ヒュームの法則
「道徳は感情に由来する」という思想については、私も同意するが、そういう考え方をするなら、たとえば「復讐」は道徳的である、というテーゼも可能だろう。
感情から生まれ、理性の検証を経て精錬された思想やテーゼが道徳だ、と言うべきではないだろうか。つまり、「復讐することの快感と、その復讐が長期的に当人や周囲や社会に与える害悪を比較考量したら、復讐はすべきでない」という感じである。
道徳的であるとは、同時に理知的かつ合理的でもある、ということである。
しかし、「現実がそうである」ことから、現実に合致する或る(しばしば不道徳な)行為を「正しい」と見なす誤謬や誤魔化しは我々が日常的に見ることであり、ヒュームのこの異議申し立ては、「道徳や『正しさ』に関する世にありふれた初歩的誤謬」を見事に指摘していると思う。
ヒュームの法則
ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。
概要[編集]
デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』第三巻第一部第一節「道徳的区別は理性から来ない」において道徳的判断は理性的推論によって導かれないことを主張した(ちなみにどうして道徳的判断をするのかについての彼の積極的な答えは感情に起因するというものである)。ヒュームの法則はその議論の一環である。しかし、それは――20世紀以降の英米のメタ倫理学における注目とは裏腹に――ヒューム自身の中心的な論点ではなく、彼の倫理学における扱いは思いのほか軽い。現にそれはその節の最後の一段落で申し訳程度に述べられているのみであり、これ以降の箇所でのヒュームの哲学や倫理学の理論において言及されておらず、能動的役割を果たしてもいない。つまり、「それは先行する論点を補援し、その応用として因みに、付随的に加えられた『いささか重要な』論述にすぎない」(杖下, p.148)。
類似した事柄をG・E・ムーアも『倫理学原理』において述べており、彼はあることが自然的であることから、道徳的判断を導いたり(例えば「~するのがあたりまえである」から「だから~すべきだ」のように)、善を定義づけることは不可能であるとした。こちらは自然主義的誤謬と呼ばれている。
批判[編集]
ジョン・サールは「How to Derive 'Ought' From 'Is」において約束をするという行動はその定義のために義務の下にあり、その義務は「べき」となることを表す、と主張した。
現代の自然主義哲学者たちは「である」から「べき」の導出は可能であると見なし、それは「Aが目的Bを達成するためにAはCすべきである」(In order for A to achieve goal B, A ought to do C)という言明に分析できるとした。これならば、検証または反証されうる。しかし、目的は「べき」を暗示しており、「べき」から「べき」の導出に過ぎないとも言いうる。
一部の自然主義者は単純な倫理的な「べき」―「汝殺すことなかれ」のような信念―は人間の生物学的な衝動から自然的に出てくるのであるとし、より複雑な倫理的規則は社会の共通の利益に由来している、とする。そして任意のグループ内で如何にして社会的な規則が生まれるのかのより広い調査の発展は社会生物学の科学的な分野に属する。