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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ブスやデブタレントによるテレビ画面汚染

女性タレントのツィッターやらインタビューでの発言に対し、可愛いタレントや美人タレントの場合は女性のほとんどが否定的反応を示し、不細工女タレントの場合は肯定的反応を示すという話なのだが、美人でない女性はあらゆる美女や美少女に対し否定的である、というのが不思議である。まあ、それだけ美醜で判断される厳しい人生を女性が送っているということなのだろう。美女の社会的地位が下がることで自分の相対評価が上がるだろうという期待ではないか。
男の場合は、その反対に、たいてい誰でも美男子や美女が好きだと思う。ただし、マスコミに祭り上げられた「イケメン」はだいたい嫌われる。つまり、ホスト顔は男には嫌われる。
女性が不細工タレントを持ち上げるから、テレビの中に不細工タレントが氾濫するのは困ったことである。まあ、芸があるとかタレント性があるならいいが、デブというだけで重用されたりするのは「画面汚染」である。
(なお、ブスやブ男でも、脇役俳優の場合は存在価値があることが多い。特に年配のブ男俳優は、本物の使用価値があるから生き残っているのである。女優の場合は、自分は最初から脇役俳優という覚悟を決めた人に名女優になった人が多い。)

なお、私は美男子だった(もちろん過去形だ。)ので、いつでも美人や美男子に好意を持っている。内容の無いブスやブ男よりは内容の無い美人や美男子のほうがまだ鑑賞面からは好ましい。ただし、他の男連中同様、ホスト顔、ジャニーズ顔は苦手だ。ホモっ気は抜きにして、「男」として魅力のある顔とそうでない顔というのがあるのである。三国連太郎とか丹波哲郎とか三船敏郎というのが男が好む男の顔だろう。野性味があるかユーモアがあるかでないと、男としての魅力は無い。ユーモアのある顔というと、日本では少ない。西洋ならポール・ニューマンやゲーリー・クーパーなどである。





12: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:27:16.39 ID:9qrX7Vn9p
女は本当に可愛い子には可愛いって言わない
  • >>12 これが真理ですわ

    思考ハッカー

    2018年01月10日 12:39

  • >>12 いや、認めざるを得ない美人にはそりゃ言うわ

    思考ハッカー

    2018年01月11日 10:23

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7: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:26:03.04 ID:yT9OAuDR0
かなしいなぁ

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    17: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:28:38.48 ID:d/JARMwl0
    嫉妬やない
    これだけは嫉妬やない

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      18: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:28:51.01 ID:5U40xY4qM
      イモトはええやん

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        20: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:29:06.31 ID:5l85XDvUM
        ブス「ははっwブスが頑張ってんじゃんw」

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          28: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:30:50.72 ID:lLwE/3/ha
          ガルチャンってなんJより魔境よな
          • >>28 あそこは高卒貧困ブスしかいないな 男みたいに現実を認識したうえで煽るんじゃなく、受け入れられない事実をなんとしてでも歪めようとするキチガイだらけやで

            思考ハッカー

            2018年01月10日 14:30

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          29: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:31:01.48 ID:jqBqOhS+d
          お前らも山﨑賢人とか山下智久にかみついてるじゃん
          • >>29 男が嫌いなのって星野源とか中途半端なやつだろ

            思考ハッカー

            2018年01月10日 11:47

          • >>29 山崎賢人はイケメンではない。ついでに菅田も

            思考ハッカー

            2018年01月10日 13:02

          • >>29 V6岡田や阿部寛を叩く男はネットにはおらん

            思考ハッカー

            2018年01月10日 19:41

          • >>29 ↑ほんとだすげえ勢いでチンが噛み付いてるな

            思考ハッカー

            2018年01月12日 00:18

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          40: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:32:41.24 ID:+TMZzhZJ0
          >>29
          イケメンはわりと好きやぞ
          男でもブ男なんてわざわざ観たくないわ

