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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

現代倫理学概論#4 奴隷と道徳

モラルというのは、人類史における一大発明ではないか、と思われるのだが、そのあたりを説明してみる。

ニーチェがキリスト教を「奴隷の道徳だ」と言ったのは有名だが、実は道徳(モラル)とはもともと奴隷のためにあるのではないだろうか。社会の上級国民がモラルを持っていたことは歴史的に無いのではないか、ということだ。そして、実は下級国民(奴隷と言っても同じことだ。つまり、上級国民に奉仕する階級だ。)にモラルが与えられたことは、下級国民自身にとっても幸福ではなかったか、というのがここで私が論証しようとするテーゼだ。

まず、モラルとは「禁止の体系」である、ということを議論の出発点としよう。あらゆる欲望に対して、それを禁止するのがモラルというものの本質なのである。これはどの宗教的モラルにおいても共通した事実だ。
そうすると、欲望の達成に不自由の無い上級国民がモラルを守るというのは、明らかに不合理であることになる。まあ、せいぜいが趣味以上のものではないだろう。でなければ、宗教に毒され、惑わされているかだ。(マルキ・ド・サドの「虚栄の塔」は、「超人的な存在はモラルをも超越しているために、神的存在と対立する」ということを象徴的に描いている。)
では、下級国民がモラルを得た(上級国民の一部から下賜された)ことで起こることは何か。
それは、第一に「上級国民の立場が下級国民から脅かされることがなくなる」ことであり、マルキシズムなどは、このあたりを「宗教は阿片である」として、宗教のもたらす罪悪としている。
では、モラルを得たことで下級国民は不利益だけを被ったのか、と言えば、それは違う、と私は見る。それは何よりも下級国民に心の平安を与えたのである。
すなわち、「自分が不遇なのは、自分が劣っているからではなく、むしろモラルを守る優れた人間だからこそである。つまり、欲望を自制できる優れた人間だからこそ、その不遇にも耐えているのだ」という、「酸っぱいブドウ」的な言い訳を下級国民に与えたわけだ。

モラルが存在しなければ、下級国民は上級国民の所有物を奪うための闘争に立ち上がるだろうし、その過程で大半は殺されることになるだろう。それで社会の進歩も起こりはするだろうが、闘争の余禄を得るのは後世の人々であり、闘争に立ち上がった人々の一部が上級国民になるだけのことだ。

モラルというのは、「世の中の不平等や不条理に対し、自分が何もできない弱虫である」という意識を薄めてくれ、むしろその弱虫の自分を自分の意識の中で「道徳的な偉い存在」にしてくれるわけである。

これは奴隷階級の人間にとって非常な精神的恩恵ではないだろうか。自分が奴隷であることを日常的に考えていたら鬱病になり、自殺しかねない多くの下級国民を「モラル」という禁止の体系は精神的に救っているということである。


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