忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

東京タワーの上で眠る怪獣

「ガメラ」シリーズは、亀が火を噴いて空を飛ぶという設定があまりに馬鹿馬鹿しくて一度も見なかったが、下のスチル写真は名シーンだと思う。ギャオスが東京タワーの上で眠りに就く場面のようだが、怪獣が眠る(生き物である以上、眠りを必要とする)ということの圧倒的なリアリティに、夕暮れの背景が幻想性を加えて絶妙である。
「モスラ」が繭を作る場面といい、怪獣映画と東京タワーは実に親和性が高い。










PR

黄海というデザイナー

黄海という中国人デザイナーの「ドラえもん スタンドバイミー」のポスターだが、日本漫画のセンスと中国の絵画や書のセンスがうまく融合されていて楽しいポスターだ。余白の使い方が上手いと思う。中国では非常に有名なデザイナーらしい。実写映画のポスターの傑作も多いようだ。つまり、絵ではなく写真映像を使ったポスターでもセンスがいいということだ。
スタンドバイミーは「伴我同行」と訳されている。日本語に再度訳すなら「私と一緒に行こう」だろうか。近日上映は「即将上映」で、「即ち、将に上映せんとす」である。




文芸創作における「達磨宗」と「顕宗」

塚本邦夫の、中世和歌についての随筆の中に「達磨宗」という言葉が出てきて、意味が分からないまま読み進めると、こういう文章が出てきた。

「達磨宗は当時も必ずしも否定的貶称ではない。凡俗の及びがたく、深遠な理ある歌として畏敬の意味で用いる例もある。反対用語の顕宗の方こそ、むしろ軽侮の意が加わっていたようだ」


要するに、「達磨宗」とは、禅宗的な表現手法のことだろう。つまり、奇抜な表現であり、何かを指すのにその物を直接指示しないで暗喩的に表現するわけだ。まあ、暗示的表現と言えばいいだけか。それに対して「顕宗」は、すべてを言い尽くすような表現で、芭蕉の「言いおほせて何かある」という批判に見られるように、幼稚で低俗なものになりやすい。

さらに、その少し後を見ると、今書いたばかりの推測が正解だったことが分かる。

「ここにいう『顕宗』とは、明らかに、たとえば六条家などの代表する悪い意味の尚古派の、明快平板な歌風を指しており、『顕宗なりともよきはよく』とは、普通は否定的にしか使われていないことを言うのだ」


この「達磨宗」と「顕宗」は、歌道や韻文だけに限らず、文章表現やドラマ表現においての注意点として記憶する価値があると思う。



その夏の最後の日

別ブログに書いた記事だが、私自身のお気に入りの文章なので、ここにも載せておく。なお、「ネットフィリックス」は「ネットフリックス」の間違い。



It was the last day of the summer, and the first day of my last days.

「それはその夏の最後の日であり、私の最後の日々の最初の日であった」

実に詩的な文で、何の小説の書き出しかと気になるが、実は「Family guy」というアニメの中で、ブライアンという人語を喋る犬が死に掛かった時に、高度なIQを持った赤ん坊が彼の闘病記を書く、その冒頭の一文である。(と思う。私は英語版で見たので、私の貧弱な英語力で理解した範囲内の話だ。)
なお、「ファミリー・ガイ」はアメリカの谷岡ヤスジのようなもので、一般社会の常識を過激なギャグで笑い飛ばすアニメである。下品だが、痛烈で面白い。
たしか、ネットフィリックスでも見られると思う。でなければhuluか。一見をお勧めする。

武田双雲の字

武田双雲という人は実に器用な感じの字を書くが、あまり好きな字ではない。しかも、下の写真の字はかなり退化していると思う。特に「健」の字は見苦しい。下の「康」の字とバランスを取って目立たなくしているのはさすがだが、「健」単独だと不細工そのものだ。もちろん、「建」の延繞部分の最後を異常に太くすることで1字としてのバランス(字の重心)を取ったのは流石にプロの書家だと思うが、むしろそういう小細工に、良寛が「書家の書」を嫌った理由が何となく分かる。






書道家・武田双雲さん