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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

公共空間の裸婦像問題

「artscape」というネットマガジン記事の一部を転載。
公共空間における裸婦像が、いつ、どこから始まったか、という、或る意味では最近のエロ絵や萌え絵を使った公共ポスター問題に通じる問題を論じた貴重な記事だが、まだ全文を読んではいない。だが、電通がその走りだったというのはおそらく誰も知らず、重要な事実だろう。


(以下引用)


戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所である。

昨年、このような一文からはじまる小論を書いた★1。小説家であり評論家でもあった堀田善衛が「あれが表象するものは、断じて平和ではない。むしろ戦争そのものであり、ファシズムである」と評した北村西望作《平和祈念像》と、北村の直弟子・富永直樹作《母子像》の師弟による二つの大型彫刻、浦上天主堂の被爆聖像、世界各国から寄贈された平和の彫刻群、そしていわゆる《母子像》裁判……。彫刻であふれた爆心地・長崎から、「人間にとって彫刻とはなにか」という「彫刻の問題」を抽出する試みだった。


富永直樹《母子像》1997年 [撮影:金川晋吾]

2014年から長崎の原爆碑と爆心地一帯の彫刻を調査している。数回の長崎滞在において、いまだに忘れることのできない言葉がある。爆心地の遺構をめぐるツアーガイドとともに「爆心地公園」を歩いたときのことだ。公園の一画に、薔薇の花がちりばめられた服を着た女性が、病んだおさなごを抱えた巨大な彫像がある。この下でふと思い立ち「この彫刻はなんですか?」とガイドの方に尋ねた。本当はこの《母子像》という彫刻について、作者・富永直樹氏の経歴や、建立をめぐる激しい反対運動、そして撤去を求めた裁判といった、込み入った事情を多少は知っていた。しかしそのことは隠して、観光客のように質問をしてみたのだ。ガイドの方はこのように答えた。

「この彫刻は見なくていいです」。さらにこのように続けた。

「こんなへんなものを建てちゃって」

まるで雷に打たれたようだった。なぜなら、ある種の彫刻を前にして「この彫刻は見なくていい」「こんなへんなものを建てちゃって」と誰より思ってきたのはお前自身ではないかと突きつけられたように聞こえたからだ。ある種の彫刻とは、さまざまな場所に設置されたアニメキャラクターの銅像や、裸体彫刻のことである。特に公共空間の女性裸体像に対して、彼女たちをどのようにまなざせば良いのかと考えあぐね、答えは見つからず、長いあいだ意識の外に追いやり、「見なくてもいい彫刻」とすることで深く考えないようにしてきた。

長崎でその後ろめたさを自覚したとき、公共空間の女性裸体像に向き合おうと私は決意した。やがて調査を進め、その出自が明らかになるにつれて、「見なくてもいい彫刻」はひるがえってこう言っているのだと思い至るようになった。「彫刻を見よ」と。

あの裸の女たちはどこからやってきたのか。彼女たちの物語を語りたい。

軍人像から平和の女性裸体像へ

頁

リノベーションされた台石と菊池一雄作《平和の群像》の前に立つ菊池一雄(右)と吉田秀雄(左)
[出典:『電通 一〇〇年史』電通一〇〇年史編集委員会、2001年、171頁]

1951年、皇居濠端の三河田原藩上屋敷跡、三宅坂小公園に《平和の群像》が建立された。《平和の群像》の正式名称は「広告人顕頌碑」という。広告人顕頌碑は電通(当時の正式名称は日本電報通信社)が建設し、東京都に寄贈された広告功労者顕彰のための記念碑で、台座の上には東京藝術大学彫刻学科教授・菊池一雄が「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した三体の裸婦彫刻《平和の群像》が据えられた★2

『電通 一〇〇年史』および『電通創立五十周年記念誌』によれば、この《平和の群像》こそ、この国の公共空間に初めて誕生した女性裸体像である。



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若年の好みと老年の好みの変化

下のツィートとは反対方向の意見になるが、人生の残り時間が少なくなってくると、「他人の都合で時間を無駄にさせられること」が非常に苦痛になってくる。これが、自分の都合なら、どんなに無駄にしても気分は悪くないのである。たとえば、ぼうっと野の花や空を眺める時間も楽しい。しかし、駄作映画などを見て無駄にした時間は腹が立つ。いや、駄作だけではない。たとえ名作でも、今の自分の嗜好と合わないものは、それを見た時間が実にもったいなく感じるのである。音楽や映画などの「時間芸術」にはそういう難点がある。
たとえば、先ほどまで、ネットテレビで「スピード」を見ていた(キアヌ・リーブスの顔が好みではないので、今まで見なかったのだが、どんな作品か知るために見たわけだ。)のだが、確かにアクション・サスペンス映画としては完璧に近い作品である。だが、見ている間じゅう、「これを見ているのは、俺にとっては時間の無駄だなあ」という気分で、まったく楽しい気分は無かった。おそらく、「ダイハード」シリーズとか、「スターウォーズ」シリーズも同様の気持ちになるだろう。
これを今さら見ることが自分の人生を豊かにするだろうか、と思うわけだ。
若いころはアクション映画もSF映画もそれなりに好きだったのに、なぜこうなるのか。
逆に、若いころより、今見たほうがその価値が分かる作品もある。「ロッキー・ホラー・ショー」などは、その下品さが若いころは嫌いだったが、年を取ってから見直すと、そのユーモアの質の高さや音楽の質の高さが理解でき、好きな作品のひとつになっている。
ちなみに、若いころから、或る種の「人生映画」は好きで、『東京物語』や『道』や『野いちご』は、わが生涯のベスト10に入れているから、年齢によって好みが変わると言うよりは、「無駄なもの(あまり好みでないもの)で時間を潰すことへの耐性」が無くなるということだろう。



