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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

現代倫理学概論 #1 序文

序文


ちくま書房の「心洗われる話」の中にある宮本常一の「土佐源氏」を読んで、思うところがあったので、「現代倫理学概論」というシリーズで、倫理について考察してみることにする。
テーマは、「倫理の起源と、現代における合理的倫理」というものだ。なお、倫理は感情に由来するというヒュームの思想に私は賛成するものだが、それぞれの時代の倫理には感情だけでなく、時代や地域に合った合理性もある、とも思っている。しかし、倫理は時代にも場所にも影響されるものであり、過去の時代の倫理に縛られることで、人生の可能性を自ら狭め、つまらない生き方をする人も多いと思う。特に真面目な人や古典的文学の影響を受けた人はそうなりやすいのではないか。実は私自身がそうであり、不道徳なことは絶対にするまい、と考えて生きてきた結果、何事も成さないままで近々、死を迎えるだろうと覚悟している。
その轍を踏まないように、若い人は倫理の意味と意義、そして逆にあえて倫理から逸脱することの意味と意義を若いうちに考えてほしいというのが、この一文の意図である。もちろん、これを公表するかどうかは未定であるから、これは単なる自分自身のための「思考実験」であり「覚え書き」だ。ただ、ブログに書いておけば、書いたものが行方不明にはなっても、どこかには存在するだろうから、ブログを利用して書くのである。

なお、体系的に書くのではなく、思いつく順番(強い興味を持った問題の順番)で書いていくのは、これが草稿であるためだ。当然、書かれた内容はいずれ書き加え、整理していく予定である。




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ヒュームの法則

予想通り面白い考えだが、ヒューム自身が、「なぜそう言えるか」を論理的に説明していないらしいのは残念だ。
「道徳は感情に由来する」という思想については、私も同意するが、そういう考え方をするなら、たとえば「復讐」は道徳的である、というテーゼも可能だろう。
感情から生まれ、理性の検証を経て精錬された思想やテーゼが道徳だ、と言うべきではないだろうか。つまり、「復讐することの快感と、その復讐が長期的に当人や周囲や社会に与える害悪を比較考量したら、復讐はすべきでない」という感じである。
道徳的であるとは、同時に理知的かつ合理的でもある、ということである。

しかし、「現実がそうである」ことから、現実に合致する或る(しばしば不道徳な)行為を「正しい」と見なす誤謬や誤魔化しは我々が日常的に見ることであり、ヒュームのこの異議申し立ては、「道徳や『正しさ』に関する世にありふれた初歩的誤謬」を見事に指摘していると思う。


ヒュームの法則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。

概要[編集]

デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』第三巻第一部第一節「道徳的区別は理性から来ない」において道徳的判断は理性的推論によって導かれないことを主張した(ちなみにどうして道徳的判断をするのかについての彼の積極的な答えは感情に起因するというものである)。ヒュームの法則はその議論の一環である。しかし、それは――20世紀以降の英米のメタ倫理学における注目とは裏腹に――ヒューム自身の中心的な論点ではなく、彼の倫理学における扱いは思いのほか軽い。現にそれはその節の最後の一段落で申し訳程度に述べられているのみであり、これ以降の箇所でのヒュームの哲学倫理学の理論において言及されておらず、能動的役割を果たしてもいない。つまり、「それは先行する論点を補援し、その応用として因みに、付随的に加えられた『いささか重要な』論述にすぎない」(杖下, p.148)。

類似した事柄をG・E・ムーアも『倫理学原理』において述べており、彼はあることが自然的であることから、道徳的判断を導いたり(例えば「~するのがあたりまえである」から「だから~すべきだ」のように)、善を定義づけることは不可能であるとした。こちらは自然主義的誤謬と呼ばれている。

批判[編集]

ジョン・サールは「How to Derive 'Ought' From 'Is」において約束をするという行動はその定義のために義務の下にあり、その義務は「べき」となることを表す、と主張した。

現代の自然主義哲学者たちは「である」から「べき」の導出は可能であると見なし、それは「Aが目的Bを達成するためにAはCすべきである」(In order for A to achieve goal B, A ought to do C)という言明に分析できるとした。これならば、検証または反証されうる。しかし、目的は「べき」を暗示しており、「べき」から「べき」の導出に過ぎないとも言いうる。

