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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「ひょっこりひょうたん島」と「クモサル島」

私の現在の楽しみはネットテレビと読書だが、この前古本屋で買った本の中にロフティングの「ドリトル先生航海記」があって、それを他の本と並行して読んでいる。もちろん、子供のころに読んでいるが、今、この年になって読んでも面白い。子供のころには理解できなかったことも理解できるので、こういう再読は案外有益なのである。
で、その中に「クモサル島」というのがあって、これが「漂流島」なのである。
と聞くと、私と同じくらいの年代の人なら即座に連想するのが「ひょっこりひょうたん島」だろう。私も「ひょっこりひょうたん島」は大好きだったが、しかし、それを見ている時には、「漂流島」のアイデアが「ドリトル先生」にもあったことにまったく気づかなかったのである。それは、子供の私には「著作権」という下賤な思想が知識として無かったからだと思う。つまり、アイデアは思いついた人が使用すればいいのであり、そのアイデアが誰かが既に思いついていたかどうかなどにさほど意味はない、と漠然と思っていたのだと思うが、この考えこそが、現在の著作権思想よりはるかに有益な考えだと思う。著作権のために文明は多くの発展可能性を失ってきたはずだ。
「ひょっこりひょうたん島」は、多くの子供に楽しい時間を与え、その想像力とユーモアの感覚を涵養した。とすれば、「漂流島」のアイデアが「クモサル島」の流用だったことなど、何の有害性も無いどころか、有益な活用だったと言うべきだろう。まあ、井上ひさし自身が、そのアイデアを完全に自分のオリジナルだと思い込んでいた可能性もある。
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絵の描き手にとっての抽象絵画の魅力

昨年の9月ころから今年の2月くらいまで、絵を描くことをわりと楽しんでいたのだが、一度中断するとなかなか再開する気になれなくて、そのままにしている。しかし、描きたいものはだいたい描いたと思うので満足している。
描いたのはほとんどが抽象画で、殴り描きに近い。絵筆ではなく、掃除用のブラシなどを使ったりした。具象画は、人物画を少し描いただけで、風景画は、真似事程度である。私には「具象物を細密に正確に描く能力」がほとんど無いので、描いても満足感が無い。で、言い訳になるが、実在する物を細密に正確に描くなら、写真で十分じゃないか、と思うのである。腕前は見事だと思っても、その手の作品が美しいとか魅力があると思ったことはほとんど無い。しかし、世間で「絵が上手い」と思われているのは、そういう「スーパーリアリズム」の絵なのである。
抽象画となると、「意味不明」「作者の自己満足」「インチキ絵画」という評価になると思う。口に出さなくてもそう思っている人は多いはずだ。なぜなら私もそう思っていたからだ。
だが、自分で描いてみると、ある色を使ったその横にどういう色を置くかで「色の魅力」が変わるし、ある図形の横にどういう図形を置くかで「形の魅力」が変わるのである。これは、描いた本人だけが感じていて、他人には伝わらないかもしれないが、絵を描く動機としては十分だ。
つまり抽象絵画とは何よりも「色の魅力」「図形の魅力」だということだ。
もちろん、キリコなどのように神秘的な絵も魅力的だし、絵にはいろいろな魅力があるだろうが、抽象図形や色を並べただけの絵も魅力があるのである。
念のために言うが、「きれいな色」だけが絵の色の魅力ではない。たとえば、私は暗い緑色と灰色と茶色だけで墓場らしき場所の絵を描いたのだが、これは私のお気に入りのひとつである。最初から墓場を描くつもりだったのではなく、描いているうちに、それっぽくなったのだが、墓石ごとの微妙な色合いの違いと、同じような墓石が並ぶことの調和、リズムが気に入ったわけだ。ついでに言えば、子供のころから私は「第三の男」のラストシーンの構図が大好きで、この墓石群の並び方も、あの遠近法構図になっている。

「書」の上手下手

書道(書)における「下手」の定義にもよるが、私のように一本の線を歪まずに書くことも不可能なレベルの悪筆には、「よくこんなに真っ直ぐな線が書けるなあ」と感心するところもある。
だが、字の連携や全体のバランスなど、粗が目立つし、「味わいが無い」という点では、筆で書く意味も無いレベルではあると思う。
活字を拡大コピーしたもので板に「下書き」をして字の枠を作って、その枠を墨で埋めたのかもしれない。

(以下引用)ツィートしているのは漫画家のとり・みきである。「書く(描く)」ことのプロだけに書にも厳しい目があるのだろう。平田弘史が書の達人だったのは有名。

誰が書いたのか知らないがこれは下手だ。賛成反対関係なく下手だ。
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大阪・関西万博へ「万博推進局」発足式 府と市 合同の新組織 | NHKニュース
【NHK】大阪府と大阪市は、3年後の2025年に開催される大阪・関西万博の準備を円滑に進めるため、今月1日付けで万博を担当する新た…
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絵画と私

