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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

老化障害と「歩くこと」

「東海アマ」ブログだが、自分自身の体験も含む、かなり的を射た考えだと思う。
私は膝が悪くて歩くのが苦手なのだが、そのためにいろいろ障害が起きているらしい。
まあ、今からでも毎日歩くように努力しようとは思う。

(以下引用)

死より怖い認知症

カテゴリ : 未分類
 
 父も母も最期は認知症になって死んだ。
 80歳を過ぎて認知症と無縁の人はほとんどいない。誰でも、権力・身分・蓄財の差別なく、高齢になれば、脳が劣化し、認知機能が衰え、まるで子供のように他人に世話になって死んでゆかねばならないが、認知機能の進行は、ときには死よりも、はるかに恐ろしい。
 認知機能というのは、人格そのものであると考えることもできるからで、それが崩壊することは人格の崩壊、消滅を意味するのだ。それは死と同じものだ。

 https://payroll-memo.work/teinenn/

 私は一人暮らしなので、自分の世話を自分でできなくなったときが、自分という人格存在の終わりだということを思い知らされている。
 トイレに立てなくなれば、布団も衣類も部屋中も糞尿だらけになってしまう。食事も水も自分で取れなくなれば、数日で死んでしまうだろう。
 最期は、自分で自分の始末をつけるしかないと覚悟している。せめて、それくらいの認知機能は残しておきたい。

 介護保険があるとはいっても、せいぜい気休め程度だ。あれは、小泉純一郎が新たな金儲けシステムの介護産業を設立したということであって、それが認知症問題を解決するわけではない。

 母子二人を殺した飯塚工業技術院元院長の裁判経過を見ていれば、誰にでも老化ということの意味が理解できる。
 彼は、自分のことにしか関心がなく、自分を正当化することしかできない。「他人に対する思いやり」の認知機能が完全に欠落しているのだ。
 日本中の優秀な介護士を動員しても、飯塚氏の認知機能を正常に戻すことはできない。だが、それは誰にでもやってくることだ。告発する松永さんにもやってくる。

 だが、今から半世紀以上前、たぶん認知症は今より圧倒的に少なかった。

忍び寄る「総認知症社会」の恐怖 2021年04月30日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1479.html

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私が自分自身の認知症を疑い始めたのは、たぶん50歳を過ぎたあたりからで、最初の症状は、直前記憶の喪失と、固有名詞記憶の喪失で、とりわけ固有名詞を思い出すのに、ずいぶん時間がかかるようになったことにショックを感じていた。
 他人と話す言葉のなかで、「あれ、それ」という指示代名詞がやたらに多くなった。

 実は20歳前に、バイクで転倒事故を起こし、大脳萎縮障害の後遺症が残ったので、そのせいで海馬が萎縮し、記憶力がひどく衰えたことに気づいていた。
 事故以前から古典ギターを自習していたが、事故以降、記憶力がひどく衰えて長い曲が覚えられなくなった。
 これが、たぶん50歳以降、急速に記憶力が悪化した原因ではないかと思っていた。

 だが、いろいろ調べてゆくうちに、人間は50歳を境にして、海馬が衰えてゆくのが普通で、だからこそ、1960年台まで、企業の定年は事務系で55歳、現場系で50歳という若さだったのだ。
 https://payroll-memo.work/teinenn/

 つまり、人間は50歳を過ぎると、もはや使い物にならないと思われていたわけだ。
 その後、定年制度が延長され、60歳、あるいは65歳が普通になり、今では竹中平蔵が「90歳まで働かせる」と公言する時代になったが、竹中や安倍晋三の思惑が通用するはずがないことは、上の行方不明グラフを見れば一目瞭然だ。
 人々の平均寿命は上がったが、精神的健全性は衰える一方なのだ。

 過去のブログで繰り返してきたように、我々の世界では、何かを得れば、引き換えに何かを失うようにできている。
 この意味でいうと、我々が「便利さ」と引き換えに、脳機能や精神の健全性を失ってきたことが明らかだ。

 「便利さ」というのは、車とパソコン、それに労働と労働時間の減少だろう。
 車の歴史も100年を超えるのだが、それがもたらした最大のものは、おそらく人々から「歩行時間」を奪ったことだろう。
 つまり、車は人から「歩く時間」を奪った。我々は車によって歩かなくなった。これが認知症の激増と完全に一致することは明らかだ。

