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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「弾圧される側」としての左翼とエロ表現者の共闘

左翼とは定義的に「現状変革」を主張する政治思想であるから、世の中が変わらない限り(大きく言えば革命が成し遂げられるまで)常に体制側から弾圧される存在であり、その「思想の表現」も当然弾圧されることになる。
そういう意味では「現在の体制的道徳」に抵抗する表現、つまり過剰な性的表現が弾圧されるのと構造は同じであるわけだ。
昔から反体制思想家の多くが性的に放縦であったのは当然であるわけだろう。
要するに「表現の自由」においてエロ小説家やエロ漫画家、エロ画家は左翼思想家と同じ陣営に自然と属することになる。
だが、下で紙屋氏が言うように、左翼思想家でも性的には旧来の道徳を重んじる人もおり、エロ陣営の人でも政治的には右翼である人も無数にいるわけで、同じ「弾圧される側」だから共闘できるとは限らないわけである。
なお、過剰なエロ表現を「エロ目的ではない」と言い張るのは、それこそ偽善と欺瞞の最たるものだと私は思っている。そうではなく「エロでなぜ悪い」と言うべきだろう。
そして、これは偏見かもしれないが、私は性的に放恣な人間が他の面では健全な道徳性を持っているとはまったく信じていないのである。道徳や倫理は社会的必要性があって形成されてきたものであり、その否定には細心の注意を要するだろう。性欲の赴くままに行動することが正しいと言うなら、行きずりの女性をその場で強姦する、原始人的行為は正しいわけである。配偶者がいるのに不倫をするなら、結婚関係は無意味であるかただの束縛だということになる。(もちろん、「経済的寄生」目的の結婚関係は珍しくはないだろうし、経済的メリットが結婚の動機の一部であることは咎められることではない。だが、私は男女を問わず不倫を無思慮で「汚らしい」行為だとしか思えない。要するに、それは陰湿で下品な「裏切り」行為であるからだ。)
ちなみに、女性は恋愛感情は婚姻関係に優先する、と漠然と思っているだろう。性的関係は社会関係に優先する、と言い換えてもいい。これは女性が男性より自然的存在だからだ。子供を産み育てる性であることは頭で考えた理屈に優先するわけで、性的関係もその一環として理屈、つまり社会道徳に優先するはずだ。
これは、「現代倫理学概論」の最初に書いた、『土佐源氏』の、汚らしい馬子が「優しくして、セックスを許さなかった女は一人もいなかった」という事実からそう推定できる。

(以下引用)


 ぼくは左翼の一人ですから、左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました。もちろん、世の中でメインに表現規制を要求しているのは支配層であり、右派の人たちだろうという現実はあるのですが、それをただすべき左派の中に右派と似通った傾向が生じていないか、左派の一人として気になって仕方がありません。

 ぼくがかつて中学生だった頃に、筒井康隆のエッセイ(「差別語について」)で、いわゆる「差別語」狩りによって古典落語が次々と口演不能に追い込まれていく現状をあげて、

最近「赤旗」の編集者と知りあえた。共産主義は体質にあわないし、共産党はあの組織や制度の仕組みがいやだが、この問題に関しては「赤旗」と手を組んでもいい、と、ぼくは思っている。(筒井『やつあたり文化論』新潮文庫Kindle No.2721-2722)

と書いていたのを読み、「筒井がここまで政治的に踏み込んで支持をするのは実に珍しいのではないか。そこまで言わせると言うのは、共産党は一体どういう主張をしているのか」と興味を持ったことがあります。

 その後、高校生になってから「いわゆる『差別用語』問題について」という日本共産党の論文を読みました。

 ことばは現実の反映である。ことばだけをタブー(禁句)にしても、現実の差別はなくならない。戦前の支配者は、現存する君主制への批判をおさえようとして、“不敬語”と称する用語上のタブーをつくりだした。戦後はアメリカの占領支配への批判をおさえつけるため、占領軍という用語をタブーにし、“進駐軍”という用語に統一した。

 社会に不当な状況や不当な差別が現存する場合に、その実態を放置したままでことば、表現だけをタブーにするのは、問題の真の解決にならないことはあきらかである。不当な差別を実態的にも、心理的にも克服、解決するという積極的立場から、ことばや表現の問題にも対処していくことが重要である。まして、「差別用語」や「差別的表現」でないものを「差別語」だとこじつけてタブー視するのは、現存する不当な事態や差別を克服する問題を後景にしりぞけることにさえなる。

 〔……〕勝手な「差別語」狩りや「タブー」拡張に反対し、あくまでも言論・表現の自由のためにたたかうものである。(「赤旗」1975年6月9日)

 この論文が非常に印象に残り、ああこれが筒井の言っていたことだったんだな、と腑に落ちた記憶があります。

 ぼくにとって共産主義者とか左翼というのは表現の自由を徹底的に弾圧された歴史的当事者であり、そのために命がけで闘う存在であるというイメージがありました。

 それだけに、最近の左派界隈での風潮の変化には戸惑いがあるのです。

 そしてそのような変化は完全に間違っているわけではなく、正しい契機と誤った契機が混在しています。



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