忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

生存者バイアス

「いつか電池が切れるまで」から記事の一部を転載。
心理学的に興味深い内容である。

(以下引用)


 金持ちが貧乏人に厳しい言葉を吐いて叩かれている、のかと思いきや、実際にネットで批判されているのは、「自分だって若い頃に貧しくてつらかったけれど、こんなにがんばって今は成功した。だからお前にだってできるはず。努力が足りないだけだ」という感じの「生存者バイアス的な発言」をする「つらい目にあってきた人」が多いのです。


fujipon.hatenadiary.com


この本のもとになったNHKの番組のなかで、「健康格差」についての討論が行われたそうなのですが、そのなかで、俳優の風間トオルさんがこんな発言をされています。風間さんは5歳のときに両親が離婚し、その後、父親も失踪してしまい、祖父母のもとで育てられたそうです。

 (風間トオルさんの)著書『ビンボー魂』(中央公論新社)には、小学校時代「学校が休みになる=学校給食にありつけない」や「中でも空腹との長く厳しい闘いが強いられる夏休みをどうやって凌ぐかが大問題」と書かれている。そんな時、風間さんは家の前の公園に生えている、草やタンポポアサガオを食べたりして飢えをしのいだ壮絶な体験をされている。


「国の力を借りるのは最後の最後じゃないでしょうか。国が一律で何かすることでもないですし、個人が自分で努力して解決することじゃないでしょうか。僕なんかも子どもの時、貧困というか、お金がなくて、公園の草とか食べて飢えを凌いでいました。草の匂いをかいだり、口に入れながら、『これはいける』『これはいけない』って判断していました。そうやって努力して空腹を満腹にしてきた。だから、高齢になって動けなくなった時に初めて、国の力を借りることが許されるのかなって思いますけどね……」


 ギリギリのところ、厳しい状況から自分が努力して抜け出した人ほど、社会保障を受ける他者に対して厳しい態度をみせる、というのは、けっこうありがちです。
 自分は頑張って克服したのだから、みんなできるはずだ。
 あるいは、自分だけが苦労したのでは、割に合わない、って。

PR

超正統派ユダヤ人www

他の宗教だと「イスラム教原理主義」とか「キリスト教原理主義」と言うのに、なぜ「超正統派ユダヤ人」という、記事筆者以外には使わないような妙な言い方をするのだろうか。しかも「ユダヤ教徒」という言葉を避け、「ユダヤ人」と言うのも妙だ。「超正統派日本人」とか「超正統派アメリカ人」とか「超正統派中国人」という言葉がおかしいことは自明だろう。
だが、記事内容そのものは、彼らがイスラエル社会の中の「困り者」であることもきちんと書いていて、我々に縁遠いイスラエル社会の内情が伝わるメリットはある。
(擁護するとしたら、「ユダヤ人とはユダヤ教を信じる者のことである」という、あの奇妙な定義に従えば、確かに下の記事の対象となっている人々は「超正統派ユダヤ人」である、と言える。しかし、そんな定義が人種や民族の定義になり得るはずがないのも自明だろう。)

(以下引用)


宮田律
著者のコラム一覧
宮田律現代イスラム研究センター理事長

1955年、山梨県甲府市生まれ。83年、慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修了。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程修了。専門は現代イスラム政治、イラン政治史。「イラン~世界の火薬庫」(光文社新書)、「物語 イランの歴史」(中公新書)、「イラン革命防衛隊」(武田ランダムハウスジャパン)などの著書がある。近著に「黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル: 「反イラン枢軸」の暗部」(平凡社新書)。

全土封鎖のイスラエル エルサレムで7割感染の超正統派とは

公開日: 更新日:

 イスラエルでは、超正統派ユダヤ人を中心に新型コロナウイルスの感染拡大が深刻になり、9日現在でイスラエル保健省によれば、感染者は9755人、死者は79人となっている。イスラエルの安全保障上の最も重大な「敵」はイランや、レバノンのヒズボラではなく、新型コロナウイルスという声もイスラエルでは聞かれるようになった。

 超正統派は、ラビ(ユダヤ教の宗教指導者で、学者)やトーラー(ユダヤ教の聖書「タナハ」における最初の「モーセ五書」、あるいはユダヤ教の教え全体を指す)を究極の理想として行動し、宗教を最優先させて生活するような人々だ。



