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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

酒のメリットとデメリット

小田嶋隆のブログである。最近の氏は八方美人の反対で、八方に喧嘩を売りまくっている印象だが、それ自体はどうでもいい。
私は、酒も煙草も一種の麻薬だと思っているが、人生を幸福にする、は大袈裟でも、ある種の人間の人生の幸福度を高める麻薬だと思っている。麻薬だから害は当然ある。しかし、知恵や知識がその人間を不幸にすることもあるし、異性との関係がその人の人生を不幸のどん底に陥れることもある。まあ、それが人生の面白さでもある。問題は外部にあるのではなく、それと付き合う当人の中にあるという、当たり前の話だ。
私は酒によって人生の喜びのかなりな割合を手に入れたが、その反面肝臓を悪くし、脳細胞を死滅させ、脳梗塞にまでなった。では、酒をまったく飲まない人生が良かったかというと、まったくそうは思わない。酒を飲まなかったら、私は20歳前に自殺していたような気がする。


(以下引用)


 今回は、アルコールの話をしようと思っている。
 どうしてこんなカビの生えた話題をいまさら蒸し返すのかというと、八街で起こった事故の報道をきっかけに、飲酒という行為について自分が考えている内容と、世間一般の人々が「酒」という液体に抱いているイメージが、あまりにもかけ離れていることに気付かされたからだ。
 もちろん、浮いているのは私の方だ。
 私の見解は、孤立している。
 ということは、間違っているのは、私の方なのかもしれない。
 でも、私は、自分が間違っているとは思っていない。
 私は、むしろ、現代日本の社会の中で暮らしている一般的な人々の「酒」へのスタンスが、狂っているのだというふうに考えている。
 その日本人の酒についての誤った考えを攻撃しようとか、厳しく指摘して軌道修正させようとか、正そうとか教導しようとか全否定して爆破しようとか、そういう大それたことを企図しているのではない。

 ただ、ちょうど良い機会でもあるので
「オダジマは酒について、こんなことを考えている」
 というお話を、この場を借りてお知らせするつもりでいる。
 私がこれから書く内容に共感できない読者は、むろん私の見解に従う必要はない。
「なーに言ってやがんだ」
 と、いきなり退けてもらってかまわない。

 私自身、世間にあまた流布している様々な人々による千差万別なご意見を、時々刻々、目に付き次第
「うるせえ」
 のひとことで瞬殺している。
 他人の意見に耳を傾けることは、有益な態度ではある。しかしながら、騒々しい社会の中で生きて行く人間にとっては、相容れない他人の意見を無視することの方が、より現実的かつ重要なプリンシプルだったりする。
 私たちの耳にはおよそ雑多な説教や忠告が、昼夜を問わず、無差別に投げつけられることになっている。
 それらのほとんどを、われわれは、無視している。
 というよりも、
「うるせえ」
 と、他人の言葉を遮断し、黙殺し、廃棄し去る態度が、結果として、私たちの人格を独立させている当のものなのだ。

 そんなわけなので
「他人は地獄だ」
 という箴言こそが、先人が残してくれたアドバイスのうちで最も有用なものだと、私は、そう考えている。
 われわれの個性は、共感できない他人のアドバイスの陰画(ネガ)として自分たちの中に蓄えられる。それらの、いけ好かない意見を排除した後に残る外枠としてのカタチは、自分が自分であり続けるための最後のよすがに相当する。大切に扱わなければならない。

 なので、賛同できない見解や忠告を見かけた時、私は一も二もなく、即座に
「うるせえ」
 とつぶやきながら心を閉ざすことにしている。
 皆さんもそうした方が良いと思う。
 もっとも、
「他人が押し付けてくるアドバイスに耳を傾けるな」
 という私のこのアドバイスを不快に感じる向きは、遠慮なく無視してくれてかまわない。せいぜい同調的な人間として生きてください。
 さて、酒だ。
 八街での事故の報道を受けて、私は、ツイッターに以下の一連のツイートを書き込んだ。
《「飲酒運転」は「飲酒」と「運転」というふたつの「有用」で「社交的な」習慣のすぐ外側にある。「犬を飼うこと」そのものが「犬の糞尿をぶちまけて歩くこと」そのものと同一ではないものの、すぐ隣にある区別のつけにくいふたつの態度であることと似ている……というのは言いすぎでしたね。午前8:15 - 2021年6月30日

