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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

絵画と私

このひと月ほどの間、絵を描くのが趣味だったのだが、ここ数日スランプである。つまり、「面白いモチーフ」が思い浮かばない。そうすると、描きたいという熱が湧かないわけだ。
まあ、描きたいものはすべて描いて、自分の能力ではこのあたりが限度かな、という気もする。で、描いたものはほとんど満足しているのである。偶然性を利用した部分の多い描き方だから、再現性は無い。まあ、いたずら書き(描き)をヒントにして、それを明確な画にしたものもあって、それには満足している。絵の具の混じり方や筆のタッチなど、自分でも満足できるものが何点かある。それらははっきりと「他者の模倣」ではないオリジナリティがあると自負している。
もちろん、習作として、あるいは練習として、ネット写真の風景を元にして描いた絵もあり、中には満足できるものもある。ただ、写真の風景をそのまま絵にしたわけではないし、それができる技量もない。「できるだけ描かないで、見る人に想像させる」のが私の絵のモットーだ。「情報量を最小限にすることこそが見る人の想像力を刺激する」というわけだ。いわば、水彩絵の具を使った「水墨画」という感じだろうか。逆に、水彩絵の具をいろいろ混ぜて、「原始的印象」を与える絵もある。それも気に入っている。苦手なのは、「光の表現」と「透明な物の表現」で、これは素人でも見事な技術を持った人がいる。
しかし、絵でリアリズムを追求するくらいなら、写真で十分だし、写真に及ばないわけで、私は、絵は技術より描く人の「イマジネーション」が価値があると思っている。たとえば、キリコやダリの絵などだ。あるいはゴッホの絵などだ。しかし、そういう絵や絵描きは少ない。個性があるとされる絵描きは、ほとんどが「少ないパターンを毎度自己模倣している」だけである。日本画の大家はそれしかいない。ピカソなども、「これはピカソの絵だ」と見れば分かるのは数点だけだろう。そういう意味ではキリコもダリも数点しか実は「代表作」は無いと思う。
で、私は既に「自分の代表作」を何点か描いたので、実はこれで画家(笑)を引退してもいいかな、とは思っている。ただし、最近のスランプが、「描くべきものは描きつ」(例の「見るべきものは見つ」)なのか、この先にまた「第二の波」が来るのかどうかは分からない。
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ジャズの変質とクルーナーの消滅

私は勘違いしていたが、むしろ「朗々と歌う」歌い手をクルーナーと言うと思っていた。(案外、「クルーズ船」からの連想であるかもしれないwww)つまり、クラシックスタイルである。ビング・クロスビーが、低く抑えた歌い方だ、というのもピンと来ない。ささやくような、という言い方もピンと来ない。「ベルベットボイス」は納得できる。とにかく、「低い声」とか「ささやくような」とかいう印象ではなく、大声を出さなくても「響く」、奥行きのある歌い方、という印象である。だから、「朗々と歌う」のとは正反対と言えばそうなのだが、よく響く声である、という点が下の説明では欠けている気がする。
では、ナット・キング・コールはクルーナーか、と言われたら、少し違う気がする。究極的にボイスコントロールの名人だと思うが、「低い声」とか「ささやくような歌い方」ではないだろう。単に、それ以前のクラシックなジャズシンガーとは異なる新鮮さと繊細さを持った歌い方だったのではないか。
たとえば、「ジャズシンガー」の主人公(もちろん、モデルである歌手と映画の俳優やその歌は別だろうが)の歌い方は、まさに「朗々と歌う」歌い方で、やはりクラシックな唱法だと思う。下の記述に近い歌い方としては、メル・トーメなどがそれではないか。ただし、彼には「軽快な感じ」は無い。そこはやはりビング・クロスビーがそれである。初期のフランク・シナトラもそれに近い。まあ、ジャズ自体が、モダンジャズ以降は変質したために、ジャズシンガーも軽快さを失ったのではないか。


(以下引用)

クルーナー(英語表記)crooner

翻訳|crooner

世界大百科事典 第2版「クルーナー」の解説

クルーナー【crooner】

1930年代に現れた,あるタイプのポピュラー歌手を指す言葉。B.クロスビーがその代表で,ちょっと鼻にかかった柔らかい声と,ジャズから学んだ節まわしを特徴とした。それまでの歌手たちが,張った声でメロディをストレートに歌っていたのに対して,しゃれた軽快な感じが大いに受けた。ソフトな発声はちょうどそのころ普及し始めたマイクロホンをうまく生かしたものでもあった。【中村 とうよう】

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

文学における哲学派と科学派

谷崎潤一郎の「『つゆのあとさき』を読む」の冒頭に、

「(露伴)氏の哲学的な、主観的な作風は、夙(つと)に紅葉の客観的な作風に対立していたものであった」

という文章がある。
この中の「哲学的な、主観的な」という部分は、「哲学的」と「主観的」は表裏一体である、あるいはほぼ同義である、という意味かと思われ、私には非常に興味深いが、ここでは論じない。

露伴の作風を「哲学的、主観的」と道破したのは慧眼だと思うが、これは他の評論家や作家などで誰か同じことを言った人はいるのだろうか。露伴の作品は話の筋と脱線部分の境が曖昧で、小説なのか随筆なのか分からないが、読んでいると「菊を採る東籬のもと、悠然南山を見る」という気分になり、それは漱石の初期作品に感じる「俳味」に近い。いわゆる「高踏的」な境地だろうか。