さんがリツイート

駄作映画を観て人生を無駄にした的なツイートをみたけど、時間を損しないためにいいものだけ観たいとか、そういう観かたでは自分が本当に好きなものに出会えないんじゃないかしらん






クラシック音楽とアニメ

「フィンランディア」は、すべて素晴らしいが、特に構成が素晴らしい曲である。出だしの、陰鬱だが重厚な迫力のある、まるで北欧の鬱蒼とした森や湖を思わせる楽曲から、最後の、まるで神々の闘争にドンパチと花火が揚がるような「ロックな」終曲まで、まさにフィンランドの自然と、そこに住む人々の隠れた情熱の結晶のような名曲だ。
ついでに、「カレリア組曲」も、素晴らしい。その中の「ポホヨラの娘」を、私は大島弓子の「いちご物語」をアニメ化したらテーマ曲に使いたい(使ってほしい)なあ、と昔思ったものである。なお、「フィンランディア」の冒頭は、「つぐみの森」の最初のシーンに使ってみたい。小曲だが、「トゥオネラの白鳥」は、山岸凉子の「白い部屋のふたり」にぴったりだと思う。なぜかシベリウスは少女漫画に似合いそうな気がする。
怪獣映画なら、シベリウスよりも、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」が最適だろう。その中の「重量級の怪物のせめぎ合い」を思わせる部分を、なぜアニメなどに使わないのか。まあ、クラシック好きのアニメ作家が庵野秀明以外にあまりいないためだろう。エヴァンゲリオンでのバッハ(「主よ人の恵みの喜びよ」だったか)など、素晴らしい使い方だった。



  1. 二十歳くらいまではクラシック音楽はあまり聴いてなかったのだけど、たまたまFM東京の「音楽の翼」(というタイトルだったと思う)で「フィンランディア」が流れて、「なんだこのかっこよくて燃える曲は!」と超感動して、以後シベリウスにハマった。

  2. ちなみに、シベリウスの『カレリア組曲』の「間奏曲」を、自衛隊の怪獣迎撃準備のシーンに乗っけると、大変よくマッチすると個人的には思っております。この曲を流しながら、ほら、目を閉じると富士の裾野をM41や61式戦車がやって来る光景が見える(笑)




映画「フリークス」のこと

私はアマゾンという会社が嫌いなのだが、アマゾンプライムビデオというネットテレビは良く見ている。というのは、他のネットテレビと違って、古い白黒映画(洋画がほとんど)がたくさん見られるからである。それらを見ていていつも驚くのは、昔の映画のレベルの高さである。ただ、これは若者には理解できないかもしれない。私が十代二十代くらいだと、まず理解できなかっただろう。
たとえば、数時間前に見ていた「フリークス」(アマゾンでは「怪奇館」とか何とか別の邦題をつけていたが、何だったか忘れた。)は、身体障碍者がウジャウジャ出てくる奇抜な映画で、ホラー映画かと思われそうだが、実は「本当のフリーク(奇形者)は、身体の奇形ではなく、心の奇形である」という、哲学的主題を持った作品なのである。この映画では、サーカス(カーニバル)一座の中の一番の美女(という設定)が、精神的には最大の怪物なのだ。その他の身体障碍者(奇形者)たちは、ほとんどがまともな精神を持っている。しかし、体の奇形のため、その精神まで見てくれる人は少ない。
或る意味では、「エレファントマン」のテーマの先行的作品だと言えるだろう。
まあ、特に女性に見てもらいたい作品だ。「恋をする」というのが、外見だけで決まるなら、奇形者にとって恋というのは存在するのか、という興味深い話でもある。見ているうちに、奇形者たちの外見はほとんど気にならなくなり、むしろ愛らしくすら見えてくる。(この映画に出てくる奇形者たちは、一部を除いてほとんどが現実の奇形者だと思う。今ではPC規制のために作ることが不可能な映画だろう。)
この映画を「ヒューマニズム」映画だとする批評は見たことが無いが、実はヒューマニズムに溢れた作品である。たぶん、淀川長治あたりなら、真価を認めたのではないか。