《「飲酒運転」が危険で非常識で愚かな行動であると考えている皆さんには、「飲酒交際」や「飲酒自分語り」や「飲酒武勇伝」「飲酒説教」が、危険かつ陋劣かつ下品な行動であることについても、できればしかるべき認識を持っていただきたいものです。午前8:34 - 2021年6月30日

《酒を飲むことで判断力と知能を低下させた状態の人間が、それでもなお他人と対等に会話できると考えているのは、やはり酒を飲むことで判断力と知能が低下しているからなのだろうと思っている。午前8:44 - 2021年6月30日

 これらのツイートには、賛同の声がいくつか寄せられた一方で、反発ないしは異論を表明するリプライもそれなりに届けられた。

 私としては、不必要に挑発的な書き方をした自覚もあったので、反発を浴びるのは当然だとは思っていたのだが、それにしても、
「酒」
 を擁護する人が意外なほど多いことには、少々驚かされた。
 実際、飲酒運転が明らかな反社会的行為であり、言語道断の犯罪である点については、ほとんどすべての日本人が、諸手を挙げて同意しているのだが、その一方で、「飲酒」という行為なり習慣そのものが、それ自体として凶悪だと考えている人はほとんど見当たらない。
 つまり、多数派の日本人は
「自動車を運転することさえしなければ、酒を飲むことそのものは、決して恥ずべき行為ではない」
 と考えているわけだ。

 だからこそ
「飲酒運転」
 という
「厳しく罰せられるべき犯罪行為」
 と、
「飲酒」
 という文化的、社会的に好ましいと考えられている習俗を、一緒くたにして断罪したかに見える私の一連のツイートは、思わぬ反撃を食らうことになったのだろう。

 ただ、私は、
「運転しないのであれば飲酒そのものに罪はない」
 という態度は、事実上
「一杯くらい良いじゃないか」
「酔わない程度なら飲んでもかまわないだろ?」
「わきまえて飲めば大丈夫だよね」
 てな調子の酔っぱらいの甘ったれた言い草とそんなに変わらないものなのだと思っている。
 多くの酒にまつわる不祥事は
「一杯くらい良いじゃないか」
 という上目遣いの甘えた態度が引き起こしているところのものだ。
 私は、いくつか寄せられた飲酒擁護のリプライを眺めながら、
「ああ、酒飲みを甘やかす文化は永遠なのだな」
 という感慨に打たれていた。

 酒は、単なる液体ではない。あれは人間と人間の
「関係」
 を取り持つ文化的なツールだ。
 ある時は、厳しい言葉のやりとりを緩和する緩衝材になり、ある時は、同じホモソーシャルに属する男たちがやってのける愚行の事前弁解として機能している。

 それだけではない。
「酒の上」
 ということで事後的に免罪される背景があらかじめ用意されていないと、初対面の異性と口をきくことすらできない人間がたくさんいる。
 そういう酒抜きでは他人とリラックスした関係を構築できない意気地のない人間たちの多くは、結局のところ、酒の力を借りることで社会的な動物としてのノルマを果たしている。
 もちろん、彼らとて血中アルコール濃度が一定のパーセンテージを超えることでただちにリラックスできるわけではない。人間はそれほど単純なマシンではない。

 ただ、
「酒が入っている」
「酒の席だから」
「酒を飲んだ上での会合だから」
 という、双方にとって見え透いている弁解をあらかじめ共有するところから交渉を出発させないと、彼らは先に進むことができない。

 浮き輪にはまりこんだ状態で海水浴をしているスイマーと同じだ。
 彼らとて、泳げないわけではない。
 でも、浮き輪がないと不安で海面に滞在することができない。
 だから、安全弁としての浮き輪をパートナーとすることで、海と和解したふりをしている。
 それほど臆病なのだ。

 ともあれ、私のような酒を意識的に遠ざけている人間の口から漏れ出す酒への悪口は、酒を杖として生きている人々の耳には、非難として響くことになっている。でもって、オダジマは、人が人として人と出会い、対話し、喜びや悲しみを分かち合う機会それ自体を全面否定する赤い血の流れていない人間として彼らの不興を買う。