 宗教都市エルサレムでは、感染者の7割以上が超正統派の人々で、またイスラエルの商都テルアビブに近いブネイ・ブラク地区は、超正統派の生活の中心で、人口20万人のこの地区では住民の40%が感染していると見られるほど感染が深刻になっている。超正統派の人口はイスラエル全体の10%ぐらいだが、新型コロナウイルスの感染者数では半数を超える。

 超正統派ユダヤ人のイデオローグであるアブラハム・イェシャヤフ(イザヤ)・カレリッツ(1878~1953年)は、1933年にイギリス委任統治領のパレスチナに、現在のベラルーシから移住してきた。移住の背景には、彼の学才にパレスチナ在住のラビが注目したことがあったことや、また1933年はドイツでナチス政権が成立するなど、反ユダヤ的潮流がヨーロッパ全体に広く見られていたことなどがある。

 彼が活動の拠点にしたのが、現在コロナの感染が拡がるブネイ・ブラク地区で、タルムード(ヘブライ語で「研究」の意味で、モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群)の研究に没頭していった。そのユダヤの律法やユダヤ人の生活的規範に関する問題についての権威となり、イスラエル初代首相のデヴィッド・ベングリオンから女性に対する徴兵制についても見解を求められたことがある。カレリッツは、ブネイ・ブラク地区で延べにして数千人の学生たちに超正統派のユダヤ神学を教えた。

■スマホやネットに触れず最新情報を遮断

 超正統派は、テレビやラジオも使用せず、スマホやインターネットにも触れることがない。コミュニティーでの指示はラビなどが口頭で、またポスターを介して行われる。現在進行しつつある情報から遮断されていることも、コロナウイルスの感染拡大につながった。ユダヤ人たちは金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日には礼拝のために集い、神の栄光と人々の慰安を祈るが、超正統派は、人々の密集を避けるように政府が呼びかけたにもかかわらず、集団礼拝を行い続けた。

 超正統派は、ユダヤ教にしか関心がないために、多くが労働もせずに兵役や納税の義務から免れ、政府からの生活補助によって生活するため、他のイスラエル人からは、「寄生虫」とも見なされている。超正統派は避妊が禁じられているために、他のイスラエル社会よりも出生率が高く、イスラエル社会を逼迫させているとも見られている。

 イスラエルの言語は、19世紀から20世紀にかけて古代ヘブライ語から復元された現代ヘブライ語だが、超正統派はこの現代ヘブライ語を習得することがなく、知らない。彼らの使用言語は東欧系のユダヤ人が話していたイディッシュ語である。イスラエルの医師たちとも直接コミュニケーションをもつことができず、病状を医師に伝えることもできず、医師の診たところ任せになる。

 イスラエルの政党「UTJ(ユダヤ・トーラー連合)」や「シャス(トーラーを遵奉するスファラディー同盟)」は超正統派を支持基盤とするが、UTJの党首であるヤーコフ・リッツマン保健相は、超正統派に配慮して、その宗教活動に制限を加えることがなかった。彼自身も超正統派の人物だが、ユダヤ教の宗教行事「過越(すぎこし)」の前にメシアが到来して、イスラエルを新型コロナウイルスの脅威から救うと述べていた。「過越」はエジプトで奴隷であったイスラエルの民がモーセの指導でパレスチナに脱出できたことを記念する行事だ。

■メシア到来を確信しながら自ら感染した保健相

 リッツマン保健相にはメシアが到来するという宗教的確信があったにもかかわらず、彼自身もコロナウイルスに感染している。彼の甘い見通しや、コロナウイルスに関する正確な情報をラビたちに与えなかったことも超正統派の間の感染拡大を招くことになった。リッツマン保健相は現在隔離されていて、超正統派とは無縁なインターネットを使って職務に臨んでいる。

 イスラエル政府は感染拡大に対して、一部の超正統派のコミュニティーの閉鎖を考えたが、超正統派の政党などの反対があったために、その代わりとして7日、全土の封鎖を行った。これによって、イスラエルでは都市間の、あるいはコミュニティー同士の往来ができなくなった。また、8日から16日に予定されていた「過越」の祭りも同居の家族のみで祝うようにと訴えた。「過越」は親族らが各地から集まって祝うことが慣例だが、イスラエル政府は全土封鎖によって、宗教行事に伴う感染拡大を防ごうとした。

