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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

専門家は現実を知らない

「東海アマ」ブログ記事の一部だが、「専門家(机上の空論)」と「現場仕事(現実)」の乖離についての面白い指摘になっている。

(以下引用)



 だいたい、「専門家」と自称したがるのは、「全体像を軽視している」と自白しているようなものだ。私には「哲学」がありませんと言っているようなものだ。
 私は、「非の打ち所のない素晴らしい設計」というプラントを知っているが、残念なことに、設計がどんなに素晴らしくとも、施工が同じように完璧に行われるかといえば、絶対にそうではない。

 施工では、あらゆるミスが繰り返される。私は、検査員として多くのミス・欠陥に遭遇している。逆に、施工はミスのカタマリであり、完全なる施工など幻想以外に存在しないことを思い知らされている。
 それは、プラントばかりか、宮大工の造営でも起きる。完全無比の建築造営など存在しない。頭領は、一つの現場で、いくつのミスが出るが、最初から予想して、その後始末を考えながら仕事をしている。

 超高級な檜の柱に、他の職人が傷をつける。これは、そういうものなので、傷が出やすい場所に予防手当をするのだが、それでも傷がつくし、サイズが合わないこともある。
 こんなとき、どうやってごまかすかが棟梁の真の技術なのだ。
 プラントでも同じで、サイズ違いのフランジをどうやって接合するかが監督の技量ということになる。それが「人間の仕事」なのだ。

 こういうのを「ゴマカシ施工」というのだが、これが皆無のプラントは皆無である。
 そして、それが大事故の発端となる。
 フクイチでメルトダウンを起こした原子炉の一つに「ジェット計測配管」の切断があって、ここから80気圧で冷却水が噴出してメルトダウンをもたらした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-841.html?all

 この報告では、何号機でそれが起きたのか書かれていないのが残念だが、設計ミスなら複数の原子炉で同じ現象が起きていた可能性がある。
 一カ所だけなら、おそらく溶接欠陥だろう。ステンレス小径配管の溶接は最高度の困難な技術を必要とするが、フクイチの建設時に溶接業者のレベルが低かったとの報告がある。

 たぶん、フクイチの設計は素晴らしく高度なものだっただろうが、施工がついてゆかないことが容易に分かる。
 「木を見て森を見ず」という言葉があるが、たった一本の木に問題が起きても、森全部が破壊されるような現象について、「専門家」は無力だ。
 自分の専門分野しか理解ができない。専門家と言った瞬間、専門外について無知であることを告白したに等しいのだ。







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気圧配置の原理

天気情報では説明無しに使われている「冬型の気圧配置」だが、どういう意味か調べると、「西高東低」の気圧配置のことのようだ。冬が極まって大陸側が十分に冷え込み、相対的に海洋側、つまり日本側が低気圧になるということだろう。
気圧は、「水は土よりも熱しにくく冷めにくい」という原則で考えるといい。だから、気温で言えば、海に囲まれた土地は気温変化が小さくなる。大陸の奥地(内部)や盆地は気温変化が激しい。
気温の差が気圧差になる(温かい場所の空気は上昇して元の空間は低気圧となり、外から空気が流れ込む。)から、昼と夜の風向きの違いや夏と冬の気圧の型の違いも海と陸地の気温差から生まれる。
昨日までは日本近辺が大陸に対して相対的な高気温だったために低気圧となり、大陸側が高気圧となって大陸側の寒気が日本側に流れ込んだわけである。


冬型の気圧配置とは?強い冬型とは?

冬型の気圧配置とは、天気図で西に勢力の強い高気圧、東に発達した低気圧がある西高東低の気圧配置です。冬に現れやすい気圧配置で単に冬型とも言われます。日本付近で南北に延びる等圧線が何本も描かれ、縦縞になります。日本海にはすじ状の雲が見られ日本海側の地域に雪や雨を降らせます。

等圧線は地図の等高線に似ていて、縦縞はそこが気圧の斜面になっていることを示し、風は気圧の高い方を左にして北からの強い季節風となります。等圧線の間隔が狭いほど風が強なります。

また、強い冬型の気圧配置と言われる事がありますが、明確な基準があるわけではなく、地上天気図では等圧線が南北に走って間隔が混んでおり、上空5000m付近の気温がマイナス36度以下になっていることなどが目安としてあります。

西高東低の冬型の気圧配置では、山雪型と里雪型があります。

西高東低冬型の気圧配置

山雪型の西高東低の冬型の気圧配置




「独楽」の本質

記事の一部だが、老年の「美学」を「孤独に耐えること」としているのが面白い。つまり、我田引水すれば「独楽」である。
独楽の本質は「自分自身(の頭脳)を相手に楽しむこと」である。周りにどれほど素晴らしい存在があっても、その素晴らしさを感じ取れる感受性や知識があっての話だ。つまり、味覚障害者に最高の料理や最高の酒を与えても無意味である。逆に、一粒の露の中に最高の宝石の輝きを見出せるなら、その人には最高の宝石と一粒の露は等価である。

