何かを学ぶということ
小中学校の教科というものは、案外と合理的に分類されている。つまり、人間が社会に生きていく上で必要な知識のほとんどが体系化されて学べるようになっているわけだ。
「国語・算数(数学)・理科・社会・音楽・美術・体育」について、義務教育レベルの内容を習得すれば、それで社会人として生きていく上での知識は十分なのである。後は自分が興味を持った分野について独学していけばいい。
つまり、社会人として必要な学歴は、義務教育終了まで、つまり中学卒までなのである。それ以上は無駄な学歴だ。高学歴であるということは、自分一人でもできる勉強や、学ぶ意味の無い無駄な学問を、他人(学校)に頼って身につけて満足しているだけのことである。ところが、実はその義務教育レベルの知識も、案外といい加減なのが一般の社会人である。
義務教育レベルの知識に関していえば、私の自己評価は5段階評価で「国語5算数5理科3社会4音楽3美術3体育3」といったところだ。ただし、長年生きているので、国語の「5」は「50」くらいにまで達しているし、算数も「10」くらいはあると思う。しかし、5段階評価なら、どちらも5にしかならない。その一方で、理科は中学生レベルでも普通レベルしかないし、社会は学校教育的知識なら4程度で、社会の裏知識なら30くらいはあるだろう。体育も「保健体育」なら10くらいはあるかもしれないが、実技は中学生の平均以下かもしれない。社会人の知識というのはそういうものだ。自分の興味のある分野の知識だけがどんどん肥大していくが、それ以外の知識は、実は中学レベルで止まっているのである。そういう大人が、小学生や中学生に向かって、偉そうにお説教をしているのを見ると、私は内心、おかしくてならない。案外と、人間のレベルはあなたがお説教しているその子供のほうが上かもしれないよ、と思うからである。
「タブラ・ラサ」という言葉がある。「白紙」ということだが、辞書的な説明では「感覚的経験をもつ前の心の状態を比喩的に表現したもの」(「大辞林」による)ということになっている。何かを学習する以前の脳が、いわばこのタブラ・ラサである。
私は脳科学には詳しくないが、我々のあらゆる経験は脳の中の一つの集積回路となり、その集積回路が無数に集まったのがハードディスクとしての脳なのだと考えている。つまり、我々の脳には毎日毎日、無数の「書き込み」がされていくのである。しかも、それはクリアできないハードディスクなのだ。忘却とは記憶がクリアされることではない。インプットされた書き込みの取り出しができなくなることなのである。つまりは、脳の故障だ。
我々が何かを覚える度に、脳の「未使用領域」がどんどん少なくなっていく。年をとると物覚えが悪くなるのは、「未使用領域」が少なくなっていくからだろう。そこで、かつての「書き込み」の隙間部分に、無理に新しい書き込みをするのだが、上書きに上書きを重ねて劣化した脳は、それを覚えてくれないのである。
まだ何も学んでいないという状態が、いかに素晴らしいことか、そして、その白紙状態の脳に下らない知識を詰め込むことが、いかに冒涜的な行為であるかが、以上から分かるだろう。もちろん、これはただの仮説だが、その真実性にはかなり自信がある。そうでなければ、私の記憶力がこんなに悪いはずがない。