中村うさぎインタビュー(1)
中村うさぎインタビュー記事の一部である。
非常に深遠な内容で、生きる意味、死ぬ意味、人間における性の意味など、どのような哲学者や高僧や心理学者でも「頭でしか」分かっていない部分を超えていると思える。
長いので、重要と思う部分を二回か三回くらいに分けて載せる。
(以下引用)
─生死に直結するような病気に直面したことで、人生観や書く内容にも大きな変化が生じたかと思います。
中村 私の場合、入院中に心肺停止もしましたしね。そのときは呼吸も心臓も止まったわけで、要するに一瞬は死んだということなんです。そこで確信したのは、「あの世など存在しない」ということでした。
──よく「走馬灯のように記憶が蘇る」とか言いますけどね。
中村 ねぇ? 佐藤優さんみたいなクリスチャンに言わせると、「うさぎさんは覚えていないだけですよ」ってことになるんだけど。たしかにその可能性もあるんですよ。なにせこっちは意識を失っているんだから。天国の門だか地獄の門だかを実際に見ても、この世界に戻ってきたときに覚えていないというのはありえる話でね。
でも、薄ぼんやりとした記憶の中で私が覚えているのは、テレビの電源をプチっと切った感覚。あれに近いんです。ある瞬間を境にして、急に世界が真っ暗になる。そこからは、ただの闇。夢さえ見ない深い眠りの底に沈んでいく感じかも。そして目が覚めたら、もう3日くらい時間が経っていた。
だから結論として、死んだら何もないですよ。ゼロの状態になるだけ。私は無宗教だけど、死んでも何かしらあるのかもしれないとは思っていたんです。よく言うじゃないですか。死んだあとも魂は残っていて、その魂が死んだ自分の肉体を眺めているとか。あるいは臨死体験として、トンネルの向こうに光が見えるとか。でも私の場合、そういうことは一切なかったですから。極めてあっさりしたものでした。
──死は別にスピリチュアルなものではないと。
中村 霊的な体験は一切ありませんでしたね。もともと私は死を怖がる性格でもないんだけど、あの体験をしたことで「死ぬのって楽じゃん」と思うようになりました。だって意識が残るっていうのは、自我があるということ。自我がある限り。生きているのと同じ煩悩が続くわけでしょう? この世に未練や後悔も残るだろうしね。私のことだから、友達の反応とかにいちいちムカついているかもしれない。「勝手なことばかり言いやがって……」とか(笑)。
だけど実際は単に深く眠っているような状態だったわけで、そこには何の責任もなければ、何の感情もない。私にとって死は「一大ラッキーイベント」でした。あのときに死ねなかったのが今でも無念です。
──「何も考えなくていいから楽」というのもわかるのですが、中村さんは常に「私とは何?」と考えながら執筆してきました。
中村 そうですね。だからもう、そういうのから解放されたいの。「私とは何か?」「人間とは何か?」みたいなテーマって、私以外の人だってやってることでしょ。私の代わりの誰かが文章にして、その考えがもっと核心を突いてたり面白いものだったりしたら、世の中にとっても結果的にいいわけですし、私が死んでも誰も困らない。
意識が戻って退院したあと、つくづく「生きるって大変すぎる。死んだほうが絶対に楽」って思い知らされました。なにしろ自分の力で歩けないという状態は、今まで経験したことないわけですよ。乙武(洋匡)さんみたいに生まれつき不自由な状態だったら感じ方も違うんだろうけど、それまで当たり前だったことが当たり前にできなくなる無力感というのは相当に大きくてね。
乙武さんとは何度かごはんを食べたこともあるし、それ以外にも車椅子に乗っている知り合いが私には何人かいるんです。そういう人たちが食事をしたりトイレ行ったりしている様子を見ながら、「やっぱり大変そうだな」なんて他人事みたいに思っていたんですけど。いざ自分が急にそうなってみると、とてつもない無力感に襲われるんです。「私は何もできない人間だ」って……。
だってトイレにすら自分ひとりでは行けないんですから。そもそも普通の家はトイレが車椅子仕様になっていないですしね。それで夫が介護用の支柱をつけてくれたりしたんですけど、それを使ってひとりで用を足せるようになるまでは本当に何ひとつできなくて。夫も介護疲れみたいな感じになったし、こっちとしては申し訳ないという気持ちでいっぱいになりますよ。
──やはり介護疲れみたいなことも起こりましたか。
中村 たとえば疲れ果てた夫がソファで大爆睡しているとするじゃないですか。だけど、そんなときに限って私は猛烈にトイレに行きたくなるんですよね(笑)。それがウンコだったらオムツの中にすればいいんだけど、おしっこだとそうもいかない。というのも成人用に作られたオムツとはいえ、我慢に我慢を重ねた状態で出すとオムツの脇から漏れてしまうんです。そうすると車椅子の座布団が濡れたりして、いよいよ後始末が大変なことになる。
──自尊心が傷つけられるということは?
