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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

労働者の未来像

単なるメモである。考察は今は特にしない。

(以下「紙屋研究所」から引用)

他人に雇われる働き方はなくなるのか?

 

 今回、不破哲三社会主義論にちょっと戻ります。
 不破が『マルクスと友達になろう』で述べている次の箇所についてです。

 「生産手段の社会化」によって、社会がどう変わるか。具体的に見てみましょう。
 まず、人間の労働のあり方が根本から変わります。他人に雇われて他人の利潤のために働くという「雇用」関係そのものがなくなって、労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどすのです。(不破前掲書p.47、強調は引用者、以下同じ)


 これをどういうふうに読むか、ってことです。
 ふつうに読むと、雇用関係の否定ですよね…。
 だって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ってあるもの。特に「他人に雇われて」の部分。
 だから、不破の考えている社会主義経営体って、労働者=経営者、あるいは協同組合のようなものかと思いますよね。
 協同組合とは何か、についていろいろ議論がありますが、ざっくりと言えば、「利潤追求ではなく、生産・生活の向上などの目的をもったメンバー(組合員)による、平等で民主的な運営にもとづく経営体」とでもいいましょうか。


 株式会社との違いをかいた下記のJAの解説がわかりやすいでしょう。
https://org.ja-group.jp/about/cooperative


 マルクスも協同組合を、社会主義社会でのひとつのスタイルとしてあげたことがあります。


 ただ、当の不破自身は別のところでこう言っています。

 〔生産手段の――引用者注、以下同じ〕社会化の方式には、いろいろな形態がありうるでしょう。マルクスエンゲルスにしても、その具体的な形態として「国有化」をあげたこともあれば、当時、イギリスなどでかなりの発展をとげていた労働者の集団による協同組合工場を頭に描いて、協同組合による社会化の形態を実例としてあげたこともあります。高度に発展した生産力をふまえて、生産手段の社会化を実現するというのは、人間社会にとって新しく開拓される経験ですから、当然、そこには、いろいろな形態が生まれ、その有効性、合理性が実際の経験によって試されて、またそれにもとづく淘汰や進化の過程をへることでしょう。
 〔日本共産〕党綱領は、そのことを考慮して、これが社会化の日本的な形態となるだろうという調子で、あれこれの特定の形態をあげることはしていません。(不破『新・日本共産党綱領を読む』p.367-368)


 不破が「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくなって」と言っているのは、どうも協同組合(もしくは公有企業)のようにしか思えないけど、「特定の形態をあげることはしていません」というのとは矛盾するんじゃないか、という思いも一瞬持ちます。
 もしここで不破のいう「他人に雇われて」が文字通りのことしか意味しないんだったら、ぼくはこういう社会主義像は狭すぎると思いますね。


 これでは株式会社のような形態や利潤追求型の企業体は、すべて否定されてしまうんじゃないでしょうか。あくまで不破が書いた「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、ということをその通りに受け取れば、ですが。



 結論めいたことを先に書いておけば、今の株式会社で働いている人たちが経営に民主的に参加できるルートができることが「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る一つの道だし、また、その従業員である人たちが、同じ企業や別の企業の株主、消費者、取引先、地域住民など、その会社に外側からかかわっている人(いわゆるステークホルダー)となって、会社の経営に口を出して参加していく多様なルートもふくめて、そういうものが全体としてあわさって「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」ることではないかと思うのです。

社会主義の形態は別に協同組合と決まっちゃいねーよ

 この点で、松竹伸幸の指摘は示唆に富んでいます。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/Lenin-saigono-mosaku.html

 …マルクスレーニンが協同組合を強調したからといって、現在の日本に生きる人びとが社会主義とは協同組合を前進させることなのだと考える必要はまったくない。マルクスレーニンが、目の前に存在するものから将来社会の形態を洞察したように、日本の現実をふまえて考えればよいのである。 


 たとえば、第二次世界大戦以降の資本主義においては、協同組合企業というものは目を見張るような発展をみせずに、逆に、株式会社がどんどん力をもつようになっていった。同時に、そういう力を得た株式会社を国民がどう規制していくのかが問われるようになった。
 株主となって発言権を得るというのも、その一つである。問題のある商品を生産している企業には投資しないというやり方も生みだされた。それらをつうじて、企業の社会的責任という概念が誕生し、消費者、従業員、地域、環境に対する責任を企業がどう果たしていくのかが問われるようになった。


 現在、ポスト資本主義の道を探っていくうえでも、資本主義の枠内の改革をめざしていくうえでも、大切なことは目の前の現実である。その現実のなかに、新しい社会の要素があるのかないのかを見極めることが、変革を成し遂げるうえで不可欠なのである。株式会社というのものを、そういう目で分析し、考察する必要がある。(松竹『レーニン最後の模索』p.128)

 松竹は、レーニンに学ぶというのは、レーニンが目の前の現実の苦闘の中からネップを編み出したその着眼に学ぶということであり、レーニンの片言隻句を紹介したり、逆に「今さらレーニンかよw」と嘲弄することでもないとしています。

株式会社でもいいんじゃねーの?