「ははは、友だちがいないんだな(笑)」
「ともに飲む相手のいない人生って、オレには見当もつかんわw」
 なるほど。ご指摘のとおりだ。
 私は差し向かいでテーブルを分かち合う飲み友だちは、一人も持っていない。もちろん、大勢で酒席を囲む仲間もいない。
 しかし、そのことをさびしいと思ったことはない。
 いったいどこの海鳥が深海魚と並んで泳げないことを嘆くだろうか。

 誤解してほしくないのだが、私は
「酒は法律で禁じられるべきだ」
「飲酒という習慣にはより厳しい制限が課されるべきだ」
 と言っているのではない。
 なのになぜなのかアルコールについてネガティブなことを書くと、必ずや
「おまえは禁酒法の施行を主張するのか?」
「この世の中から酒がなくなればすべての問題が解消すると思っているのか」
「酒を飲む人間を例外なくバカ呼ばわりにするのか」
 といった調子の罵倒が寄せられるきまりになっている。

 これは、SNSが普及してからこっち一般的になっている(←さかのぼれば2ちゃんねる由来なのだと思っている)議論のマナーで、彼らの論争技術は
「まず相手の主張を極端化した上で、おもむろにそれを論破しにかかる」
 カタチで発動されることになっている。
 彼らにとって大切なのは、論争相手の主張に異を唱えることではなくて、とにかく敵方の主張を跡形もなく焼き尽くしてみせることだったりする。
「つまりあなたは有権者による投票のすべてが一切の現実的な効果を持っていないと主張なさっているわけですね?」
「要するに、世界中のキッチンがじゃがいもで満たされることが君の希望だというふうに受け止めて差し支えないわけだよね?」
「えっ? もしかして現首相より知能指数の低い人間が、この国に一人もいないと思ってたりする?」
 てな調子の藁人形を持ち出した議論に、私は付き合おうとは思っていない。
 だから、これ以上の議論はしない。

 最後に、議論とは別に、簡単な決意表明をしておく。
 これから私が述べるのは、私自身が
「こうするつもりだ」
 ということにすぎない。
 だから、言うまでもなくその私の方針に読者が従う必要はない。
 共感を抱く必要もない。
「なるほど、オダジマはそういう方針で行くのだな」
 と、言葉のまま受け止めてもらえばそれで十分だ。

 私は、酒そのものが悪だというふうには思っていない。
 飲酒という行為がそれ自体として悪徳だとも考えていない。
 アルコールは、それを習慣的に摂取する人々にとっては、おそらく有用な液体なのだろうし、一定の慰安をもたらすものでもあるのだろうと思っている。

 それ以上に、アルコールは、
「関係」
 を媒介する社会的なツールでもある。
 人々が、
「交際」
 し
「共感」
 を分かち合い、
「ふれあい」
 を求める時、アルコールは、不可欠な背景となっている。
 それを、焼き尽くせと言うつもりはない。
 飲みたい人は飲めばいいし、飲んだ上での人付き合いを大切にしたい人たちは、飲んだり吐き出したりの人生を続行するのが適切だと思う。
 そこのところに私は口出しをするつもりはない。

 ただ、一点、私は、すでに断酒した人間の一人として、少なくとも今後は、酒を飲んでいる人間と同席する機会を拒絶するつもりでいる。

 酒に罪がなくて、飲酒が悪徳でなくて、酔っぱらいに責めるべき点がないのだとしても、酒に酔った人間と酒を飲んでいない人間が同席せねばならないことは、これはひとつの災害にほかならないからだ。

 これまで、新年会やら打ち合わせやら温泉旅行やら出版物の打ち上げやらトークイベントの景気づけやらで、結果としてアルコールを摂取している人々と同席する場にかなりの頻度で付き合ってきた自覚がある。
 自分はなんと無駄な努力をしていたのだろうかと、あらためて反省している。
 なので、せめて、今後に関しては、酒席への参加を一切ごめんこうむる設定を押し通したいと願っている。
 弁解すればだが、私が、あまたの酒席の末席に連なったのは、私の側のサービス精神の発露にすぎない。
 楽しかったからではない。
 なんとなく断りきれずに意気地なく酒席に引っ張られていただけの話で、楽しいふりをしてさしあげていたのは、私の性格の弱さがそうさせていたのだと思っている。