中村 まぁ単純に落ち込みますよね。もちろん老いると人間は誰でも少しずつ弱っていくものだと思うんです。葉っぱが1枚ずつ落ちていくように、身体のいろんな機能が低下していって……。「歯が悪い」とか「腰が痛い」とかね。入院した時点で私は50代の後半。それがいきなりおばあちゃんになった気分でした。たしかに昔から私は生き急ぐタイプではあったけど、老化まで急ぐことはないだろうって(笑)。
非常に深遠な内容で、生きる意味、死ぬ意味、人間における性の意味など、どのような哲学者や高僧や心理学者でも「頭でしか」分かっていない部分を超えていると思える。
長いので、重要と思う部分を二回か三回くらいに分けて載せる。
(以下引用)
─生死に直結するような病気に直面したことで、人生観や書く内容にも大きな変化が生じたかと思います。
中村 私の場合、入院中に心肺停止もしましたしね。そのときは呼吸も心臓も止まったわけで、要するに一瞬は死んだということなんです。そこで確信したのは、「あの世など存在しない」ということでした。
──よく「走馬灯のように記憶が蘇る」とか言いますけどね。
中村 ねぇ? 佐藤優さんみたいなクリスチャンに言わせると、「うさぎさんは覚えていないだけですよ」ってことになるんだけど。たしかにその可能性もあるんですよ。なにせこっちは意識を失っているんだから。天国の門だか地獄の門だかを実際に見ても、この世界に戻ってきたときに覚えていないというのはありえる話でね。
でも、薄ぼんやりとした記憶の中で私が覚えているのは、テレビの電源をプチっと切った感覚。あれに近いんです。ある瞬間を境にして、急に世界が真っ暗になる。そこからは、ただの闇。夢さえ見ない深い眠りの底に沈んでいく感じかも。そして目が覚めたら、もう3日くらい時間が経っていた。
だから結論として、死んだら何もないですよ。ゼロの状態になるだけ。私は無宗教だけど、死んでも何かしらあるのかもしれないとは思っていたんです。よく言うじゃないですか。死んだあとも魂は残っていて、その魂が死んだ自分の肉体を眺めているとか。あるいは臨死体験として、トンネルの向こうに光が見えるとか。でも私の場合、そういうことは一切なかったですから。極めてあっさりしたものでした。
──死は別にスピリチュアルなものではないと。
中村 霊的な体験は一切ありませんでしたね。もともと私は死を怖がる性格でもないんだけど、あの体験をしたことで「死ぬのって楽じゃん」と思うようになりました。だって意識が残るっていうのは、自我があるということ。自我がある限り。生きているのと同じ煩悩が続くわけでしょう? この世に未練や後悔も残るだろうしね。私のことだから、友達の反応とかにいちいちムカついているかもしれない。「勝手なことばかり言いやがって……」とか(笑)。
だけど実際は単に深く眠っているような状態だったわけで、そこには何の責任もなければ、何の感情もない。私にとって死は「一大ラッキーイベント」でした。あのときに死ねなかったのが今でも無念です。
──「何も考えなくていいから楽」というのもわかるのですが、中村さんは常に「私とは何?」と考えながら執筆してきました。
中村 そうですね。だからもう、そういうのから解放されたいの。「私とは何か?」「人間とは何か?」みたいなテーマって、私以外の人だってやってることでしょ。私の代わりの誰かが文章にして、その考えがもっと核心を突いてたり面白いものだったりしたら、世の中にとっても結果的にいいわけですし、私が死んでも誰も困らない。
意識が戻って退院したあと、つくづく「生きるって大変すぎる。死んだほうが絶対に楽」って思い知らされました。なにしろ自分の力で歩けないという状態は、今まで経験したことないわけですよ。乙武(洋匡)さんみたいに生まれつき不自由な状態だったら感じ方も違うんだろうけど、それまで当たり前だったことが当たり前にできなくなる無力感というのは相当に大きくてね。
乙武さんとは何度かごはんを食べたこともあるし、それ以外にも車椅子に乗っている知り合いが私には何人かいるんです。そういう人たちが食事をしたりトイレ行ったりしている様子を見ながら、「やっぱり大変そうだな」なんて他人事みたいに思っていたんですけど。いざ自分が急にそうなってみると、とてつもない無力感に襲われるんです。「私は何もできない人間だ」って……。
だってトイレにすら自分ひとりでは行けないんですから。そもそも普通の家はトイレが車椅子仕様になっていないですしね。それで夫が介護用の支柱をつけてくれたりしたんですけど、それを使ってひとりで用を足せるようになるまでは本当に何ひとつできなくて。夫も介護疲れみたいな感じになったし、こっちとしては申し訳ないという気持ちでいっぱいになりますよ。
──やはり介護疲れみたいなことも起こりましたか。
中村 たとえば疲れ果てた夫がソファで大爆睡しているとするじゃないですか。だけど、そんなときに限って私は猛烈にトイレに行きたくなるんですよね(笑)。それがウンコだったらオムツの中にすればいいんだけど、おしっこだとそうもいかない。というのも成人用に作られたオムツとはいえ、我慢に我慢を重ねた状態で出すとオムツの脇から漏れてしまうんです。そうすると車椅子の座布団が濡れたりして、いよいよ後始末が大変なことになる。
──自尊心が傷つけられるということは?
中村 まぁ単純に落ち込みますよね。もちろん老いると人間は誰でも少しずつ弱っていくものだと思うんです。葉っぱが1枚ずつ落ちていくように、身体のいろんな機能が低下していって……。「歯が悪い」とか「腰が痛い」とかね。入院した時点で私は50代の後半。それがいきなりおばあちゃんになった気分でした。たしかに昔から私は生き急ぐタイプではあったけど、老化まで急ぐことはないだろうって(笑)。
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