 「歩くこと」の本当の意味は、第二の心臓といわれる「ふくらはぎ」を稼働させることだ。立つ動物である人間は、重力のせいで全身の血液が下腿に集まる仕組みがある。
 これをふくらはぎの筋肉が歩くことで収縮させ、心臓に血液を押し戻す機能がある。
 歩く時間が減ると、下腿の血液が心臓に戻りにくくなり、歩けなくなった人々の大半が、下腿が腫れることになる。

 そうなると下腿の大静脈に「深部血栓」ができやすくなり、ちょうど「エコノミークラス症候群」と同じ状態になってドロドロになった下腿の血液が全身に送られるなかで、肺塞栓や心筋梗塞、微小血栓による脳梗塞などが起きやすくなる。
 何よりも、全身の体液の循環が滞りがちになってしまう。

 このことが認知症の最大の原因ではないかと、すでに半世紀以上前からくり返し指摘されている。
  https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8712_2.php

  https://special.nissay-mirai.jp/jinsei100y/hints/C2IV9

 アルツハイマーの原因はアミロイドβやタウ蛋白といわれているが、これが脳に蓄積すると深刻な認知症を発症する。だが、こうした認知症発症物質は、かなり前から知られていて、毎日運動して体液の循環が活発な人は、血流に流されて消滅することも知られている。
 最近発表された600万円もするアミロイドβ除去薬など使わなくとも、ただ毎日一生懸命歩いていれば、脳から有害物質が排泄されてゆくのだ。

 だから、車の便利な快適生活による運動不足が、認知症を引き起こしていると考えるべきなのだ。
 歩かない人には、アミロイドβの蓄積→認知症という罰が与えられると考えてもよい。

 私が、このブログを、ほぼ毎日更新して、すでに5年くらいだが、わずかな量の文章であっても、アイデアの種が尽きて、本当に書けないときがある。
 書いていて、突然、脳がヒステリーを起こすこともある。これは脳に蓄積した有害物質が悪さをしているのだと考え、対処法として、体液の循環を促す40度30分以上の入浴とか、散歩とかをすれば、また脳が活性を取り戻して書けるようになる。

 私は、間質性肺炎で、早朝、5Km以上歩かないと、呼吸ができにくくなって苦しいので、この5年程度は、ほとんど毎朝歩いているが、標高差150mの山道を歩いて帰宅すると、脳の血流が回復して、呼吸も楽になり、多少の文章も書けるようになる。

 だから、今では歩けない台風や豪雨の日は恐怖だ。散歩道には熊やマムシが出てくるが、そんなものより、認知症の方がはるかに怖い。
 歩かなければ、前立腺癌治療のために毎日飲んでいるホルモン剤のせいで、たちまち深部血栓ができて、それが脳や肺や腎臓に回って微小梗塞を起こすことが分かっている。脳に入れば微小脳梗塞から脳細胞死滅を引き起こす。
 だから必死になって、ふくらはぎを稼働させているのだが、このことで、辛うじて認知症の進行を食い止めているという自覚がある。

 便利になったことを喜んで歩かない人々は、自分の未来を崩壊させているようなものだ。例え、長寿を全うしても、その大半が認知不能状態であれば生ける屍であって、生きていることの意味がない。
 なお、認知症の発症について、歩かないこととともに、糖尿病発症も大きな要因となっていることを書いておかねばならないが、歩かねば糖尿病になるので、これも必死に歩くことで解決できる問題だ。

 https://www.healthcare.omron.co.jp/resource/column/topics/112.html

 https://info.ninchisho.net/prevent/p70

 糖尿病になれば、医者に行って薬をもらうという発想は、いいかげんやめた方がいい。根本原因は、運動不足からオーバーカロリーが有毒化しているということなので、本当の解決策は一生懸命歩くことしかない。それも、山道のような傾斜で、汗をかいて日光を浴びながら日7000歩を毎日欠かさず歩けば解決できるのだ。

 これからの老人は、便利さを捨てて、何が何でも歩くという姿勢を大切にすべきだ。
 ふくらはぎという第二の心臓を活性化させることで、全身のドロドロ血液、血栓を掃除する。
 実は、車の問題だけではなく、コンピュータにも同様の問題が隠れているのだが、これは別の機会に。
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