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            32: 風吹けば名無し 2018/01/07(日) 00:31:20.81 ID:y1ViVxG80
            >>29
            まったく噛み付いてないぞ



              PR

              文化と文明





              文化と文明

               

              まず、例をあげて考えよう。黄河文明とかエジプト文明などのように、我々は、人間の知恵が発達し、動物と一線を画すようになった状態を文明と呼んでいる。人知が明るくなった状態が文明だと言える。一方、江戸文化とは言うが、江戸文明とは言わない。なぜなら、江戸というのはすでに人知が明らかになった、そのはるか後の時代であり、また規模が小さいからである。文明とは人知の発祥や発達を示す長い期間と、その舞台となった地域、通常は広範囲な地域を指す言葉だ。では、文化とは何か。文明の中に含まれる様々な物質的精神的産物が文化なのである。江戸文化とは、江戸時代の人々が作りだした文物のすべてである。(文物とは文化的産物のことだ。)

              すなわち、文化とは人間が生活を豊かにするために作り上げた事物や制度のすべてである。言い換えれば、動物と人間を分けるものが文化の有無なのである。そして文明とは人間が文化を有した状態にあることを表現したものだ。ただし、その期間が短い場合やその地域が狭い場合には「文明」とは言わないのは先に書いたとおりだ。つまり、「文明」と言うには時間的空間的なスケールの大きさが必要なのである。

              ここで、ドイツ哲学あたりから来たと思われる、「文化=精神的産物」「文明=物質的産物」というような使い分けはしないことにする。我々は日常生活の中でそのような使い分けなどしていないからである。

              もちろん、文化は必ずしも産物だけではなく、存在の状態をも表すことがある。文化という言葉自体、もともとは「~化」という状態変化の意味なのだから。

               

              ところで、「文」とは何か。これは「文章」などではなく、「あや=飾り」のことなのである。つまり、生活の中に装飾が生まれることが文化なのである。この場合、装飾とは装飾的活動や装飾的事物のすべてを指す。言い換えれば、生存に直結しない、不要不急の事物を指す。たとえば、物を食うのには、何も箸やフォークは要らない。手づかみで食えばいい。この箸やフォークが装飾的事物であり、箸やフォークを使うのが文化的行為なのである。

              なぜか我々の先祖は、そうした無駄な行為に一種の美感を感じたらしいのである。最初に箸やフォークを使った人間はおそらく嘲笑されただろう。だが、それを使い続けるうちに、他の者も、それを使う行為に何か意義があるというふうに感じ始めたのである。特に、それを使うのが王侯貴族であれば、そうした事物や行為が王侯貴族の品位を表すものとされ、下の階級の者たちに真似された。すなわち、模倣的動物としての人間の本性が、新たに誕生した文化をそのまま死滅させずに伝播させ、発展させたのである。

              最初に箸やフォークを使った人間が、それに美感を感じたと私は書いた。ここに動物と人間の相違がある。動物にも怒りや恐怖の感情はある。だが、美感やユーモアは無い。怒りや恐怖は生存と直結した感情だが、美やユーモアにはそうした「必要性」はない。だからこそ、人間のもっとも人間らしい感情的特質なのである。

              美も笑いも文化的産物であり、文化が違うと共有できない。同じ文化圏内でさえ、年代が違えば美や笑いは共有できなくなることがあるのである。いっぽう、怒りや恐怖はより普遍的である。

              文化とは、要するに生存の必要性を棚上げにして、眼前の事物に新たな意味付けをするという頭の回路から生まれたものであり、それを昔の人は「文=飾り」と呼んだのである。

              もちろん、人間の文化の多くは必要性から生まれたものではある。私はここで文化の起源を論じているのであり、人間の文化がすべて無駄な物事の主観的な意味付けだなどと言うつもりはない。だが、その出発点において、ある種の「装飾性への渇望」があったからこそ、人間は他の動物と異なる存在になったのだと思う。装飾性というものこそが、人間と動物を分ける、と私はここで主張しておこう。言い換えれば、不要不急の物事にも意義を見出すところに人間的な精神の働きがあるのである。それを私は文化性と言っている。

