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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

昆布の効用と片足立ち

まあ、この手の健康情報はべつに完全に信じているわけではないが、試しても悪くはないだろう、と思うものをメモしているだけである。昆布がカルシウムとリンの摂取にいい、というのは初めて知った。リンはたしか体内の塩分を体外に出す働きがあったと思う。つまり、降圧剤として機能するのではないか。もっとも、塩昆布だと、逆に血圧が高くなりそうだwww
この前のページでは、太極拳は片足立ちが多いので足が鍛えられるという話を書いているが、特に太極拳をしなくても、自宅内で片足立ちはいくらでもできる。私は、コーヒーを淹れる時は片足立ちにすることを自分ルールにしている。まあ、全部で3分くらいかと思う。右足で100数え、左足で100数えたら、だいたい淹れ終わる。その際、爪先立ちにして負荷を高めることが多い。コーヒーは毎日淹れるから、それと一緒にやれば、やり忘れることがない。



老後も自分の足で歩く! そのために大切なこととは?

連載「ナイス・エイジングのすすめ」

帯津良一週刊朝日#帯津良一
帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある

※写真はイメージです (撮影/多田敏男)

※写真はイメージです (撮影/多田敏男)

 これは骨密度が低下する骨粗鬆症(こつそしょうしょう)によるものです。実は骨も新陳代謝しています。古い骨が吸収され新しい骨が形成されるのです。ところが老化すると、この吸収と形成のバランスが崩れ、骨の形成がおろそかになってしまうのです。また骨は貯蔵庫の役割があり、体内のカルシウムが不足すると、骨からカルシウムが溶け出してしまいます。このように骨密度が低下すると、骨折しやすくなるのです。

 骨折すると、それをきっかけに歩けなくなってしまいます。そうした事態を避けるためには(1)小脳の機能を維持する(2)下半身の筋力を保つ(3)カルシウムを十分に摂る──ことです。

 これに対する私なりの対策をご紹介します。

(1)に対しては脳血管の健康を保つために血液をサラサラにするサプリを飲み、片足立ちの多い太極拳に励んでいます。

(2)に対してはこまめに動いて下半身の筋肉に負荷をかけるようにしています。病院でもエレベーターは使いません。また、牛肉のような良質なタンパク質を摂るようにしています。すき焼きとかはいいですね。

(3)に対してはカルシウムが多いといってもチーズや丸干しイワシは嫌いなので、もっぱら湯豆腐を昆布だしでいただきます。昆布は「カルシウム+燐(リン)」のバランスが良く、カルシウムの補給食品としてエース級なのです。昆布だしの湯豆腐は毎日、食べています。

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漢字の成り立ちから社会の原則を考える

漢字の成り立ちというのは面白くて、今でも通じる知恵が含まれているように思う。
たとえば、「武」という字の中に「止」という字が含まれているのは示唆的である。上の部分が「鉾」を表し、「鉾を止める」意であるらしい。つまり、最初から、「暴力を止める」ことが「武」の意味だったわけで、暴力をふるうことが「武」ではない。
とすれば、憲法9条や自衛隊本来の専守防衛こそが「武の心」の神髄だと言えるのではないか。

なお、「政治」の「政」の字に「正」が含まれているのは、政治は正しく行われねばならない、という当然のことを示している。昔の人も「政は正なり」と言っている。しかし、「政」の右側は「文」であると同時に「鞭」でもあるらしい。政治は人民の教化と、法令や警察による強制力を伴うことが示されているように思う。
「治」はなぜサンズイの右に「台」があるのか、と言えば、台とは高い建物や高貴さを象徴するもので、この場合はサンズイは水害などの自然災害を表し、高い台に住む高貴な人が水害などから人民を救う、という意味ではないかと思う。

小林秀雄の文章とレトリック

小林秀雄の評論を、私は「詩人による論文」だと思っていて、それは時には、凡人には思いつかない素晴らしい「未知の世界を理解する鍵」を与えてくれるが、その表現自体は難解なレトリックの連続であって、私などは、書かれた半分も理解している自信はない。そして、その言っていることがすべて素晴らしいわけでもなく、深遠であるわけでもなく、レトリックのためのレトリックに堕している場合が多いという印象がある。

ここで、レトリックとは何かを小林秀雄的なレトリックで言えば、「通常の会話や通常の文章が歩行であるとすれば、レトリックとは言葉の舞踏である」と定義できるだろう。
そして、舞踏の例に漏れず、失敗したレトリックは地面に転倒したりする等の無様な姿をさらすのである。
次の文は小林秀雄の「様々な意匠」からの引用である。