 かえすがえすも、くだらない経験だった。
 酒を飲んだ状態の人間が持ち出してくる話題に、啓発された記憶は、少なくとも私の側にはない。単純な話、酒飲みの相手は苦痛だった。

 酒のもたらす効用のひとつは、対面する相手が自分を迷惑がっていることへの鈍感さを身につけられることだ。
 それゆえ、先方があからさまな上の空の相槌を繰り返していても、酔っぱらいの側は、自分がつまらない話をまくしたてていることを、自覚せずに済む。
 だからこそ、酒席はまわる。
 酒席では、自分の話に耳を傾けている人間が一人もいないことに気付いていない人間たちだけが、延々としゃべり続けている。
 つまり、酒は、誰も聴かない話を大量に生産することによって、宴会の表面上の賑わいを演出する稀有な液体なのであって、それゆえ、時が経過するにつれて、愚かな人たちは、酒抜きでは対話を続行することができなくなる。
 まったく、うまくできた話ではないか。

 こんなことを書くと
「その言い方は、あんまり杓子定規で余裕を欠いているのではないか」
「誰にでも欠点はあります。大人なら他人の無神経や粗雑さに対して、もっと寛大であってしかるべきだと思いますよ」
 てな調子のアドバイスをしてくる人間がきっとあらわれる。
 あなたがたの言わんとしていることは、もっともだと思う。
 理屈としては、私も、大いに納得している。
 しかし、誰かの欠点や失礼さや声のデカさを許容するだけの余裕が、もし仮に、自分に備わっているのだとしたら、私は、その余裕なり寛大さなりを、酒を飲む人間を許容することのために浪費したいとは思わない。

 この秋には65歳になる私が、かろうじて持ちこたえているなけなしの寛大さを、私が、一つ残らずまるごと自分自身のために費やしたいと考えたとして、それは罪だろうか。
 今後、酒を飲む何人かのリアルな知り合いが、酒を飲まないからという理由で私に絶交を言い渡すのだとしても、それはそれで仕方のないことだ。
 ついでに申せば、この先、一生涯人々が集まる酒席に招待されない結末になるのだとしても、私はそのことをさして残念には思わない。

 寄るとさわると、なにかにつけて酒食をともにしたがる人間たちの、過度に同調的な振る舞いの連鎖と繰り返しが、この国の社会を腐らせているものの本体だと私は考えている。
 オリンピックという狂った祭典も、もとをただせば、意地汚い連中が相互に提供しあっている「酒食の饗応」を拡大したものだ。

 最後に、リアルな知り合いに向けてメッセージをお伝えしておく。
 今後、オダジマを酒席に招待したり、酒絡みの会合に呼んだり、同様の旅行に誘ったりすることは、できれば断念してほしい。
 こんな調子の、カドの立つカタチでの拒絶は、できれば振り回したくなかったのだが、酒と縁を切るためにはカドを立てなければならない。そうやって、無用な人間との縁を切断しにかかるほかに、酒の進入路を塞ぐ手立てはないのだよ。とても残念なことに。
 オリンピックは、中止できないと思う。
 あれは、飲み始めてしまった酒と同じだ。
 ゲロになることがわかりきっていても、飲む人間は最後まで飲むだろう。
 私は、付き合わないつもりだ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)



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「無意識のバイアス」が生じる理由

「紙屋研究所」から転載。
正直言って、私は差別問題にはあまり興味が無いので、これは思考課題として保存するだけである。
私が指摘したいのは、差別する側の「差別の快感」と「差別という娯楽」の点である。そこを追求しないと、差別の根本的解消はできないのではないだろうか。他者を劣った存在とみなし、自分を優れた存在と思うことは、誰にとっても快感なのである。つまり人間の普遍的心性だ。そこにこそ「無意識のバイアス」が生まれるのではないか。

(以下引用)

ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』

 リモート読書会は、ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店、山岡希美訳、 高史明解説)。

 

 

 著者・エバーハートの主張する「無意識のバイアス」のメカニズムを正確に理解することがまずは必要だ。

  1. 格差社会(差別社会)の中で大量の格差・差別的現象に触れることによって
  2. 脳の器質的なしくみ・構造によって引き起こされる

…というものだとぼくは理解した。

 大量の差別現象の中で起きる脳の構造によるものである以上、そういうバイアスを持ってしまうのは、その人が思想的な差別主義者だからではない。あるいは心の奥底に差別意識を持っているからではない。誰にでも起こりうることなのだ、とエバーハートは言う。