               

              人間は動物的生を生きることもできる。いや、中世までの農民の暮らしは生活の必要性に縛り付けられた暮らしがほとんどだっただろう。だが、その中でも彼らは生活の装飾化を試みた。それが日常の儀式化であり、祭りなどの「ハレ」の日である。

              なぜ花嫁花婿は三三九度で固めの杯を飲むのか。答えは単純だ。それが「意味ありげ」だからである。意味ありげなものは人々を「ハレ」の気分にする。それだけである。三三九度が二二四度だろうが、五五十度だろうが、同じことなのである。

              神主はなぜあのわけのわからない祝詞を読むのか。それが「意味ありげ」だからである。「何事のおはしますかは知らねども、忝さに涙こぼるる」という気分に人々を誘うからである。

               

              もう一度繰り返すが、文化とは、生存の必要性を離れることによって人間が人間という存在になった証なのである。すなわち、ファンタジー(夢想)の能力によって人類は人間的存在となったのだ。

              道具を使う動物は人間だけではないという。しかし、その道具に装飾を施すのは、おそらく人間だけだろう。これは道具を使いこなすための手があるか無いかだけの問題ではない。物事に主観的な「意味」を見いだせるか見いだせないかという違いなのである。物事を意味付けするとは、抽象化の能力でもあり、抽象的思考の出発点でもある。

              犬や猫の目には、青信号や赤信号は青や赤という特徴をもった物体でしかない。だが、人間はそこに「進め」や「止まれ」という意味を読む。なぜなら、そのように取り決められているからだ。これが文化であり、動物が持ちえないものである。

              意味付けする能力とは、言い換えれば「空中に楼閣を建てる能力」である。意味を剥ぎ取れば、そこには妄想の残骸があるだけだ。

              我々の生には何かの意味があるだろうか。それとも、誕生しては死滅する無数の動物や昆虫の生と同じだろうか。答えは、それを自分がどのように意味付けするかによる、というものだ。我々の人生の価値なるものはもちろん主観的幻想にすぎない。だが、幻想による意味付けが無意味かというと、そうとも限らないのである。その価値を信じきれない人間を虚無主義者と言う。我々の生は、我々が踏みつぶす蟻の生と変わることはない、と彼らは考える。だが、そう考えることで彼らは自らの生をそう意味付けてしまったのである。

              神が存在しない限り、この世界には意味がない、という考えをする人もいる。そこで彼らは自分好みの神を想像し、あるいは創造する。そして、神が自分を創造したと信じる。これも人生の意味付けの一つである。神が偉大な存在である以上、神に創造された自分や、その人生に意味が無いはずはない、というわけだ。これが西欧人種の考え方だ。したがって、神に従うことにも意味があると彼らは考え、本人は神に従っているつもりで、神を利用する人々に従う。こうして神を利用した支配システムが作られる。これも文化の一つである。その他、音楽も美術も、人間による主観的意味づけから生まれ、やがてそれが実体的な感動の源泉となっていった。すなわち、主観から生まれた幻想が、多くの人々に共有され、実体的な事物となっていったのである。

              抽象化の能力は言語と結びつくことで文化を飛躍的に発達させた。そして、人間は論理に従って思考することを覚え、論理に従って思考すれば問題に正解を出す確率が高くなることを知った。このように、「幻想能力」から始まって、「抽象化」「言語」「論理」などが加わることで、人間のあらゆる文化の土台ができあがったと言っていい。しかし、すべての出発点は人間が自らの夢想を「掴み取った」ことなのである。

              「2001年宇宙の旅」で、類人猿の一人が、地面に転がった骨を拾い、それで他の骨を叩く。叩かれた骨は梃子の原理で空中に飛び上がる。類人猿はそれを見て何か考えたような表情になる。これが、人類が文化を得た瞬間であり、人類が類人猿から人間となった瞬間なのである。「叩く→叩かれた骨は打撃を受けている→他の骨を叩く→叩かれた骨は砕ける→叩かれた物が獣なら?→もしかしたら、その獣は死ぬ→この骨を手で持つことで、他の野獣と戦える」こうして、最初の「武器」の概念が人類に誕生したのである。

