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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

死者との接触が不可避の商売

おそらくイタリア在住の人かと思われるツィッター(のリツィート)から転載。
こういう事態になっても宗教信者の神への信仰は無くならないのだろうか。
まあ、「天に召されるのも神の思し召し」なのだろう。


(以下引用)

カトリックでは、危篤に近い段階で司祭(神父)を呼び、逝去の前に「聖油の秘蹟」=塗油式を行うが、その際にコロナウイルスに感染したくさんの神父が亡くなっている。ベルガモでは15人の司祭が亡くなった。ここ3日間でミラノも3人の司祭を失った。パルマは6人の司祭と次々に


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「弾圧される側」としての左翼とエロ表現者の共闘

左翼とは定義的に「現状変革」を主張する政治思想であるから、世の中が変わらない限り(大きく言えば革命が成し遂げられるまで)常に体制側から弾圧される存在であり、その「思想の表現」も当然弾圧されることになる。
そういう意味では「現在の体制的道徳」に抵抗する表現、つまり過剰な性的表現が弾圧されるのと構造は同じであるわけだ。
昔から反体制思想家の多くが性的に放縦であったのは当然であるわけだろう。
要するに「表現の自由」においてエロ小説家やエロ漫画家、エロ画家は左翼思想家と同じ陣営に自然と属することになる。
だが、下で紙屋氏が言うように、左翼思想家でも性的には旧来の道徳を重んじる人もおり、エロ陣営の人でも政治的には右翼である人も無数にいるわけで、同じ「弾圧される側」だから共闘できるとは限らないわけである。
なお、過剰なエロ表現を「エロ目的ではない」と言い張るのは、それこそ偽善と欺瞞の最たるものだと私は思っている。そうではなく「エロでなぜ悪い」と言うべきだろう。
そして、これは偏見かもしれないが、私は性的に放恣な人間が他の面では健全な道徳性を持っているとはまったく信じていないのである。道徳や倫理は社会的必要性があって形成されてきたものであり、その否定には細心の注意を要するだろう。性欲の赴くままに行動することが正しいと言うなら、行きずりの女性をその場で強姦する、原始人的行為は正しいわけである。配偶者がいるのに不倫をするなら、結婚関係は無意味であるかただの束縛だということになる。(もちろん、「経済的寄生」目的の結婚関係は珍しくはないだろうし、経済的メリットが結婚の動機の一部であることは咎められることではない。だが、私は男女を問わず不倫を無思慮で「汚らしい」行為だとしか思えない。要するに、それは陰湿で下品な「裏切り」行為であるからだ。)
ちなみに、女性は恋愛感情は婚姻関係に優先する、と漠然と思っているだろう。性的関係は社会関係に優先する、と言い換えてもいい。これは女性が男性より自然的存在だからだ。子供を産み育てる性であることは頭で考えた理屈に優先するわけで、性的関係もその一環として理屈、つまり社会道徳に優先するはずだ。
これは、「現代倫理学概論」の最初に書いた、『土佐源氏』の、汚らしい馬子が「優しくして、セックスを許さなかった女は一人もいなかった」という事実からそう推定できる。

(以下引用)


 ぼくは左翼の一人ですから、左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました。もちろん、世の中でメインに表現規制を要求しているのは支配層であり、右派の人たちだろうという現実はあるのですが、それをただすべき左派の中に右派と似通った傾向が生じていないか、左派の一人として気になって仕方がありません。

 ぼくがかつて中学生だった頃に、筒井康隆のエッセイ(「差別語について」)で、いわゆる「差別語」狩りによって古典落語が次々と口演不能に追い込まれていく現状をあげて、

最近「赤旗」の編集者と知りあえた。共産主義は体質にあわないし、共産党はあの組織や制度の仕組みがいやだが、この問題に関しては「赤旗」と手を組んでもいい、と、ぼくは思っている。(筒井『やつあたり文化論』新潮文庫Kindle No.2721-2722)

と書いていたのを読み、「筒井がここまで政治的に踏み込んで支持をするのは実に珍しいのではないか。そこまで言わせると言うのは、共産党は一体どういう主張をしているのか」と興味を持ったことがあります。

