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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

文化と文明





文化と文明

 

まず、例をあげて考えよう。黄河文明とかエジプト文明などのように、我々は、人間の知恵が発達し、動物と一線を画すようになった状態を文明と呼んでいる。人知が明るくなった状態が文明だと言える。一方、江戸文化とは言うが、江戸文明とは言わない。なぜなら、江戸というのはすでに人知が明らかになった、そのはるか後の時代であり、また規模が小さいからである。文明とは人知の発祥や発達を示す長い期間と、その舞台となった地域、通常は広範囲な地域を指す言葉だ。では、文化とは何か。文明の中に含まれる様々な物質的精神的産物が文化なのである。江戸文化とは、江戸時代の人々が作りだした文物のすべてである。(文物とは文化的産物のことだ。)

すなわち、文化とは人間が生活を豊かにするために作り上げた事物や制度のすべてである。言い換えれば、動物と人間を分けるものが文化の有無なのである。そして文明とは人間が文化を有した状態にあることを表現したものだ。ただし、その期間が短い場合やその地域が狭い場合には「文明」とは言わないのは先に書いたとおりだ。つまり、「文明」と言うには時間的空間的なスケールの大きさが必要なのである。

ここで、ドイツ哲学あたりから来たと思われる、「文化=精神的産物」「文明=物質的産物」というような使い分けはしないことにする。我々は日常生活の中でそのような使い分けなどしていないからである。

もちろん、文化は必ずしも産物だけではなく、存在の状態をも表すことがある。文化という言葉自体、もともとは「~化」という状態変化の意味なのだから。

 

ところで、「文」とは何か。これは「文章」などではなく、「あや=飾り」のことなのである。つまり、生活の中に装飾が生まれることが文化なのである。この場合、装飾とは装飾的活動や装飾的事物のすべてを指す。言い換えれば、生存に直結しない、不要不急の事物を指す。たとえば、物を食うのには、何も箸やフォークは要らない。手づかみで食えばいい。この箸やフォークが装飾的事物であり、箸やフォークを使うのが文化的行為なのである。

なぜか我々の先祖は、そうした無駄な行為に一種の美感を感じたらしいのである。最初に箸やフォークを使った人間はおそらく嘲笑されただろう。だが、それを使い続けるうちに、他の者も、それを使う行為に何か意義があるというふうに感じ始めたのである。特に、それを使うのが王侯貴族であれば、そうした事物や行為が王侯貴族の品位を表すものとされ、下の階級の者たちに真似された。すなわち、模倣的動物としての人間の本性が、新たに誕生した文化をそのまま死滅させずに伝播させ、発展させたのである。

最初に箸やフォークを使った人間が、それに美感を感じたと私は書いた。ここに動物と人間の相違がある。動物にも怒りや恐怖の感情はある。だが、美感やユーモアは無い。怒りや恐怖は生存と直結した感情だが、美やユーモアにはそうした「必要性」はない。だからこそ、人間のもっとも人間らしい感情的特質なのである。

美も笑いも文化的産物であり、文化が違うと共有できない。同じ文化圏内でさえ、年代が違えば美や笑いは共有できなくなることがあるのである。いっぽう、怒りや恐怖はより普遍的である。

文化とは、要するに生存の必要性を棚上げにして、眼前の事物に新たな意味付けをするという頭の回路から生まれたものであり、それを昔の人は「文=飾り」と呼んだのである。

もちろん、人間の文化の多くは必要性から生まれたものではある。私はここで文化の起源を論じているのであり、人間の文化がすべて無駄な物事の主観的な意味付けだなどと言うつもりはない。だが、その出発点において、ある種の「装飾性への渇望」があったからこそ、人間は他の動物と異なる存在になったのだと思う。装飾性というものこそが、人間と動物を分ける、と私はここで主張しておこう。言い換えれば、不要不急の物事にも意義を見出すところに人間的な精神の働きがあるのである。それを私は文化性と言っている。

 

人間は動物的生を生きることもできる。いや、中世までの農民の暮らしは生活の必要性に縛り付けられた暮らしがほとんどだっただろう。だが、その中でも彼らは生活の装飾化を試みた。それが日常の儀式化であり、祭りなどの「ハレ」の日である。