              そこから人類のあらゆる文化が発生してくるのだが、そのすべては、あの類人猿が小首をかしげて「考えた」瞬間から始まったのである。



              各年代での人生の密度

              コメント25は私にとっては盲点だった。なぜ年を取るに従って感受性が鈍り、すべてが退屈になっていくのか、という疑問の答えは、生きてきた時間が分母になる、ということであるようだ。
              ほとんどすべてが「新しい経験」である頃と、ほとんどすべてが「やったことの繰り返し」である年代では経験の重みがまるで違うのは当然である。
              もちろん、後者も悪いところだけではなく、何事にも動じなくなり、何事でも簡単にあきらめることができ、生きるのが容易ではある。
              ついでに言えば、年を取ると、未経験のことでも、これまでの経験に照らして簡単に予想がつくため、あまりやる気が起こらなくなる。たとえば新しい漫画やアニメ番組を見る場合でも、それを読んで得られる快感と不快感の予想を天秤にかけ、不快感が勝るという予想なら見なくなるだろう。残された時間が少ないから、使える時間をそういう不快なものにしたくないわけである。その結果、新しい発見をすることも少なくなる。





              23: 名無しさん@おーぷん 2018/02/11(日)08:56:12 ID:R40
              正直小学生の6年間と最近の10年間どちらが短いかと聞かれたら後者を答える自信ある

               

              25: 名無しさん@おーぷん 2018/02/11(日)08:58:19 ID:745
              >>23
              そらな、例えば小学6年生にとっての1年は「生きてきた12年のうちの1年」なんや
              しかし30~40ってなってくと30年のうちの1年、40年のうちの1年ってなって
              どんどん密度と価値が薄れていくんやな

               

              27: 名無しさん@おーぷん 2018/02/11(日)08:59:02 ID:Lzq
              >>23
              わかる
              ワイも高校の3年より会社入ってからの6年の方が短いわ

               

              28: 名無しさん@おーぷん 2018/02/11(日)08:59:05 ID:0ui
              >>23
              長かったよなwww
              高校の3年間が20~30までとほぼ同感覚





              情報学的に見た「運命」




              情報学的に見た「運命」

               

              (1)

               

              運命はあるか無いかと言えば、それはある。ただし、運命が不変的か可変的かと言えば、それは可変的だろう。簡単な話、君は今すぐにでもビルの屋上から飛び降りて自分の人生を終わりにすることもできる。この場合、運命は君によって作られた。つまり可変的だったのだ。だが、それをする「勇気」というより無謀さは君にはおそらく無い。それに対して、君がビルから飛び降りなかったのが君の運命であり、だから運命とは不変的なのだ、と占い師の類は言うかもしれない。だが、運命を司る存在がいちいち君のことなど考えているはずはない。もしも「彼」が君の運命にそれほど関心があるなら、「彼」はなぜ犬や猫やミミズやアメーバの「運命」に無関心なのか。それともミミズやアメーバの運命まで「彼」はいちいち考えて決定しているのか。運命という思想は、自己の存在や人間存在を過大視したがる人間の自惚れの産物だとも言える。

              もちろん、不変的だからこそ「運命」と言うのであり、可変的な運命という考えは論理矛盾だと考える人もいるだろう。それならば、そういう意味での「運命」は存在しない。

              では、可変的なのになぜ運命という言葉を私はここで使うのか。それは、個人の人生には大きな傾向があると考えるからだ。

               

              その考えを簡単に言えば、「人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている」ということだ。べつに新しい思想ではない。多くの「生き方指南の書」が同じことを言っている。しかし、それを詳しく説明した書物が少ないから、私がこの文章を書いているのである。

               

              私のこの文章は、情報学的観点から「運命」について考え、良く生きるためのヒントを探ってみようというものだ。

               