 イスラエルに限らず超正統派ユダヤ人の間では、ロンドン、ニューヨーク、ベルギー・アントワープなどで感染率が高くなっている。その背景には、イスラエルとまったく同様に政府の指示や要請よりも宗教行為を優先させるということがある。ニューヨークではクオモ知事が礼拝やラビの葬儀に超正統派の人々が集まらないように呼びかけ、またアントワープの超正統派コミュニティーでは85%が罹患するとも見られている。

 ハイテク産業が発展したイスラエルでは、感染者が過去に接触した場所や位置を知らせるアプリが開発され、また利用者の声の調子で感染を判断するアプリも研究されている。しかし、ハイテクをもってしてもウイルスの感染拡大を防げない超正統派の宗教的伝統や慣習がイスラエルの安全保障を危うく、脆いものにしている。

新型コロナ快癒者が再発症する理由

事実なら重大な情報だが、拡散するには危険な情報でもあるので、読む人が少ないこのブログにメモとして保管しておく。


(以下引用)


新型コロナウイルス感染症から回復した人のうち3分の1で抗体レベルが低いという報告
1: 2020/04/09(木) 17:23:38.20 ID:uyy3wQPM9
中国・復旦大学の研究チームにより、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)から回復した人の中に、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)抗体レベルが低い人が少なからず含まれたことが報告されています。論文は査読を経たものではなく「臨床の指針とすべきではない」とのことですが、内容は今後のワクチン開発などに影響を及ぼす可能性があります。

Neutralizing antibody responses to SARS-CoV-2 in a COVID-19 recovered patient cohort and their implications
https://doi.org/10.1101/2020.03.30.20047365

no title



Coronavirus: low antibody levels raise questions about reinfection risk | South China Morning Post
https://www.scmp.com/news/china/science/article/3078840/coronavirus-low-antibody-levels-raise-questions-about

病気から回復した人の血漿にはウイルスに対する抗体が含まれていて、「スペイン風邪」こと1918年のインフルエンザやエボラ出血熱の際に治療に使用されたことがあります。

これと同じように、新型コロナウイルス感染症から回復した人の血漿には新型コロナウイルスへの抗体が含まれていると考えられ、実際に臨床試験への取り組みが進められています。

しかし、復旦大学の研究チームによると、上海公衆衛生臨床センターから退院した175人の患者の血液サンプルを分析した結果、ほぼ3分の1にあたる患者のサンプルで、抗体のレベルが予想以上に低かったことがわかったとのこと。そのうち10人は、ラボで検出できないほど抗体レベルが低かったそうです。

調査の対象となったのは、すべてが軽度の症状から回復したばかりという人。これは、集中治療室に入っていた患者の多くはすでに抗体が確認されていたためです。調査の結果、抗体レベルは年齢が高いほど上昇し、60歳~85歳の患者は、15歳~39歳の患者と比べて抗体量が3倍以上でした。

研究チームは「これらの患者の再感染リスクが高いかどうかは、さらなる研究で調べる必要がある」と述べています。

今回の新型コロナウイルスでは、一度感染症から回復した人が再感染したという報告が出ており、長期にわたって向き合っていくことになるという覚悟が求められそうです。

2020年04月09日 17時00分
https://gigazine.net/news/20200409-coronavirus-low-antibody-level/

世界大不況への備えが必要か

ここにはあまり書かない経済的な話だが、「ネットゲリラ」常連のtanuki氏の言葉は、今の状況への「生活の知恵」とも読めるので転載する。
まあ、経済危機に際しては「カネより物」というのは常識で、カネがさほど無い人でも、カネを銀行に預けておくよりは食料備蓄に励んでおいたほうがいいかと思う。備蓄に向いているのはパスタ類や乾麺、粉類だろうか。後はもちろん缶詰類。場合によっては水道ガス電気のストップとまではいかなくても料金高騰の可能性もあるかもしれないので、その対策も必要か。まあ、不況が長期化したら真冬でも風呂にも入れない、くらいは覚悟しておいたほうがいいかもしれない。コロナでさっさと死んだほうが幸福かもしれないがwww