一部の自然主義者は単純な倫理的な「べき」―「汝殺すことなかれ」のような信念―は人間の生物学的な衝動から自然的に出てくるのであるとし、より複雑な倫理的規則は社会の共通の利益に由来している、とする。そして任意のグループ内で如何にして社会的な規則が生まれるのかのより広い調査の発展は社会生物学の科学的な分野に属する。


自然主義的誤謬

書かれていることが今ひとつ理解できないが、哲学や倫理学の根幹に関わる議論のように見えるので、メモしておく。「メタ倫理学」というのは、そういう「倫理学の根幹を改めて問う」学問だろうかと推測する。なお、「自然主義的誤謬」という言葉自体、曖昧すぎて、批判されたのは当然だと思う。せいぜいが「哲学的うっかりミス」ではないかwww   要するに、形而上的問題の考察を形而下的存在を前提にしたりすることかと思う。もっと分かりやすい例で言えば、人間精神を論じるのに人間以外の動物の習性を前提とするようなものだ。動物は敵を殺す、だから殺人は人間の本性である、という風に。
それよりも、ここに出てくる「ゾルレン(~すべし)は、ザイン(存在するもの)からは導けない」というヒュームの法則が面白そうだが、未読である。




自然主義的誤謬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、naturalistic fallacy の訳語である。

概要[編集]

20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。

その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた。

ムーアの議論[編集]

ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである。

その何か別のものの内には、われわれが経験できるような対象も含まれるし、われわれが経験できないような形而上学的対象も含まれる。

「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。

この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である(『倫理学原理』p.39)。

したがって、一般の解説書によくある、「善を自然的対象と同一視するという誤り」という自然主義的誤謬の定義はムーアの本来の用法からずれている。

なぜ「善い」は定義できないのか。[編集]

ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。

これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる。

自然主義的誤謬はしばしば「「である」から「べし」は導けない」というヒュームの法則と同一視されるが、これもまたムーアの意図と違っているということが「黄色い」との対比からも明らかである。

自然主義的誤謬の概念を武器に、ムーアはスペンサーの進化倫理学やジョン・スチュアート・ミルの功利主義(以上は自然主義的倫理の例)カントの倫理学(これは形而上学的倫理の例)などを批判する。

ムーア自身の立場は、「善い」は直観によってのみ捉えることができる性質である、という直観主義であった。

自然主義が「善い」と経験的対象の関係を定義的な関係だととらえ、「Xは善い」という命題が(ある種のXに対して)分析的な命題となると考えるのに対し、直観主義においては、「Xは善い」という命題は常に総合的な命題である。

ムーアに対する批判[編集]

「善い」が単純概念だから定義できない、というムーアの議論はさまざまな論者から批判されている。

  • もし単純概念だから別の単純概念の組み合わせには分解できないというだけであれば、「善い」を単一の単純概念と同一視する(「善い」は「快い」であるなど)のはかまわないはずである。(永井俊哉の議論[1]を参照)

自然主義的誤謬という言葉自体も批判され、たとえばフランケナは「定義主義的誤謬」(definist fallacy) という言葉を提案している。

また、直観主義は、直観という正体不明のものを持ち出したことで非常に評判が悪く、支持者も少なかった。

直観という語をムーアはヘンリー・シジウィックの哲学的直観にならって使っている。

この場合直観とは、中世的意味での悟性(知性)によって直接に知られるというものではなく、またカント的な意味で感性的な知覚でもなく、理性(推論能力)による吟味を経て得られたものと考えられている。

自然主義的誤謬をめぐるその後の議論[編集]

情緒主義[編集]

アルフレッド・エイヤーらの情緒主義 において自然主義的誤謬は新たな解釈をうける。価値判断を間投詞などと類比的な単なる情緒の表現だと考える。つまり、経験的なものであれ形而上学的なものであれ、何かの事実を記述するという事実命題とは、本質的に異なるタイプの判断なのである。この立場からは、自然主義的誤謬とは記述と情緒の表現というまったくことなる性質の行為を同一視しようとする誤りだということになる。

普遍的指令主義[編集]

情緒主義と異なる非認知主義の立場としてR.M.ヘアー普遍的指令主義がある。ヘアーは自然主義的誤謬にあたる言葉として、「記述主義的誤謬」(descriptivistic fallacy) という言葉を使う。ヘアーも情緒主義にならって、この誤謬の本質は記述と記述でないものを同一視することにあると考えていたが、その場合の「記述でないもの」とは、ヘアーにとっては具体的には指令 (prescription) あった。

新しい自然主義[編集]