               

              (2)

               

              そう、人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている。

              別の言い方をすれば、自分はこのような人生を望んでいる、とあなたが情報を外部に発信しているから、外部の状況はあなたにそれを実現させるように変化していくのである。

              そんなはずはない、私の不幸な運命を私自身が選び取るはずはない、と思う人もあるだろう。もちろん、世の中には不可抗力的な運命もある。天災地変などは個人の意思や生き方とは無関係に不特定多数の人の身の上に起こるものである。そういう偶発事を私は運命とは言わない。それはただの災難だ。だが、生き方の上では、不幸な生き方を自ら選び取っている事例は無数にある。

              よくある例が、すべてに恵まれた女性が、ろくでもない男に騙されて不幸になるという事例だ。芸能界や芸術の世界では、優れた女性はだめな男とくっつくべしという法律でもあるのかと思うくらい、そういう例が多い。

              では、これは不可抗力だったのか? そう思う人はいないだろう。それとも、女性が馬鹿だっただけなのか? そう言ってしまえば話はお仕舞いである。だが、おそらく事実はそうではない。これは一種のタナトス(死や破滅への欲望)が働いた結果だというのが私の考えだ。つまり、彼女たちは破滅したかったのである。それは、彼女たちの社会的成功によって得られたもの(金・名声・豪勢な生活等々)が彼女たちに真の満足を与えず、心の中に空虚なものがあったからである。彼女たちは自分の現在の生活が癪に触っていたのである。なぜ自分はこれほど成功しながら不幸なのか。そこで、彼女たちは自分の生活を破壊する可能性のある男が近寄ってきた時に、ぞくぞくするようなスリルを味わう。

              つまり、彼女たちはそういう駄目男、ロクデナシをこそ求めていたのである。

              まあ、以上は話の一つの側面にすぎない。そういう駄目男が本当に彼女たちには魅力的に見えたのかもしれないし、そういう男たちの詐欺師的技能が奏功したということも多いだろう。

              私が言いたいのは、彼女たちは無意識的にそうなる運命を選んでいたということだけだ。

               

              (3)

               

              我々は常に外部に情報を発信しながら生きている。

              あなたの着る服、あなたの髪型、あなたの話し方、あなたの表情、あなたの癖の一つ一つが外部への情報なのである。もちろん、あなたの話す内容や行動はもっとも大きな情報だ。だが、毎日の微細な表情の一つ一つも情報なのである。それはあなたがどういう人間であり、何を望み、何を好んで何を嫌っているかを周囲の人に教えている。

              変な話だが、あなたを真に知っているのはあなたではなく、あなたの周囲の人間なのである。あなたが自分自身について知っていると思っていることはあなた自身の主観にすぎない。あるいはただの「そう見えてほしい」という願望や妄想にすぎない。

              この言葉を嘘だと思うなら、自分の写真を見てみるとよい。それはあなたの予想とは大きく異なるはずだ。あるいは自分の録音された声を聞いてみるとよい。これが自分の声とも思えない変な声のはずである。ではどちらがあなたの真の姿か? もちろん写真や録音された声だ。我々は自分自身を騙しながら生きていると言っていいくらいである。そういう甘やかしがないと生きるのが苦痛なのだから、この騙しは無益なわけではないのだが、しかし、それを事実だと思わないほうがいい。

              まず、「我々は自分自身の客観的な姿を知らない」ということを肝に銘じておこう。ソクラテスが一生のモットーとしたデルフォイの神託も「汝自身を知れ」ということだった。それだけ自分自身の真の姿を知るのは困難なことなのである。

               

