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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「秘事」と「謎」の違い

司馬遼太郎が生涯唯一書いた推理小説(彼はこのジャンルにまったく興味もなく、実に不出来な作品だったようだ。)の後書きに、こう書いているらしい。

「私は、推理小説に登場してくる探偵役を、けっして好きではない。他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない。それらの探偵たちの変質的な詮索癖こそ、小説のテーマであり、もしくは、精神病学の研究対象ではないかとさえおもっている。そういう疑問が、私という小説読者を推理小説にちかづけなかった云々」

これは、編集者に乞われて、つい苦手なジャンルに手を出し、不出来な小説を世に出してしまったことへの言い訳に聞こえるが、自分でも実際そう思っていたのだろう。しかし、これはおかしな言い分だと思う。
詮索癖はむしろ司馬遼太郎の作家としての美質であるし、だからこそ膨大な文献を渉猟して作品を書くという作風だったのではないか。そして、彼が作家になる前に仕事としていた新聞記者(社会部ではなく文芸部ではあっても)という職業も、まさに詮索そのものが仕事の基本業務である。

それはともかく、司馬の間違いと思われるのは、推理小説の中の探偵は、松本清張などの「社会派推理小説」を除けば、けっして「他人の秘事をあばきたてること」を目的として探偵活動をしているのではないことだ。それは、古典的推理小説の名作を幾つか読んでみれば明白だろう。
彼らは、「事件の謎」に興味を惹かれて、その謎を解くことに夢中になるのであり、「他人の秘事をあばきたてる」のは単にそれに付随するだけの、「小説に結末をつけ、読者を満足させる」だけの意味しかない。探偵自身の興味はそこにはない。
謎を持った事件が無ければ、探偵たちは数学の問題でも解くか、クロスワードパズルを与えれば、それで満足するはずである。
要するに、「謎」と「秘密」はまったく別物なのであり、探偵たちが興味を持つのは「謎」に対してであり、「他人の秘事」などではない。

もちろん、夏目漱石の探偵嫌いも、現実の警察官や昔の岡っ引きのように、「他人の秘事」をあばきたてる連中を「探偵」と呼んでいたのである。






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