近年のメタ倫理学においてはコーネル実在論還元主義といった自然主義の立場が復興している。これらの立場は「善い」と自然的性質が定義によって同一になるのではなく、形而上学的に同一である(水とH2Oが同一であるというのと同じ意味で同一である)と考える。つまり、彼らは確かにムーアのいう自然主義的誤謬は誤謬であると認めつつ、自然主義者は必ずしもそうした過ちを犯す必要はない、と考えるわけである。

脚注[編集]

  1. ^ 言語行為と規範倫理学(05)ムーアの自然主義的誤謬批判 | 永井俊哉ドットコム

参考文献[編集]

  • Richard (1998). The Moral Philosophers: An Introduction to Ethics (2nd ed.). New York: Oxford University Press. ISBN 9780198752165. 
    (=『道徳の哲学者たち-倫理学入門』 塚崎智・樫則章・石崎嘉彦訳、ナカニシヤ出版、2001年、第2版。ISBN 9784888486354)

関連項目[編集]

村上春樹作品の本質

カズオ・イシグロと村上春樹を比較した記事の一部だが、村上春樹の作品についての本質的な部分を突いている感じがある。もっとも、初期から中期の作品について妥当する評ではないかと思うが、後期の作品は重いテーマを扱っていても、それが本気なのかどうか、「義務的苦悩」「作り物の苦悩」ではないか、という気がするし、テーマが重くなればファンや大衆は離れていくのではないか。
要するに、ライトノベル作家としての村上春樹こそが彼の世界的人気の理由だと私は思っているのだが、であるからにはノーベル賞を彼に与えるのは、たとえばスチーブン・キングにノーベル文学賞を与えるようなものだと思うのである。それよりはボブ・ディランに与えるほうがまだ「文学的」には意義があるのではないか。
「若者の表層的な苦悩」という言葉には棘もあるが、実際、村上春樹の中期までの作品のほとんどはそれだろう。なぜ主人公が苦悩するのか、と言えば、「若さゆえ」と結論するしか無さそうに思う。恋愛が苦悩の原因になるのは、文学的なテーマではあるのだが、その苦悩も「こちら立てればあちらが立たず」という、モテ男の二股恋愛の苦悩のような気がするのである。そこが表層的な苦悩に見えてしまう。こちらとあちらのどちらも得たいという図々しい苦悩だから表層的苦悩だと言っているわけだ。
と言っても実は私は彼の作品は「国境の南太陽の西」しか読んでいない。読まなくても、彼の作品の評などを読めばだいたいその作風は想像できるし、実際に読んだ印象も先入観どおりであった。つまり、ライトノベルである。セックス描写が露骨なのが子供むけライトノベルとの相違である。そこ(セックス描写)が「純文学」と勘違いされた理由だろう。
いや、ライトノベルだからこそ売れるのである。そして、文章は上手い。詩情もある。ユーモアもある。そこが世界的な人気の理由だろうし、それで十分ではないか。本人もそう思っているような気がする。「ノーベル賞」だ何だと騒いでいるのは出版界だけだ。








「実は春樹フィーバーの裏側で言われている説があるのです」とはベテラン編集者だ。

「94年受賞の大江健三郎、00年の高行健など、ノーベル賞作家は社会性のある作品が多い。ずしりと重いのです。イシグロ氏の『わたしを離さないで』の設定は、人間が“オリジナル”と呼ばれる世界。彼らの遺伝子によってつくられたクローンの子供たちが成長し、オリジナルに臓器を提供するために内臓を切除され、モルモットのように死を迎えるストーリー。科学と人間の根源的な罪悪がこめられている。一方、村上作品は卓越した文章力でカルト的人気があるものの、若者の表層的な苦悩というイメージが強い。ヒット作『ノルウェイの森』の映画版が酷評されたのはそのせい。だからノーベル賞が空振りに終わるのでしょう」

メイルショービニストピッグ

これは広末の勝ち。坂上みたいな潜在的(か顕在的か知らないが)メイルショービニスト【男性至上主義者・男性専制主義者】はまだまだ日本には多いと思う。

私は男だが、この手の男が大嫌いなのである。だが、案外とこういう男のほうを好む女も多い。



            さんがリツイート
10月3日

今日のさんま御殿。坂上忍が「恋人が洗い物をしないので仕方なく自分が洗う事があるけど、彼女がそれに気が付かないと嫌。ありがとうは言って欲しい。」みたいな話をした後、話を振られた広末涼子が「うちは『お礼言わなくていいよ。お礼言うなんて特別な事したみたいじゃない。』って言われます。」と