(以下引用)

コロナより経済が―とかいうやつは大体素性がわかりますなあ。

まだ国内でコロナ禍理由の経済問題で自殺した人はニュースになってないですな。一方自民党売国政権による経済破壊で自殺した人は数万人に及ぶ。報道されてないだけですな。
いまさら経済凍結しても何も起こらない。
といいたいところだが。

実は金貸しとユダ菌が困るんですなあ。
というのは、経済凍結すると皆貯蓄を取り崩して生活費に充てる。これは、実は取り付け騒ぎと同じ効果があって、「信用創造」というインチキで預金額より貸付増やして手元流動性のない金融機関は即座に破産するんですな。

これはほぼ全金融セクターに効いてくる。
だから資本主義諸国はあわてて財政出動しているわけだがこれは民を救うためではなく、ユダ菌を救うためです。

なに経済凍結しなくても預金額は今後どんどん減っていく。
恐らく数か月で金貸しは払い戻しに応じられなくなる。
すなわち金融機関の破たんが今後半年後くらいからラッシュになる。

そのことが分かってていま富裕層は何に金使うかで右往左往してますな。
ちなみにロシアでは中古車バカ売れだそうです。
経済危機には金をモノに変えるということらしく。
借金じゃなく預金の沢山ある人は一応そのこと理解しておいたほうがいいですな。(借金は踏み倒すまたとないチャンスがやってきます)

健康ファシズム

「シロクマのブログ」から転載。筆者は精神科の医者だと思う。
つまり、医療者の側の人間だからマスク着用に否定的な発言は不可能なわけで、下の文章は「行間を読む」必要がある。
私が読み取ったところでは、この「マスクファシズム」「健康ファシズム」に筆者は懸念を抱いており、それは冷静な批判精神を持つ人間なら当然だと私は思う。もちろん、そういうファシズムなら結構どころか絶対に必要だ、という意見の人は多いだろうが、筆者や私が懸念するのは、ファシズムは「程よい」ところでは治まらないのであり、それこそがファシズムの特徴なのである。つまり、「一歩を譲ったら、どこまでもテリトリーを拡大していく」わけだ。

(以下引用)記事の前半部がコピーできなかった。


マスクをつけることが感染予防に貢献する仕草とみなされ、マスクをつけていないことが周囲への感染に無頓着な仕草とみなされれば、マスクをつけていない人に対する世間の目線、人々の心証は変わる。ひいては「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いも変わる。
 
たとえばヨーロッパでは、長らく、マスクをつけることは社会的に許容されない仕草だった。日本では、インフルエンザや花粉症の季節を迎えるたびにたくさんの人がマスクをつけるし、郊外汚染の激しい途上国でもマスクをつけて出歩く人は多い。しかしヨーロッパでマスクをつけて出歩くのは社会的に許容されない仕草だった。ところが今回の感染騒動をとおして、「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いが激変した。おそらくこの騒動が終わった後も、そうした社会的な位置づけや意味合いの変化は尾を引くことだろう。
 
そして日本では、冒頭で引用したツイートの方が察しておられるように、「マスクをつけるという仕草」は他人や世間への配慮、パンデミックな状況下において功利主義に適い、危害原理にも抵触しない、市民にとって望ましいものに変わりつつある。マスクをしていない人の咳き込み、マスクをしていない人のくしゃみに対する周囲の目線は、2か月前より厳しくなっている。公共交通機関において、マスク無しでくしゃみをした人に対する周囲のぎょっとした目線に驚いてしまうこともあった。
 
みんながますますマスクをつけるようになった結果として、2020年4月現在、「マスクをつけるという仕草」は感染予防に貢献するだけでなく、自分が世間に配慮している人間であること・他人に感染させるリスクを慮った道徳的人間であることをディスプレイする手段としても役立つようになっているのではないだろうか。
 
私たちは、ウイルスに狙われる自然科学的で生物学的な存在であると同時に、世間に生き、周囲からの評価や評判を意識せざるを得ない社会的な存在でもある。社会や世間に適応する個人にとって、マスクをつけて感染症対策をするということも重要だが、マスクをつけて世間体を守るディスプレイをすることも、それなりに重要なものだ。
 