 その後、高校生になってから「いわゆる『差別用語』問題について」という日本共産党の論文を読みました。

 ことばは現実の反映である。ことばだけをタブー(禁句)にしても、現実の差別はなくならない。戦前の支配者は、現存する君主制への批判をおさえようとして、“不敬語”と称する用語上のタブーをつくりだした。戦後はアメリカの占領支配への批判をおさえつけるため、占領軍という用語をタブーにし、“進駐軍”という用語に統一した。

 社会に不当な状況や不当な差別が現存する場合に、その実態を放置したままでことば、表現だけをタブーにするのは、問題の真の解決にならないことはあきらかである。不当な差別を実態的にも、心理的にも克服、解決するという積極的立場から、ことばや表現の問題にも対処していくことが重要である。まして、「差別用語」や「差別的表現」でないものを「差別語」だとこじつけてタブー視するのは、現存する不当な事態や差別を克服する問題を後景にしりぞけることにさえなる。

 〔……〕勝手な「差別語」狩りや「タブー」拡張に反対し、あくまでも言論・表現の自由のためにたたかうものである。(「赤旗」1975年6月9日)

 この論文が非常に印象に残り、ああこれが筒井の言っていたことだったんだな、と腑に落ちた記憶があります。

 ぼくにとって共産主義者とか左翼というのは表現の自由を徹底的に弾圧された歴史的当事者であり、そのために命がけで闘う存在であるというイメージがありました。

 それだけに、最近の左派界隈での風潮の変化には戸惑いがあるのです。

 そしてそのような変化は完全に間違っているわけではなく、正しい契機と誤った契機が混在しています。



医者は神様ではない

「ギャラリー酔いどれ」記事の一部で、前半部分は「東海アマ」ブログ記事が引用されたもの。
あまり詳しく読んではいないが、酔いどれ氏は重篤な肺炎(に近い症状か)の実体験の持ち主のようなので、貴重なレポートだろう。私は医者はさほど信じないが、患者の言葉は重視する。医者など、自分が処方する薬を自分で使ったこともないではないか。すべて医学教科書や製薬会社の言うがままである。
なお、高温で死滅するのはウィルスだけではない。癌細胞も高温で死滅するらしく、末期癌患者がサウナで、何かの理由で1時間だか何時間だか気絶し、目が醒めた時には癌細胞が消滅していたという、本当か嘘か分からない話もある。私は、本当だと思っている。
コロナウィルス感染者も、初期のうちにサウナにでも入ればたいていは治るのではないか。体外体内のウィルスが高温と多湿の中で死滅するのは、この上なく論理的だろう。未知の薬などより安全だと思う。まあ、自宅で42度くらいの熱い湯に浸かるのも一手である。

(以下引用)