このひと月ほどの間、絵を描くのが趣味だったのだが、ここ数日スランプである。つまり、「面白いモチーフ」が思い浮かばない。そうすると、描きたいという熱が湧かないわけだ。
まあ、描きたいものはすべて描いて、自分の能力ではこのあたりが限度かな、という気もする。で、描いたものはほとんど満足しているのである。偶然性を利用した部分の多い描き方だから、再現性は無い。まあ、いたずら書き(描き)をヒントにして、それを明確な画にしたものもあって、それには満足している。絵の具の混じり方や筆のタッチなど、自分でも満足できるものが何点かある。それらははっきりと「他者の模倣」ではないオリジナリティがあると自負している。
もちろん、習作として、あるいは練習として、ネット写真の風景を元にして描いた絵もあり、中には満足できるものもある。ただ、写真の風景をそのまま絵にしたわけではないし、それができる技量もない。「できるだけ描かないで、見る人に想像させる」のが私の絵のモットーだ。「情報量を最小限にすることこそが見る人の想像力を刺激する」というわけだ。いわば、水彩絵の具を使った「水墨画」という感じだろうか。逆に、水彩絵の具をいろいろ混ぜて、「原始的印象」を与える絵もある。それも気に入っている。苦手なのは、「光の表現」と「透明な物の表現」で、これは素人でも見事な技術を持った人がいる。
しかし、絵でリアリズムを追求するくらいなら、写真で十分だし、写真に及ばないわけで、私は、絵は技術より描く人の「イマジネーション」が価値があると思っている。たとえば、キリコやダリの絵などだ。あるいはゴッホの絵などだ。しかし、そういう絵や絵描きは少ない。個性があるとされる絵描きは、ほとんどが「少ないパターンを毎度自己模倣している」だけである。日本画の大家はそれしかいない。ピカソなども、「これはピカソの絵だ」と見れば分かるのは数点だけだろう。そういう意味ではキリコもダリも数点しか実は「代表作」は無いと思う。
で、私は既に「自分の代表作」を何点か描いたので、実はこれで画家(笑)を引退してもいいかな、とは思っている。ただし、最近のスランプが、「描くべきものは描きつ」(例の「見るべきものは見つ」)なのか、この先にまた「第二の波」が来るのかどうかは分からない。

ジャズの変質とクルーナーの消滅

私は勘違いしていたが、むしろ「朗々と歌う」歌い手をクルーナーと言うと思っていた。(案外、「クルーズ船」からの連想であるかもしれないwww)つまり、クラシックスタイルである。ビング・クロスビーが、低く抑えた歌い方だ、というのもピンと来ない。ささやくような、という言い方もピンと来ない。「ベルベットボイス」は納得できる。とにかく、「低い声」とか「ささやくような」とかいう印象ではなく、大声を出さなくても「響く」、奥行きのある歌い方、という印象である。だから、「朗々と歌う」のとは正反対と言えばそうなのだが、よく響く声である、という点が下の説明では欠けている気がする。
では、ナット・キング・コールはクルーナーか、と言われたら、少し違う気がする。究極的にボイスコントロールの名人だと思うが、「低い声」とか「ささやくような歌い方」ではないだろう。単に、それ以前のクラシックなジャズシンガーとは異なる新鮮さと繊細さを持った歌い方だったのではないか。
たとえば、「ジャズシンガー」の主人公(もちろん、モデルである歌手と映画の俳優やその歌は別だろうが)の歌い方は、まさに「朗々と歌う」歌い方で、やはりクラシックな唱法だと思う。下の記述に近い歌い方としては、メル・トーメなどがそれではないか。ただし、彼には「軽快な感じ」は無い。そこはやはりビング・クロスビーがそれである。初期のフランク・シナトラもそれに近い。まあ、ジャズ自体が、モダンジャズ以降は変質したために、ジャズシンガーも軽快さを失ったのではないか。


(以下引用)

クルーナー(英語表記)crooner

翻訳|crooner

世界大百科事典 第2版「クルーナー」の解説

クルーナー【crooner】

1930年代に現れた,あるタイプのポピュラー歌手を指す言葉。B.クロスビーがその代表で,ちょっと鼻にかかった柔らかい声と,ジャズから学んだ節まわしを特徴とした。それまでの歌手たちが,張った声でメロディをストレートに歌っていたのに対して,しゃれた軽快な感じが大いに受けた。ソフトな発声はちょうどそのころ普及し始めたマイクロホンをうまく生かしたものでもあった。【中村 とうよう】

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報