄かもしれない。たとえば、強者が弱者を「気に入らない」だけで殺しても、それが許される、というのがその極端な事例だ。もちろん、倫理の代わりに「法」がある、というのが一般的な考え方だが、「誰が法を守らせるのか」が問題である。法の番人自身が法を守らない社会はたくさんある。

要するに、日常の生活では倫理がガイドラインとなり、重大問題では法がガイドラインになる、というのが普通だろう。倫理には基本的に罰が存在しない、というのが法との違いだ。罰があるとしたら、「自分の良心が咎める」ことだけなのである。

私がこの文章を書き始めたのは、実は「教育勅語」の現代版、つまり「皇室」とは切り離した形での、子供に最低限の倫理を教える文章(暗誦しやすい文章)を作ると、社会道徳の維持に案外効果があるのではないかな、と思ったからだ。
世間の犯罪を見ると、あまりに愚かすぎて、彼らは悪い事が悪いと教わった経験がまったく無いのではないか、という気になるわけだ。そこで、最低限の道徳を子供に教えるのは意義があるのではないか、と思うわけである。

具体的には第二段の語句を一部変えればいい。

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵

「我ら国民、父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し博愛衆に及ぼし学を修め業を習い以て智能を啓発し徳器を成就し進みて公益を広め世務を開き常に国憲を重んじ国法に従わん」

国民の守るべき倫理道徳はこれだけで十分だろう。



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