これまでのコロナウイルス肺炎の場合、

感染初期段階で、葛根湯麻黄湯 に大きな効果があるといわれた。

理由は、麻黄の含まれた生薬は、服用後、数時間で体温を数度も上げて、

ウイルスを死滅させると言われてきたからだが、

新型ウイルスが、同じように体温上昇で死滅するとの

確実な情報は得られていない。

しかし、私はアビガンやオルベスコを買えないので、

まず最初に葛根湯や麻黄湯に頼るしかない。

オルベスコは、ステロイド系の吸入薬だが、

市販品に類似効果のある薬を見つけていない。

結局、肺炎になった場合、コデインの含まれたシロップを飲むくらいしかない。

一部、ステロイド系喘息吸入薬の輸入代行もあるようだ。
 
感染を疑うとき、サウナに行くのが良いように勝手に思っている。

サウナ室内はウイルスの生存条件がないので安全だ。

たぶん室温が60度もあれば死滅するだろうと思う。

また上気道感染でも、サウナで呼吸しているだけで滅菌される可能性もある。

帰宅後は水と葛根湯を飲んで、ひたすら寝ることで免疫力を保全する。
 
毎日、必ず、重曹を溶かした湯にゆっくり入り、免疫力を上げてゆこう。

感染するまでは、毎日、緑地を1時間以上歩こう。

可能ならば標高差100m以上あればよい。

あとは、私のような持病のある人間は、身辺整理くらいしか対策がない。

https://www.mbs.jp/mint/news/2020/03/06/075777.shtml

https://fij.info/coronavirus-feature/overseas



ステロイド系 喘息吸入薬は 恐ろしい。

もう13年以上 になりますか、手前が 死にぞこねたのが これ。

正月に 神社参拝に行き 翌日から 咳が止まらず 眠れなくなった。

かかりつけの 内科町医者・女医 (消化器系 東邦大学卒)が 誤診、

心臓喘息を 気管支喘息と 取り違え ステロイド鎮咳薬を処方。

手前は「ステロイド・アレルギー」で 一気に 症状悪化。

起座呼吸状態になり 肺に水がたまり 眠れない。

女医に 検査可能病院の 紹介状を書かせ 転院。

即、入院、42日間。 もう少し遅れると 危なかった と怒られる。

神社の 手水の手酌から インフルエンザでも もらったのか?

今回のコロナも 肺炎 似たような症状で よくわかります。

苦しみはないが まさに「真綿で首を絞められる」感じ  ですよ。





「認知障害」は末期老人にとってひとつの救いである

「認知症」という気持ちの悪い言葉を作った医者(記事内で認知症の第一人者と書かれている)が自分が認知症になってどう感じたかという記事だが、大半はセンチメンタルな内容で読むだけ無駄である。だが、この部分は実は最近軽い認知症になったと自覚している筒井康隆も同じことを言っている。実際、客観的に考えてもそうだろう。
なお、私が「認知症」という言葉が嫌いなのは、「認知」は「症状」ではないからである。単純に「認知障害」で良かったのである。あるいは「認知不全症候群」でもいい。
なお、「末期老人」という言葉は私が今作ったが、既にある言葉かもしれないし、無いなら作るべきだろう。言葉が無いと論じられないからだ。「終末期老人」でもいい。さすがに「臨死老人」とは言えないが、事実はそうだろう。(私自身それが目前である)

「認知症」は英語では「Dimentia」と言うようだ。日本語に直訳したらどうなるか、後で調べたい。dimensionと関係があるのだろうか。

(以下引用)


認知症とは何か。それは、ひとつの救いだと長谷川さんは言う。

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「余分なものは、はぎとられちゃっているわけだよね、認知症になると。(認知症は)よくできているよ。心配はあるけど、心配する気づきがないからさ。神様が用意してくれたひとつの救いだと。」(長谷川さん)

取材の最後、長谷川さんに尋ねたいことがあった。「認知症になって見える景色はどんな景色か」―。

「変わらない、普通だ。前と同じ景色だよ。夕日が沈んでいくとき、富士山が見えるとき、普通だ。会う人も普通だ。変わらない。」(長谷川さん)













「心」のままに行動してはいけない

「日本書紀」雄略天皇記の一節である。「天皇は心を師とした。(だから)誤って多くの人を殺した」という部分が興味深い。「心を師としてはいけない」というのは中国の古典にあった言葉だと思うが、孔子だったか孟子だったか、誰の言葉かは忘れた。つまり、「心」というのはその時その時の想念であり、(理性より感情に支配されたものであることが多く)理性的判断や道徳に基づいていない危険なものだ、という思想だろう。「師」とは「導き手」である。ちなみに軍隊や群衆をも「師」というが、こちらは「導かれる集団」である。「統帥権」の「帥」は戦や軍隊。
ちなみに孔子が高齢になって「心の命ずるところに従えども矩を超えず」というのは道徳的完成を意味すると同時に、「心の命ずるままに従うと矩を超える」のが普通の人間であり、普通人は「心を師としてはいけない」ということである。
日本人や西洋人は「心」を過大視し、「心のままに」行動することをロマンチックに解釈しすぎるのでこの一文を草した。「心を制御すること」が倫理の基本であり、だから倫理は「自由」を縛る「禁止の体系」に必然的になるのである。


(以下引用)


天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太惡天皇也。」