紅葉らの「自然主義」が、「客観的作風」で、それが露伴の「哲学的、主観的」な作風と対立するなら、自然主義とは「科学的」作風と言えるのではないか。つまり、人間や社会を科学的な目で見ようという姿勢だ。それは「理想ではなく現実を見る」姿勢であるから、その作品内容は「間違っている」という批判はしにくい。しかし、「理想を欠いていて、醜い」ことは確かである。その醜さを「社会の鏡」として偽善的な世間に叩きつけたことに大きな意味はあるが、作品そのものとしては「読んでいて楽しくない」のは確かだろう。勉強として、あるいは教科書を読むのが好きな人間のためには意義はあるだろうが、それが「文学」の本道かどうか。私はむしろ「物語性や娯楽性の強い大衆小説」こそが、文学の本道を歩んでいるのではないかと思う。

ただし、小説というのは、どんなことを書いても小説にはなる、というのが最大の特長なのであるから、本道以外の作風が無意味であるわけではけっしてない。

芸術と「公序良俗」の闘い

私は会田誠という人の作品を見たことは無いが、この記事に書かれたことで判断するなら、確かに見るに耐えない悪趣味な作風のようだ。まあ、芸術と名を付ければどんな作風でも罷り通るというのがクリエイター側の言い分のようだが、そんなのは密室で特定の人間だけを相手にしていればいいのである。
もちろん、「公序良俗」の名を借りて検閲行為や、表現の自由への侵害が拡大されるという主張にも一理はあるだろうが、その「表現の自由」はそこまで拡大する意味があるのか。それなら、絵描き本人が服など着ないで街中を歩けばいいし、衆人の前で排便してみせればいい。その程度の「芸術行為」ならアホでもできる。芸術は、それほど特権的なものか。


(以下引用)


 
 
 
東京高裁=東京都千代田区© 朝日新聞社 東京高裁=東京都千代田区

 京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の公開講座で、講師からわいせつな作品を見せられ精神的苦痛を受けたとして、受講した女性が大学側に約330万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が4日、東京地裁(伊藤繁裁判長)であった。判決は、わいせつな作品を受講生に見せたことを「セクハラにあたる」と認定。大学側に対し、講義内容を事前に告知するなどの義務を怠ったとして、約35万円の賠償を命じた。

 判決によると、大学側は2018年、ヌードをテーマに講師を招いて全5回の講座を都内で開催。その中で、美術家の会田誠氏は四肢を切断された全裸の少女の絵などを、写真家の鷹野隆大氏は全裸の男性の写真などを1~2時間にわたりスクリーンに映した。

 判決は、2人の作品が「露骨な表現で、正常な性的羞恥(しゅうち)心を害するわいせつ性がある」と指摘。受講生が成績評価を受けるには出席が欠かせないことをふまえ、「作品を見るよう強要されたセクハラだ」と判断した。その上で、作品を講義前に確認した大学側はセクハラを予見できたとして、「退室可能なことを事前に告知するべきだった」と認定した。講座を受けたことと、女性が患った急性ストレス障害の因果関係も認めた。

 大学側は「判決文が届いていないのでコメントできない」としている。

 会田氏の作品をめぐっては13年、市民団体が「女性の尊厳を傷つける」などと抗議。鷹野氏の作品については14年、愛知県美術館での展覧会で県警が「わいせつ物の陳列にあたる」として対処を求め、半透明の布などが掛けられた。(新屋絵理)





これも美意識?

まあ、おフランスの話だからどうでもいいが、いずれ日本でも馬鹿が真似し始めるだろう。

(以下引用)



フランスで全身に刺青を入れた35歳の小学校教師の男性が問題となっている。教師はワンポイントや腕だけに刺青を入れたのでは無く、全身さらには目の白目部分にまで刺青を入れてしまった。これに対して「教員として正しくない」「個人の自由なので尊重すべき」と意見が対立している。

シルヴァンという名前の教師はパリの南側にあるパレゾーという街の小学校に勤務している。彼はフリーキー・フーディーというペンネームで刺青マニアの間で活動しておりかなりの有名人だという。

シルヴァンは27歳のときに初めてタトゥーを刻んで以来、少しずつ刺青を増やした。腕、脚、背中、お尻、顔、首をはじめ、刺青がない体の部分がない。性器にも世界中の刺青を刻んだという。特に、最近は眼球の白身まで黒色の刺青を刻んだ。今までの刺青を刻むためにかけたお金5万ユーロ(約6800万円)である。ここ最近はお金が掛かりすぎるため2ヶ月に1度のみ刺青を入れにいかなくなったという。

シルヴァンが働く小学校の保護者の中には「教師としての役割をうまく果たせばいいだけで、何の問題があるのか」という人もいれば、「子供たちに嫌悪感を与えるため、教壇から追い出さなければならない」と主張する人もいるという。 とある保護者は「最初はハロウィンのために扮装だと思っていたが、普段の姿だということを知ってびっくりした。教育当局があんな人をそのままにするというのはおかしい」と語った。

しかしフランス教育省の規定には、教師に刺青に関する遵守事項がない。服装や容姿と関連しては、特定の宗教を明らかにしてはならないという規定があるだけだ。シルヴァンはメディアのインタビューで「私の体に私が刺青があることは関係ない。他の人を邪魔していないと思う」と話した。 ただ「昨年、幼稚園で教師として勤務する際、保護者らの抗議を受け、辞めた後は、幼稚園では勤務しないことにした」と明らかにした。

これ以上刺青を彫る場所が無くなったシルヴァンは上塗りのみ可能となっている。

刺青

刺青

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ソース