              さて、我々は自分自身についての情報を周囲に撒き散らしながら毎日を生きているわけだが、考えてみるとこれはなかなか危険な行為である。自分の弱点を自分の敵に知られてはいけないわけだから、我々は自分の欠点や弱点をなるべく隠すようにする。これを「蔵拙」と言う。精神年齢の低い人間は「嘘はいけない」という大人の嘘を心から信じていたりするから、こういう蔵拙も嘘の一種だと思って偽悪的な生き方をしたりするが、これはあまり賢い生き方ではない。周囲の人間はそれを微笑ましく思って許容しはするだろうが、「社会の暗黙の了解」との本格的な衝突が起こった場合にそのかっこいい偽悪を守ることは難しい。そこでいつもの偽悪をひっこめて偽善に従うというみっともない羽目になるわけである。まあ、社会人として生きるということは演技者として生きることであり、その演技の大半は偽善なのである。

              話が少し逸れたが、我々は日々自分自身についての情報を撒き散らしながら生きている。では、その結果どうなるか。次の章で述べよう。

               

              (4)

               

              我々が自分自身についての情報を周囲に発散し続けると、周囲はそれに反応する。あなたがAという歌手が好きでBという歌手が嫌いなら、周囲の人間はあなたと話す場合にAという歌手の話をし、Bという歌手の話を避けるだろう。

              これが運命を引き寄せるということである。

              つまり、あなたが発信した情報によってあなたに集まってくる情報にバイアス(偏向)や制限がかかってくるのである。

              そこで、女が好きな人間の周囲にはワイ談好きな連中や女そのものが集まり、金が好きな人間の周囲には金の話が集まることになる。そうなると、相互作用によってより一層、女関係やお金関係の情報が彼のところに集まりだす。女についての情報が集まれば、当然、女を得る機会が増え、金についての情報が集まれば、金を得る機会が増える。

               

              プレイボーイが女にもてるのは、彼に魅力があるからではない。彼が、自分は女好きであるという情報を発信しているからである。プレイボーイであること自体がもてる理由だと言ってもいいだろう。

              金の好きな人間が砂漠の真ん中で生活していて金が儲かるわけはない。金の集まる場所で生活し、自分は金を欲していることを明らかにするからこそ、彼のところに金の情報が集まるのである。もっとも、そういう儲け話は「そんなに儲かるなら自分でやれば」という一言でお仕舞いになる怪しげな話も多いのだが、少なくとも金儲けの機会が増えることは間違いない。

              これが運命を引き寄せるということだ。

              そして、その人の運命はその人が無意識に選んでいる、ということだ。

               

              (5)

               

              デール・カーネギーやナポレオン・ヒルなどの「生き方指南の書」で言われているのは、「目標を具体的にし、それを常に意識せよ」ということである。このことの理由は、情報論的に言えば、目的を意識し明確化することで、その目的に関連する情報に対して意識が強く働くようになるからである。その目的に関連する情報に気がつけば、その情報を利用して目的が達成できる可能性も高まるわけだ。しかし、私はそれだけでは不十分だと思う。自分の願望や目標を情報として周囲に発信すると、いっそう成功可能性が高まることは前に書いた部分から明らかだろう。あなたがその情報を求めていることが分からないと、周囲の人もあなたにその情報を伝える必要を感じないだろう。

              「類は友を呼ぶ」というのは、情報の集まり方についても言えることなのである。情報は類似情報を集める、と言い換えてもいいだろう。

              逆に言えば、いくら情報を集めても、その視野から外れた情報は集まらないということだ。その外部的情報の中にこそ必要な情報がある可能性もあるわけだから、創造的な仕事をしようという場合は「食わず嫌い」をしてはいけないということである。

               

              (6)

               

              もう一度「運命」の話に戻ろう。

               

              ほとんどの人間は自分の現在の状況に不満を持っているだろう。では、どういう状況を望むのかと言えば、案外とそれを明確に言える人はいないものだ。せいぜいが、男なら美女をはべらして酒池肉林の御馳走を食うという程度の、低レベルの極楽をイメージするくらいだ。あるいは恋愛中の人間なら、愛する相手に愛し返されたならそれだけで天国だと言うかもしれない。はっきり言って、どちらも馬鹿馬鹿しい望みである。前者は1時間もたてば満腹して、それ以上は食い物を見るのもいやになるだろう。後者は、自分を愛するようになった相手の現実の姿が、そのへんのただの男や女と何も変わらないことに半日で気づくだろう。枯堂夏子ではないが、恋愛など、片思いの間が最高なのである。