 別の角度から言いましょう。
 「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係そのものがなくな」る、というのは、契約をして雇用されるという働き方の否定、あるいは利潤追求企業や株式会社を否定することなのでしょうか。
 そうではないと思います。
 契約を結んで雇用される、その会社は株式会社である――そうであったとしても、「他人に雇われて他人の利潤のために働くという『雇用』関係」を克服して、「労働が、自分自身と共同社会のための生産活動という、本来の性格をとりもどす」ことはできるのではないでしょうか。


企業とは何か―企業統治と企業の社会的責任を考える 会計学者である角瀬保雄は、マルクスが協同組合と株式会社に、経営体の公共性、共産主義社会の萌芽を見たとして、そのいずれについても「マルクスが一九世紀の協同組合工場にみたアソシエイションの今日的展開」(角瀬『企業とは何か』p.208)としました。
 角瀬は、ヨーロッパ資本主義の中で、例えばドイツにおける労使の「共同決定」などを紹介します。

ドイツの株式会社では監査役は取締役の上に立ち、取締役を選任するという独自の構造をもっていて、監査役の地位はたいへん高いものがあります。そして従業員二〇〇〇人以上の企業では監査役の半数が株主代表と並んで従業員代表から選ばれなければならないと法律で決まっています。(角瀬前掲p.136)

 この他に、社会的パートナーシップとか欧米における労働者の所有参加について書いています。
 「所有参加」などは、日本の上場企業での従業員持株制度が紹介されています。数%株を持てば大株主という状況の中で、従業員は1%持っているんですけど、「多くは会社では総務部長が株式を預かっていて、その議決権は社長の力を強めるだけの役割しか果たしていません」(角瀬p.140)という状況が書かれています。


 現実にどれくらい機能しているか別にして、株式会社の中で労働者が経営に参加するしくみはいろいろ生まれています。でも、さっき言った「持株制度」のように、そういう制度があってもそれを使って経営に参加しようとはしない、その経験を積もうとしていないのが現状です。


 角瀬はすでに「大企業は事実上、『誰のものでもない』もの、社会的な存在になっていると考えられます」(角瀬p.141)とまで言っているのですが、

ここで重要なのは経営への参加が実現しても、労働者が経営の主体として管理能力を身につけ自らを高めない限り、その参加は形式に終わり、実体をもったものにはなりえないということです。実際に管理する能力がなければ、現実には専門経営者のいうままとなります。したがって、経営参加は到達点ではなく、これから進むべき始まりでしかないのです。(角瀬p.141-142)

 ぼくは、生産手段が社会化され、経済において社会が主人公になる、社会が経済をコントロールするようになるには、一番大事なのは、市場経済と私企業を前提としつつ、やはり国家や自治体がどんな法律・計画・金融・財政を使ってその市場を手なずけていくのか、というその大枠のところだと思います。
 そういう大きなレールがきちんと敷かれていないと、個々の企業体がいくら民主化しても、身動きできる余地などほとんどないからです。
 だから、生産と労働の現場である経営体が民主化されるのは大事なことですが、それは社会主義にとっては副次的なことではないかと思います。


 

経営体の民主化よりもAIとBIによる労働時間短縮の方が効く

 そもそも、もし労働者が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障され、そうですね、例えば住居費・教育費・医療費・介護費・保育費などが完全に社会の負担になったとして、本当に日々の生活分だけを労働で稼げばいいような社会になった場合、それこそ労働時間が抜本的に短縮されるので、「生産と労働の現場である経営体」での働き方には、みんなあまりこだわらなくなるんじゃないでしょうか。
 それこそ、職場ではなくて、社会参加のようなものが進み、そちらの分野での社会的コントロールのツールが発達していくような気がします。
 え? 具体的にどういうことかって?
 まあ、あくまで例えですけど、例えば今、福岡市消費生活審議会っていう市レベルの審議会があるんですよね。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shimin/shohiseikatsu/life/syouhiseikatusentauhoumupeiji/singikai.html
 福岡市消費者教育推進計画っていうのをつくって、そこで消費者の教育をどう進めるかを議論していて、市のPTAの副会長さんなんかも入っているんですが、率直に言っておざなりなんです。少し意見を言って終わり。
 そういう審議会が部会ごとに分かれて多数の市民が参加し詳細な議論をして、本当に身になる計画もつくって、実効ある消費者教育運動にして企業の行動も変えていく……そんなふうになるには、多くの人が参加できるような時間的余裕がないとダメです。


 労働と所得が次第に切り離されるようになっていくと、社会参加が進むと思います。もちろんみんなそんなことをやりたいわけではないと思いますが、要するにヒマな人が増えるので、当然母数も増えていくわけです。


 こういう条件を整えるのは、企業体の民主化運動よりも、むしろAI(人工知能)による生産性の飛躍的上昇とその社会的利用、BI(ベーシックインカム)に見られるような公的な生存権の保障じゃないかと思います。この社会主義にとってのAIとBIの問題は、また別の機会に論じます。

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