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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

恋は愛ではない

文庫本で、キューブリックの映画「アイズ・ワイド・シャット」の脚本と、その元になったシュニッツラーの短編小説「夢小説(夢の話)」を合本にしたものがあって、それを連続で読むと非常に面白い。まず、映画が小説の真髄を見事に映画化していること、それにも関わらず、小説が表現したことを映画では省略した部分(妻の第二の夢告白内容の詳細)があることだ。
シュニッツラーの小説を読んだのは初めてだが、これほど人間心理の深みに入ることができた作家だとは知らなかった。むしろ、「輪舞」のような、軽妙なエロ的状況を描くのが得意な単なる才人だと思っていたのである。「夢小説」における心理解剖は、ドストエフスキーを凌いでいるかもしれない。少なくとも、恋愛という現象については、彼と並ぶのは、「クロイツェルソナタ」におけるトルストイくらいだろう。
つまり、恋愛というのは「愛する価値があるから愛する」のではまったくないということだ。そういう「取り引き」ではなく、合理性も理性もそこにはない。嵐のような感情に襲われるのである。愛よりも、むしろ性欲のほうが恋愛には近いとすら言える。相手がどのような下種でも、その相手に性欲を感じるのと同様に、どんな相手でも、交通事故のように恋愛は生じるのである。恋愛は祝福ではなく、むしろ呪いに近い。安全さの中にとどまるかぎり、それは恋ではなく、「損得計算」である。
ちなみに、「夢物語」の妻は、この上なく誠実で優秀な医者である夫を愛していながら、旅先で一目見ただけの男に恋をし、その男に誘われたら夫も幼い娘も捨ててついて行っただろうと夫に告白する。夫はその告白に自分の人生が破壊されたような衝撃を受けるのだが、当然だろう。つまり、この「現実化しなかった不貞の告白」は、現実の不貞とまったく変わらないのである。そこにあるのは、男として、妻の目からは自分は旅先で妻が一目見ただけの男にまったく及ばないという屈辱なのである。長い間の夫婦生活も献身も妻の「恋」の前では無価値だったわけだ。
「愛の嵐」という題名の映画があったが、嵐のたとえがふさわしいのは、愛ではなく恋だろう。そして、そういう嵐のような恋の前には、自分の人生のすべてを投げ出してもいいという女性もかなりいるのではないだろうか。(文学の上では、恋に身を滅ぼす男もしばしば描かれるが、現実には男は「社会生活」との損得勘定が先立つから、そういう「恋愛向きの男」にはなれないのが普通だと思う。せいぜいが、セックスの相手になるだけだ。つまり、女性が「恋」をする相手の男の中身は、まったく愛するに値しない下種であることが多いようだ。当然、その男から見れば相手の女性は「やり捨て」の対象である。もちろん、それでも、女性から見ればそれは「恋の成就」なのである。)


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