              つい興奮して乱暴な発言をしてしまったが、要するに、我々の願望などあいまいなものにすぎないのである。だから、我々は(いつでも望む物に交換可能だと信じている)金を得ることを目標にするのである。だが、その金を得た後、どうするのかはほとんど考えていない。まあ、働かないで、のんびり遊んで生きられたらいいなあ、というのがほとんどの人間の願望の最大公約数だろう。ところが、一生遊んで暮らせる財産を持っている大金持ち連中が毎日遊んで暮らしているかというと、そうでもないのである。つまり、彼らにとっては遊びよりも仕事の方が楽しいのである。働くのが楽しいのだから、金が儲かる。金を得るのは楽しいから、もっと金を求める。金を求める明確な目的があるのだから、金が集まる。こういうサイクルで、金持ちはいっそう金持ちになり、貧乏人はずっと貧乏人のままとなるのである。

              こうして金持ちが自分の望む運命を手に入れるのは分かった。だが、では貧乏人は貧乏人の運命を望んだだろうか? そんなはずはない、と世の貧乏人の皆さんは声を荒げるだろう。まあ、落ち着きなさい。かくいう私も貧乏人だが、自分が自分の求めた運命を手に入れていることは分かっている。

               

              あまりにも有名な話で、世界中に同じパターンの話があるのだが、知らない人のために書こう。

              ある南のリゾート地に、大会社の社長が遊びにやってきて、休暇を楽しんだ。彼がぶらぶらと散歩をしていると、そこに原住民が昼寝をしていた。こういう怠け者の大嫌いな社長さんは、その男を叩き起こして、「そんなに怠惰な生活をして恥ずかしくないのか。少しは働いたらどうだ」と言う。男は「働いたらどうなる」と言う。社長さん「金が手に入る」男「金を手に入れてどうする」社長「いくらでも遊べる」男「たとえば?」社長「そうだな、こんなリゾート地でのんびりと昼寝ができる」

              という話だ。

              意味わかりません? 分からない人はもう一度読むように。

              つまり、私が貧乏人であるのは、このリゾート地の原住民と同じことである。金があっても金がなくてもやることは同じだから、金を求める気持ちがない。だから、金が手に入る気づかいはない、というわけだ。せいぜいが、病気の時の保険程度の金があればいいなあと思っているが、無ければ無いで、医者にかからなければいいだけだ。医者に行くのを我慢した結果、病気をこじらせて死んでも仕方がない。近代以前の社会では、どんな高貴な人でもたいした治療は受けていなかったのだから、何も不満はない。

              というわけで、私が貧乏なのは、私が、あくせく働いてまで金を求めるのは嫌だなあ、と心の底で思っているからである。そしてそういう情報を私は常に無意識のうちに外部に流しているわけだ。そうなると、金の話は私の上空を素通りしていくのは理の当然だろう。

              これが、多くの貧乏人の方々が貧乏人の運命を自ら手に入れているということの説明だが、まだ納得いただけないだろうか?

              同様に、男運の悪い女はそういう運命を自ら求めているのであり、やたらと病気や怪我になる人間はそういう運命を自ら求めているのである。後者には、考えられる限りの不摂生をしながら、病気になるとその治療に狂奔するという場合もある。まあ、病気や怪我は本人の責任ではない場合も多いのだが、私のように臆病な人間は生まれてから一度も骨折などしたことはない。骨折などというのは勇敢な人間、言い換えれば危険に立ち向かう人間の勲章であり、それもやはり自らを骨折する可能性の中に投げ込んだことから来る、性格的運命の一つなのである。

               

