雨が降った時に、地面から上がってくるあの匂い!「呼び名があったのか」・「ステキすぎる」

あの匂いに名前があったんだ!好きです!地面から漂うあの香り!
呼び名があったことに感激!雨が降った時に、地面から上がってくるあの匂い!
ペトリコール。ギリシャ語で石のエッセンスを意味する。
なんてオシャレな!ステキすぎます…
青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
2017年06月18日:22:00
年を取ると、なぜ何事にも熱中できなくなるのだろうか。
食欲も性欲も知識欲も名誉欲も、あらゆる欲が無くなる。欲が無いから何事にも関心が無くなる。ほとんど、死の準備である。生きながらの死。
実は、年を取って仕事をやめたら、小説など思う存分書いてみたい、とか、かつて興味を惹かれた趣味的な事などをやってみたいと思っていたが、少しでも根気が要るような作業は、すぐに飽きてしまう。創作的なことだけでなく、若いころは音楽を聴くのも本を読むのもあれほど好きだったのに、音楽もほとんど聴かず、本もほとんど読めない。時間ができればいつか読んでみたいと思っていた大長編小説など、ほとんど読む気も起らない。
毎日のように、RPGばかりやっているが、それも完遂する意欲など無い。レベル上げが面白いから、序盤戦だけ延々とやっていて、それで一日の大半の時間が過ぎるのだからあきれたものだ。養老院の爺婆のほうがはるかに活動的だろう。かと言って、外に出るのも億劫だ。
しなければならない仕事が無い、あるいは義務的な計画や予定が無い、というのは「完全な自由」を得た、ということだが、その自由の結果が、完全な空白である、というのは予想外だった。
かと言って、自分で自分に何かを義務づけるというのも馬鹿馬鹿しいような気もする。つまり、後数年で死ぬのは確かだろうから、遊ぶ以外のことでその時間を費やすのは、どうも馬鹿げた行為のように思うのである。黒沢明の「生きる」のように、ささやかだが社会に役立つ仕事を完成して死んでいく、というのも悪くはないが、それもまた「空にして風を捕うるがごとし」だ。
ささやかどころか、どんな偉大な業績を残しても、同じことだ、とも思う。
仕事や業績というのが、その人の人生の評価基準になるとは思わない。
遊び暮らして、馬鹿な死に方をするDQNの人生が、偉大な芸術的作品を残した、たとえばバッハやモーツァルトの人生より無意義だとも思わない。いや、「意義」という点からは無意義だが、生きる点においては、1匹のワラジムシの生と他の1匹のワラジムシの生に価値の違いは無い、ということだ。どちらかと言えば、むしろ遊び暮らして満足して死んでいくほうが、努力と勤労の生涯を送って、人類の偉大な財産を生み出した人間の生よりマシではないか、とすら思う。そうした人類のレガシーのおかげで後世の人間は素晴らしい文化を享受できるのだが、それを作った人間自体は既に死んでいるわけだ。墓の石の下で、満足しているかどうか。
2015/10/2218:08:39
2015/10/2222:50:12
>「肉は悲し、なべての書は読まれたり」
マラルメの「海の微風」とか「海のそよ風」とかと訳されている詩《Brise Marine》の冒頭の一節(下記)ですよね。
>La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
直訳すれば、「肉体は哀しい、ああ!、全ての書物は読まれたり」という意になりますが、この《La chair》や《j'ai lu tous les livres》をどのように解釈するかで、各翻訳間の違いが生じてきそうです。
たとえば、《La chair》は「肉欲」と訳する訳者もいますが、その場合、「どんなに多くの本を読んでも、肉欲だけはいかんともしがたい」という意味になります。
で、私としては、この一節は、「肉欲」をも含む身体が、自分のいかなる理智をもってしても太刀打ちできないという悲哀を表現しているのではないかと解してきました。
なお、「全ての書は読まれたり」というのは、「われは理智の極みに至り得た」と解したいところです。
ということで、《La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.》は、「私はあらゆる本を読んだというのに、わが肉体の秘密、謎を前にしてかくも非力だとは!」と意訳したいところです。
その点、ランボーのいわゆる《賢者の手紙Lettres du voyant》中の一節《われは他者なりJe est un autre》(私の存在は、私の理解を絶している)と通底するような気がしてなりません。
三十代から四十代にうつる間に、私は、できることがものすごく増えた。
今まで蓄積してきた知識の量が増え、それと関連書籍をリンクさせながら読書するようになったことで、一冊の書籍から汲み取れる情報量が飛躍的に増えた。十年前の私と現在の私では、読書の方法と効率がまったく違う。