そのうえ、幸か不幸か、マスクは顔につける品である。
顔は、他人の視線が集中する場所であると同時に、他人に対してメッセージを発し続ける場所でもあるから、顔の目立つ場所に装着するマスクはディスプレイの効果がとても大きい。であれば、医療関係者や為政者の意図していなくとも、マスクが他者配慮や道徳性のシンボルとしての意味合いを(勝手に)帯びることに不思議はない。
 
 

ラジオ体操にみる「健康でなければならない世の中」

 
社会や世間から「かくあるべし」という圧力がかかっている状況下では、自然科学的な目的は社会科学的な目的としばしば結託する。
 
一例として、戦前の日本で励行されていたラジオ体操を挙げてみる。
 
 

「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

  • 作者:北沢 一利
  • 発売日: 2000/12/01
  • メディア: 新書
 
 

 ラジオ体操は、家族や職場に集う人々が全国一斉に、「同じ時間」「同じリズム」「同じ動き」で行う体操であったため、人々に連帯感を感じさせるにはたいへんよくできたものでした。簡易保険局はラジオ体操を考案する際に、「民族意識」を高める目的で行われる、チェコスロバキアの「ソコル」を手本にしたといいます。
(中略)
 ラジオ体操の広がりによって、人々の考える「健康」に一つの変化が生じました。体操や運動が「連帯感」などの精神的側面の向上も重視するようになったため、「健康」が身体に生理的な異常を持たないという意味に加えて、国民としての道徳的貢献としても要求されるようになるのです。
 簡易保険局に寄せられた感想文の中で、当時の山梨県知事鈴木信太郎は「不健康は不道徳」というタイトルの文章を寄稿します。その中で鈴木は「私の考えでは、不健康は自分一人の不幸であるばかりでなく、社会的にも不道徳であると思う」といいます。
(中略)
 さらに、「不健康は国に対してもすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自身の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」と述べています。
 鈴木の感想は、たんに彼一人の個人的見解であったわけではなく、この時代の雰囲気を反映したものでした。鈴木は健康になることが、国家社会に対する「義務である」といっています。つまり、この時点で私たちは、「健康になるかどうか」を自分で決定することができなくなったのです。
 たとえば、あなたが怠惰な生活を送ったり、やけっぱちや自暴自棄で不健康になることは「不道徳」として禁じられます。しかもその理由は、あなた自身を不幸から守るというよりも、国家社会に与える不利益を未然に防ぐためです。この時代の「健康」とは、いいかえれば国家に利益をもたらす献身的な行為を意味するようになったのです。
『「健康」の日本史』より

 
ラジオ体操が浸透していった頃と現在では国家の体制が違っているし、ラジオ体操による健康増進とマスクによる感染予防では目的も違っている。しかし、健康を守るべきか否かが個人の問題から社会の問題へとシフトしている点や、健康の名のもとに皆が同じ方向を向き、ある種の連帯感、いや、空気が生まれている点は共通している。
 
医療者が世間や道徳を意識しているか否かにかかわらず、こぞってマスクを着用する人々はそれらを世間の慣習と結び付け、道徳とも結びつける ── これに類することは戦前にもあったし、公衆衛生の黎明期にもあったことだから、起こる可能性の高いこと、いや、起こっている可能性の高いことだと私は踏んでいる。
 
現在の日本では、"自粛"や"要請"や"推奨"といった言葉がメディア上を駆け巡っている。表向き、どれもソフトな言葉だが、それが空気と結合する社会では個人に強い圧力を与え、私たちの慣習や感性にも大きな影響を与えずにいられない。そういう状況のなかで私たちはマスクを争うように買い求め、できるだけ着用しようと心がけている。
 
こうした状況の延長線上として、今まで以上に健康と道徳が結びついた社会、衛生と道徳が結びついた社会を連想するのはたやすい。伊藤計劃の『ハーモニー』は、そうした健康ディストピア社会を舞台とした作品だったが、今まで遠いSF世界だった『ハーモニー』が、最近はすっかり間近に感じられるようになってしまった。医療と福祉に関心と影響力とリソースが集中する状況が長く続き、そこに道徳や功利主義や危害原理が結びついたままの状況も長く続いたとき、どういう社会の地平が待っているのか。考えると怖くなる。もう、SFの気分でそういうことを考えられない。