(以下引用)


筒井康隆氏「若くもないのに若さを誇示してもはじまらない」

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コメント

 欲望が失われてしまっていたら悪事を企む気も失せてしまうから、ちょい悪老人を志すのは無理だろう。だからと言って品行方正な老人になっては、実はちょい悪老人以上に煙たがられる可能性がある。

 実はここからが老人の美学が発揮されるべきなのだ。以前にも書いたが老人の美学とは実は孤独に耐えることなのである。若い連中に張りあおうとすればどうしても他者の中へ行かねばならない。

 出て行くと余計なことを言いたくなる。誰かの言うことすることについていやそれは違うと自分の意見を主張したくなる。ここから老害というものが始まるのである。しゃしゃり出たくなる欲望を抑え、用もないのにうろちょろせず、じっと我慢して孤独に耐えるのが老人の美学なのだ。

 老人同士の集まりというものがある。しかしあれに加わるのも考えものだ。自我の強い老人が必ずいて、ひどい目に遭う。女性同士は仲良くやっているように見えるが、あれはあれで何やかやと陰湿な反目があるのではないか。やはり単独で孤高の道を選び、と言ってもそんな生き方を威張るのではなく、なんとなく存在しているのが一番だと思う。

 そこから先のことになると、自分が体験していない世界に入っていくことになり、ここで論じることはできない。



便秘解消のレシピ

ここに書くのは、あるいはこれまで書いたすべての記事の中で、多くの人をその「人知れぬ悩み」から救うもっとも貴重な内容かもしれない。
それは、「便秘解消のレシピ」であるwww
この「レシピ」は比喩ではなく、まさに「料理法」であり、この料理によって多くの人(特に女性に多いようだが)がその恒常的な「生きる悩み」から救われるだろう。
しかも、その素材は通常捨てられることが多く、その調理法は簡単そのもので、しかもその料理はかなり美味なのである。

材料は、セロリの葉である。要するに「セロリの葉のスープ」がその便秘解消の秘鑰であり秘薬だ。
調味料は塩コショウ程度で、お好みで化学調味料でも何でも使えばいい。(私は化学調味料有害論を信じていないが、まあ、そこは人それぞれだ。)

料理法は単純そのものである。
セロリの葉を洗って、スープ鍋に水を入れ、洗ったセロリの葉をぶちこんで煮る。
それだけだ。後は、塩コショウと味の素か何かで味をつければいい。煮るのは沸騰するまででも沸騰する直前まででもいい。私は、煮た後少し時間が経ったくらい、つまりセロリの葉がかなりクタクタになったくらいが美味いと思う。お好みで肉類やクルトンの類を入れてもいい。私はソーセージのぶつ切りを入れることが多いが、ベーコンなども良さそうだ。まあ、これも好き好きだ。

で、おそらく、そのセロリスープを飲んで、というよりセロリの葉を食して1時間後くらいに便意を感じるだろう。なぜかセロリの葉にはそういう効能があるらしいのである。
まあ、1時間後か2時間後か、あるいは翌日になるかどうかは個人差があると思うので、何回かこのセロリの葉のスープを試してみるといい。セロリの茎はもちろんサラダに使えばいい。茎もスープに入れてもいいが、葉ほどの「効能」は無いようだし、サラダにしたほうが美味い。

なお、簡単に「便意」と書いたが、多くの便秘症の人は「便意はいつも感じるが、『出ない』から困っているのだ」と憤然として反発するかもしれない。これは「便意」という言葉を細分化して考えるべきだと思う。つまり、「排便意欲だけの便意」と「実際に排便行為に結びつく便意」であり、ここに書いた「セロリの葉のスープ」は後者であると私は信じている。前者が、いわゆる「便秘地獄」における便意である。

幼い子供への対応の注意

これは、幼児でも、「人に笑われること」が恥であることがかなり低年齢から分かっている、ということである。また、「人を笑わす」ことと「人に笑われる」ことの違いもかなり幼いころから分かると思う。「人に笑われること」は「自分の価値の低下」だという意識である。
別のどこかで読んだことだが、「子供に冗談を言ってはいけない」という教えもある。子供は冗談と嘘の区別がつかず、「冗談を言ってもいい」とは「嘘を言ってもいい」ことだと「学習」するということのようだ。


唐沢なをき
@nawokikarasawa
数年前にも呟いたが気をつけないとやっちゃいそうなので自戒を込めて何度でも記す。子供の語彙の少なさや言葉の選び方の間違いなどによるトンチンカンな物言いを大人が「本人の前で」笑い者にしないようにしたい。(漫画のネタにするのはいいと思います)自分は昔散々親や親戚の集まりで笑われたので。