読書だけでなく、ゲームを遊ぶ時のプレイ集約性も、オフ会に参加する時のノウハウもますます高まった。自分で言うのもなんだが、この十年間で、私は驚くほど成長したと思う。体力や集中力の衰えを埋め合わせて余りあるものを、私は獲得してきた。
ただ、できることが増えたけれども、体力や集中力が減った結果として、「できるけれども諦めなければならないこと」が増えた。
あのゲームもこのゲームも面白そうだからやりたい。
でも、体力や集中力が続かない。もちろん時間も足りない。
今なら、あのスポーツもこの芸事も、若い頃よりよほど効果的に始められるだろう。
でも、体力も時間も無いから、始めたくても始められない。
「文章を書く」という一点についても、やりたいこと・できそうなことがもっと沢山あるのに、なかなか始められない。私はこのブログの他にも、ワインブログをひとつと、中期的~長期的なミッションの幾つかを持っているが、それらで手一杯で、それ以上のことができない。
本当は私は、今までに遊んだすべてのコンピュータゲームの長短入り混じったレビューを書き記したサイトをつくりたい。それと、ワインを好きになるために必要な知識を、初めての人にもわかるように記したサイトもつくりたい。それから、ライトノベルやweb小説も本当は書きたくてしようがない。実際、プロットの骸骨のようなものはメモとしてたくさん転がっているが、これを肉付きの良いプロットに仕上げるための時間や、つくったプロットをテキストに転写するための余力が無い。
どれも、十年前とは比較にならないほど精巧にやってのけられるだろう。他人の評価はともかく、自分自身が惚れ惚れとするようなアウトプットを完成させる自信はある。けれども、それらに手を出してしまえば身の破滅が待っているだろう。今やっている事すら仕上げられず、消耗しきった私は精神疾患か身体疾患にかかり、何もできなくなってしまうに違いない。
だから、やりたい事をどんどん捨てないと、私はこれから生きていけないんだな、と思った。
私の「選択すればできることリスト」には、実現可能性の高いいろいろなものの名前が並んでいる。正直、自分でも目移りしそうなぐらいで、中年期を迎えた自分自身に、まさかこれほどの選択可能性があるとは考えもしていなかった。そういう意味では、私は果報者だ*1。
しかし、知識や経験によってできることが増えた半面、それを実行するための体力や集中力や時間が目減りしてしまったがために、「選択すればできることリスト」から実際にチョイスできる選択肢の数は十年前より少なくなってしまった。あたかも、素晴らしいメニューの並ぶ居酒屋に入ったのに、胃袋が小さいせいで、2~3品しか注文できない人のようだ! もう、思春期の頃のように「あれもこれもつまみぐいしてから考える」なんて体力的・時間的余地はない。今、何かを選択するということは、他の何かを選択しないということに直結している。私は、「選択すればできることリスト」から何かを選んでいるつもりで、実は、選ばないものを捨てているのだ。そうやってできそうな可能性を捨てていかなければ精神的・肉体的に死んでしまうことがわかっているから、可能性のありそうなものでも切っていかざるを得ない。
「可能性を切っていくこと」には、思春期の頃から慣れているつもりだったが、あの頃には、人生の時間はもっとたっぷりあるように思えた。けれども今は違う。自分に残された時間が少ないと肌で感じるようになったし、多くのことに「後回し」という言葉は適用できない。後回しにしている間に、私自身は年を取って、世の中も変わってしまうだろう。そもそも、私は一体いつまで生きて活動できるのか? 切ってしまった「できる事」は、たぶん、諦めなければならない。
能力的な制約が減ったかわりに、加齢という、どうにもならない制約が堆積してきたことによって、私は、運命を、選択を、決めてかからなければならなくなった。今、選んでいることだけでもキチンとやっておかなければ! せめて、選んでしまった「できる事」を「できた事」にコンバートするために努めなければ! 歳月は、人を待ってはくれない。
これは四十代前半の私が正直に思っていることで、五十代前半~六十代前半の私は、きっと違ったことを思うのだろう(もし生きていたらの話だが)。そして、この文章を十年後~二十年後の私自身が読み返すしたら、さぞ羨むかもしれない。が、ともあれ今こうやってブログを書いていること自体も「できる事」の取捨選択のひとつで、私は、この文章をどうしても書き残して、未来の私に伝えてみたかったのだと思う。
「できる事」をどんどん捨てなければ生きていけないのだとしたら、せめて、選ぶべきものをキチンと選んで、選んだからには最善を尽くしていきたい。
*1:現代人のセンスでは、選択可能性が多いほど幸せで選択可能性が少ないほど不幸せということになっているから、そのセンスに則って言えば果報者、という意味でしかない点に注意