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              最後に、こういう「運命原理」に対し、どういう態度を取るのがいいかと言えば、言うまでもなく、何もしなくていいのである。その運命は、あなたが望んだものなのだから。もしも自分の運命を心から変えたければ、まず自分自身の無意識を見つめることである。その結果、自分の性格的運命に甘んじるか、それを変えるか決意するが良い。運命を本気で変えるつもりなら、前に書いたように「外部への情報発信」をすることである。できるだけ多くの人に対して情報を発信すれば、運命を変えるきっかけとなる情報もそのうち手に入るだろう。簡単な話、海で溺れている人間が「助けて」と叫べば、誰かが助けるだろうが、叫ばないと、ただ泳いでいるだけと見做されるかもしれない。情報発信とはそういうものである。助けが欲しければ、助けを求めて叫びなさい。これが「求めよ。さらば与えられん」ということである。



              何かを学ぶということ






              小中学校の教科というものは、案外と合理的に分類されている。つまり、人間が社会に生きていく上で必要な知識のほとんどが体系化されて学べるようになっているわけだ。

              「国語・算数(数学)・理科・社会・音楽・美術・体育」について、義務教育レベルの内容を習得すれば、それで社会人として生きていく上での知識は十分なのである。後は自分が興味を持った分野について独学していけばいい。

              つまり、社会人として必要な学歴は、義務教育終了まで、つまり中学卒までなのである。それ以上は無駄な学歴だ。高学歴であるということは、自分一人でもできる勉強や、学ぶ意味の無い無駄な学問を、他人(学校)に頼って身につけて満足しているだけのことである。ところが、実はその義務教育レベルの知識も、案外といい加減なのが一般の社会人である。

               

              義務教育レベルの知識に関していえば、私の自己評価は5段階評価で「国語5算数5理科3社会4音楽3美術3体育3」といったところだ。ただし、長年生きているので、国語の「5」は「50」くらいにまで達しているし、算数も「10」くらいはあると思う。しかし、5段階評価なら、どちらも5にしかならない。その一方で、理科は中学生レベルでも普通レベルしかないし、社会は学校教育的知識なら4程度で、社会の裏知識なら30くらいはあるだろう。体育も「保健体育」なら10くらいはあるかもしれないが、実技は中学生の平均以下かもしれない。社会人の知識というのはそういうものだ。自分の興味のある分野の知識だけがどんどん肥大していくが、それ以外の知識は、実は中学レベルで止まっているのである。そういう大人が、小学生や中学生に向かって、偉そうにお説教をしているのを見ると、私は内心、おかしくてならない。案外と、人間のレベルはあなたがお説教しているその子供のほうが上かもしれないよ、と思うからである。

               

              「タブラ・ラサ」という言葉がある。「白紙」ということだが、辞書的な説明では「感覚的経験をもつ前の心の状態を比喩的に表現したもの」(「大辞林」による)ということになっている。何かを学習する以前の脳が、いわばこのタブラ・ラサである。

              私は脳科学には詳しくないが、我々のあらゆる経験は脳の中の一つの集積回路となり、その集積回路が無数に集まったのがハードディスクとしての脳なのだと考えている。つまり、我々の脳には毎日毎日、無数の「書き込み」がされていくのである。しかも、それはクリアできないハードディスクなのだ。忘却とは記憶がクリアされることではない。インプットされた書き込みの取り出しができなくなることなのである。つまりは、脳の故障だ。

              我々が何かを覚える度に、脳の「未使用領域」がどんどん少なくなっていく。年をとると物覚えが悪くなるのは、「未使用領域」が少なくなっていくからだろう。そこで、かつての「書き込み」の隙間部分に、無理に新しい書き込みをするのだが、上書きに上書きを重ねて劣化した脳は、それを覚えてくれないのである。

              まだ何も学んでいないという状態が、いかに素晴らしいことか、そして、その白紙状態の脳に下らない知識を詰め込むことが、いかに冒涜的な行為であるかが、以上から分かるだろう。もちろん、これはただの仮説だが、その真実性にはかなり自信がある。そうでなければ、私の記憶力がこんなに悪いはずがない。