「『大衆文芸』とは人間の娯楽を取り扱う文学ではない、人間の娯楽として取り扱かはれる文学である。」

上手の手から水が漏れたというべきだろう。どこの世界に「大衆文芸」を「人間の娯楽を取り扱う文学」と考える馬鹿がいるだろうか。ならば、人々は推理小説を「殺人という『娯楽』を取り扱う文学」と考えている、とでもなるのか。
これは、小林秀雄お得意の、「世間の馬鹿(偉い人間や著名作家や著名評論家も含む。)はこう考えているだろうが、それは間違いであり、本当はこれが真実だ」という、「対比法」による自分持ち上げのレトリックである。
基本的に小林秀雄の文章は、「説明抜きの断定」の連続であるから、読者の側はその断定の正当性を、自分の頭を悩ませて考えて納得しなければならない。しかし、人間の脳というのは外界の理解しがたい事柄を勝手に合理化する性質があるから、小林秀雄の断定にもほとんど合理的な解釈をつけて先に読み進めることになる。そして、合理的な解釈ができたら、自分が賢くなったようで嬉しいから、小林秀雄の「示唆」を価値あるものだったと思うわけである。
と、憎まれ口を叩いたが、小林秀雄の書いた文章の中には、本当に貴重な言葉がかなりあるので、特に若い人は読む価値のある作家(評論家)なのである。まあ、9割までは詩人の譫言と思えばいいが、中には高価な宝石もたくさんあるわけだ。




リアリズムの仮面を被った感傷癖

筑摩書房「現代日本文学大系」の「小林秀雄集」のパンフレットに松原新一という評論家が寄稿した「小林秀雄氏に学んだこと」の中に面白い言葉がある。それは、

「リアリズムの仮面を被った感傷癖」

という言葉だ。
これが小林秀雄の言葉の引用かどうかは定かでないが、小林秀雄がリアリズム思想の持つ欠陥をその詩人的体質から鋭く見抜いて批判していることは確かだろう。
「リアリズムの仮面を被った感傷癖」というのは、それ自体の説明はそこ(松原新一の文章)では書かれていないが、おそらく、「リアリズムは人生における感傷性の持つ非理性性を指弾するあまり、感傷性の豊富な宝をすべて否定するという、非理性的態度(感傷的態度)に堕している」ということではないかと思う。
その例示を小林秀雄自身の文章から摘出してみる。オスワルドは芝居の登場人物だろう。

「ゾラはオスワルドに言ふ。『舞台どころではないぞ、さっさと下り給へ、君には親父の遺伝がある』。イプセンが、やって来る。『成る程廃人だ、もう口も利き度くはあるまい、だが、もう一つぺん出てみるんだな、台詞は何んとか工夫しよう』」(「ヘッダ・ガブラー」より)


要するに、リアリズムとは現実の合理的集約の思想であり、集約の常に漏れず、常に多くの細部を取り落としていくわけである。思索という行為そのものが現実の捨象による抽象作業なのであるから、それがリアリズムを旗頭にしたら、どれほど多くの粗漏が生じるか、明白だろう。
ついでに言えば、私は自然主義文学が大嫌いなので読まないままで言うが、自然主義文学のリアリズムとは、要するに、現実の汚い部分醜い部分を主に取り上げることから来る「現実的だ」という錯覚を利用した印象操作にすぎないのではないか。

幸福な病気

「嵐が丘」のE・ブロンテは自宅以外の世界、特に男の世界を知らず、キャシーに失恋したヒースクリフが外国に行って成功し、資産家になって帰ってくる、その仕事内容とかも想像できないからまったく書いてない、という話があるが、社会的知識がゼロに近くても、あれだけの傑作小説が書けるというのが面白い。つまり、主テーマが「人間の精神」であれば、想像だけでかなりな部分が書けるわけである。逆にそのほうが「感情量」が巨大だから読む人の心を打つのだろう。
現実のE・ブロンテは恋愛経験もほとんど無かったと何かで読んだ記憶があるが、女性にとって恋愛とは現実(の男性との接触)以前に存在する「確かな存在」なのではないか。もちろん、父親や兄弟から「男とはこういうものだ」という手がかりは得ていても、それ自体は恋愛の対象ではなく、何か「理想化」されたものが追加されるわけだ。まあ、中世騎士物語など、過去の古典的「恋愛礼賛」文献がそこに一役買っていたと思う。
恋愛とは病気である、精神病である、というのが私の説だが、まあ、風邪やはしかのような「流行性」の病気でもあり、周囲の人間(読んだ漫画や小説や映画も含む)が恋愛病にかかっていると、自分もかかるのが当然だ、という心理になるわけである。言い換えれば、恋愛という概念が生じて広まったために恋愛病が猛威を振るうようになったわけだ。封建時代の農民など、恋愛も糞もなく、親の決めた相手と結婚してどちらかが死ぬまでは一緒に暮らしたのが普通だろう。相手をべつに「愛している」のかどうかも考えたこともなかったと思う。概念が無ければ思考は生じない。
ただ、私は恋愛を否定しているわけではない。ある意味では「幸福な病気」だと思っている。恋愛感情を持つことで、異常な精神的高揚を得ることは誰でも知っていることで、それは酒や麻薬を使用するのと同じことであり、酒や麻薬より安価である。だが、その危険性は酒以上であり、あるいは麻薬以上かもしれない。周囲の人間の手によって治癒できない、という点では普通の病気より厄介だ。そして自分自身の手でも治療は難しい。幸い、相手の拒否によって自然治癒するwww
失恋によってのみ治癒されるのが恋愛という病だが、その失恋の後遺症を一生抱える人間もおり、実は、その失恋という体験すら「甘美な、捏造された記憶体験」であったりする。
まあ、要するに、恋愛というのは実に面白い「妄想」なのである。
そういう「精神病」を実は健常者も時折経験しながら生きている。これに関しては、完全な健常者、つまり病気にならない「理性的」な人間がより幸福だとも言えない。