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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

批評と礼儀正しさ

何とか樹の文章の一部だが、思考テーマとして面白いので考えてみる。先にその短い部分を引用する。
(以下引用)
批評的でありながら礼儀正しい文体というのがどういうものか知りたい人にはアナトール・フランスの『エピクロスの園』とクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』をご推奨したい。何が書かれているかを理解するよりも先に、彼らの息の長い文体そのものを味わって欲しい。複雑なことを言うためにはそれなりの知的肺活量が必要だということがわかるはずだ。それがわかるだけでも読む甲斐がある。

(以上引用)

「批評的でありながら礼儀正しい文体」というのがよく分からないのだが、批評的であることを「罵倒的」だとか「喧嘩腰」であることと混同している人間が多いという文脈のようだ。
しかし、一流の批評文は礼儀正しいのが普通であり、いや、と言うよりも一流の批評家はまともな人格を持っているからその文章に品位があるのは当然だろう。一時期の日本の文壇の下品な喧嘩は除外する。そういう連中はもともと人格が下品なのである。つまり、アナトール・フランスとかレヴィ・ストロースの文章は私はひとつも読んだことが無いのだが、「批評的でありながら礼儀正しい文体」というのはどの国の文壇でも当然のものだったと思う。しかも、それが「何が書かれているかを理解する」のが困難な「息の長い文体」であるらしいから、まったく読む気にもならない。レヴィ・ストロースなど、「野生の思考」を称揚することで西洋完全優位思想に一撃を加えただけで、その書物を読む必要などあるのか。アナトール・フランスも、既に過去の文学者であり、それより時代の古いディケンズやドストエフスキーが未だに文学的生命を持っていることとは比較にならない雑魚だろう。批評家としても、フランスには有能な批評家はほかにたくさんいるはずだ。日本でも、たとえば小林秀雄や三島由紀夫は、その切り口の鋭さではやはり一流の批評家だったと思う。(小林秀雄は「論理」ではなく「感性」が優れていた批評家である。)

「ウィキペディア」の一部を転載する。つまらないアイデアである。「概念」と「記号」は思考素材機能として本質的に同じであり、記号はより感覚に訴えるだけだろう。つまり、概念に名前や比喩的形象を与えたのが記号である。

野生の思考とは、ありあわせの素材を用いて入り用の物を作る場合(ブリコラージュ)に例えられ、器用人の思考様式と特徴づけられる。それは、眼前の事象を考える際に、その事象と別の事象との間にある関係に注目し、それと類似する関係性を持つ別の事象群を連想しつつ、それらを再構成することである。そして、それらの事象に異なる意味を与え、新しい「構造」を生み出せる。それは、理論と仮説を通じて考える科学的思考と基本的に同質なものである。両者の相違については、科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」である。
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