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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

我が両親の「伝説」

私の兄のブログの一部だが、私自身は両親から過去の話を聞いたことが無いし、両親の生活ぶりを理解できる年齢になる前にふたりとも死んだので、こうした「家族の証言」は私にはメモして保存しておく価値がある。下の記事にも思想的に首をひねる部分はあるが、まあそれは私自身の個人的問題だ。簡単に言えば、革新思想というのは「乗せられ騙される」のは一部の人間であり、だいたいは真面目で理想主義的だから現在の悪を改善したいと思うわけである。兄は「自分は卑怯なことが嫌いだ」、と言いながら、保守派を支持するのは「儲かる方に付く」わけである。つまり、現状の悪に妥協するわけで、それを卑怯と言わないか? 

(以下引用)

大体いい奴は革新的だ。

つまり、すぐ乗せられ騙されてしまうのだ。

もっとも保守は大体儲かる方に付くし、騙す方が多いぐらいが現実的で、その現実を守るわけだ。



おかげで僕は単なる傍観者で是々非々だけなもんで、逆に右翼と言われたもんだ。

まるで右翼じゃないが、父が元軍人だったせいかも知れないな。

中学生になる頃には傷痍軍人会会長だったし、人から見れば右翼なんだろうな。

日本傷痍軍人会会長で、船舶振興会会長の笹川良一とは無二の親友で、毎年予算と言うか個人的資産を何千万円かもらっていたしな。

言っておくが父はその金は一円もポケットマネーにはしないで、戦後の3000人余りの仲間たちの為に使ったからな。

父は年中、個人的には一切金を使わなかったのは僕はよく知っている。

家族の金は母が全部作った。

それだけ母は金儲けの天才だったのだ。



尋常中学校で4年間唯一の特待生として有名だった父を、会った事もなく顔も知らないのに、周囲の人々に、”勇吉は私の夫になる人だ”、と常に公言していて、それを聞いて父は隠れて見に行ったら光子のそのあまりの美しさに度肝を抜かれ、途端に恋に落ち、卒業して会いに行くと、光子に、”私を食べさせられるようになったら迎えに来て”、と言われ、それから宮古警察署の巡査になり、史上最も若い警部になったが、その時の警察署長が具志堅そうせいで、後に60歳の定年後にオリオンビールを作った人で、父は終生仲が良かったものだ。

父はその後、軍隊で沖縄人では数少ない、まして宮古島では唯一の陸軍少佐にまで上り詰めたが、敗戦で全てを失い宮古島に帰ってきたのだ。

だが父も母も自分たちの事は一切子供たちに話した事は無い。

これらの話はハツおばさんや、父や母の友人たちに聞いた話だ。

宮古島一の美女と宮古一優秀な男の恋物語は有名だったようだ。
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