なぜ花嫁花婿は三三九度で固めの杯を飲むのか。答えは単純だ。それが「意味ありげ」だからである。意味ありげなものは人々を「ハレ」の気分にする。それだけである。三三九度が二二四度だろうが、五五十度だろうが、同じことなのである。

神主はなぜあのわけのわからない祝詞を読むのか。それが「意味ありげ」だからである。「何事のおはしますかは知らねども、忝さに涙こぼるる」という気分に人々を誘うからである。

 

もう一度繰り返すが、文化とは、生存の必要性を離れることによって人間が人間という存在になった証なのである。すなわち、ファンタジー(夢想)の能力によって人類は人間的存在となったのだ。

道具を使う動物は人間だけではないという。しかし、その道具に装飾を施すのは、おそらく人間だけだろう。これは道具を使いこなすための手があるか無いかだけの問題ではない。物事に主観的な「意味」を見いだせるか見いだせないかという違いなのである。物事を意味付けするとは、抽象化の能力でもあり、抽象的思考の出発点でもある。

犬や猫の目には、青信号や赤信号は青や赤という特徴をもった物体でしかない。だが、人間はそこに「進め」や「止まれ」という意味を読む。なぜなら、そのように取り決められているからだ。これが文化であり、動物が持ちえないものである。

意味付けする能力とは、言い換えれば「空中に楼閣を建てる能力」である。意味を剥ぎ取れば、そこには妄想の残骸があるだけだ。

我々の生には何かの意味があるだろうか。それとも、誕生しては死滅する無数の動物や昆虫の生と同じだろうか。答えは、それを自分がどのように意味付けするかによる、というものだ。我々の人生の価値なるものはもちろん主観的幻想にすぎない。だが、幻想による意味付けが無意味かというと、そうとも限らないのである。その価値を信じきれない人間を虚無主義者と言う。我々の生は、我々が踏みつぶす蟻の生と変わることはない、と彼らは考える。だが、そう考えることで彼らは自らの生をそう意味付けてしまったのである。

神が存在しない限り、この世界には意味がない、という考えをする人もいる。そこで彼らは自分好みの神を想像し、あるいは創造する。そして、神が自分を創造したと信じる。これも人生の意味付けの一つである。神が偉大な存在である以上、神に創造された自分や、その人生に意味が無いはずはない、というわけだ。これが西欧人種の考え方だ。したがって、神に従うことにも意味があると彼らは考え、本人は神に従っているつもりで、神を利用する人々に従う。こうして神を利用した支配システムが作られる。これも文化の一つである。その他、音楽も美術も、人間による主観的意味づけから生まれ、やがてそれが実体的な感動の源泉となっていった。すなわち、主観から生まれた幻想が、多くの人々に共有され、実体的な事物となっていったのである。

抽象化の能力は言語と結びつくことで文化を飛躍的に発達させた。そして、人間は論理に従って思考することを覚え、論理に従って思考すれば問題に正解を出す確率が高くなることを知った。このように、「幻想能力」から始まって、「抽象化」「言語」「論理」などが加わることで、人間のあらゆる文化の土台ができあがったと言っていい。しかし、すべての出発点は人間が自らの夢想を「掴み取った」ことなのである。

「2001年宇宙の旅」で、類人猿の一人が、地面に転がった骨を拾い、それで他の骨を叩く。叩かれた骨は梃子の原理で空中に飛び上がる。類人猿はそれを見て何か考えたような表情になる。これが、人類が文化を得た瞬間であり、人類が類人猿から人間となった瞬間なのである。「叩く→叩かれた骨は打撃を受けている→他の骨を叩く→叩かれた骨は砕ける→叩かれた物が獣なら?→もしかしたら、その獣は死ぬ→この骨を手で持つことで、他の野獣と戦える」こうして、最初の「武器」の概念が人類に誕生したのである。

そこから人類のあらゆる文化が発生してくるのだが、そのすべては、あの類人猿が小首をかしげて「考えた」瞬間から始まったのである。



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