潜在的なバイアスは人種差別主義の別名ではない。実際、潜在的なバイアスの影響を受けるのに、あなたが人種差別主義者であるかどうかは関係ないのだ。潜在的なバイアスは私たちの脳の構造と格差社会がつくり出した歪んだレンズのようなものである。

(ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス人はなぜ人種差別をするのか』KindleNo.123-125) 

 ぼくは、この本を読んで、表題から想像される「バイアスが引き起こされる自然科学的なメカニズム」のようなものにはあまり関心を持たなかった。

 一番ぼくにとって「驚き」だったのは、米国の黒人を取り巻く状況が、依然差別的なものであるというエバーハートの説明、彼女が説く米国における黒人の状況、というものに一番「驚いた」のである。それが本書を読んでのぼくの最大の「収穫」だった。

 ぼくなりに読み取ったのは次の4点である。

  1. 黒人は依然として米国社会で警察から不当な扱いを受け、一瞬で殺されるかもしれないという危険にさらされた意識を持っている。
  2. 刑事司法においても不利に扱われ、長い拘留で借金を背負うかも、失業するかも、親権を失うかも…という不安にさらされるあまりに、それを回避するために、してもいない罪を認める「自白」をしてしまう。
  3. コミュニティや教育において依然として実質的な隔離が行われている。
  4. ビジネスや採用の場面において、黒人差別は事実上行われている。

 え? お前、つい最近起きて全米・全世界が震撼したジョージ・フロイド殺害事件やその後に起こったBLM運動をまさか知らないの? と言われそうだけども、1.〜4.をとトータルに聞くことで、黒人への差別・抑圧構図が依然として、黒人の日常的な意識を支配し規制するほどに強力なものだという認識が構成された。逆に言えばそういう認識がなかったのである。つまり早い話が、「差別はもうだいたい終わったのではないか」。これだけ衝撃を受けている、ということはぼくは結局その程度の認識をしていたということなのだろう。

 これは日本ではたぶんポイントになる点で、本書の解説でも、黒人社会の差別の現状への認識が「BLM運動への冷笑」を生んでいると述べている。

 ぼくは福岡で行われたBLMを叫ぶデモにも参加した。

 しかし、あらためて米国の黒人差別の状況の皮膚感覚について問われるなら上記のような有様なのだ。

 読書会参加者のPさんは米国で暮らしていたことがあり、黒人が暮らしている区画の状況やたいていの黒人の子どもが処世術として警察への態度を親からどう教えられるかなどについて話があった。

 もう一人の参加者Qさんは、荻上チキが本書を紹介していたのを聞いて、この「無意識のバイアス」の解決策に興味・関心を持って本書を読んだことを紹介した。

 Qさんは、本書の中で「賢明なフィードバック」という介入に注目していた。

 単なる日記を書かせたグループと、自分のアイデンティティや価値観に関わることをふりかえらせる日記を書かせたグループとでは後者の方が「明らかに高い成績を収めていた」。

この研究は特に、早い段階での学力不振に対し、より大きな心理的脆弱性を示す黒人の学生において、心理状態と学習過程の関連性を裏づけている。肯定感の利点は、平均以下の学力で最も苦しんでいる成績の低いアフリカ系アメリカ人の子どもたちの間で最も顕著であった。彼らにとって、早い段階で受ける落第点は「他の子たちほど頭がよくない」「学校ではよい成績がとれない」というステレオタイプを確証するものとして認識される恐れがある。価値観の肯定課題によって、自らの妥当性に対する感覚を回復させ、心理的ストレスを軽減させ、成績不振へ至る悪循環を断ち切ることができた。(前掲書KindleNo.3375-3380)

 さらに同じような介入として「賢明なフィードバック」がある。

 白人の教師から同じように作文の課題を与えられた黒人の生徒群と白人の生徒群をつくり、批判的なコメントをつけながら「もっとできるはずだ」というメッセージを送ると、再提出の割合が黒人群で大きく伸びた。内容も優れていた。これは黒人群ではそういう明示的な安心感・信頼感を渇望している、という解釈ができるのだと言う。

 Qさんは、「これって生活綴り方運動みたいだと思った」と述べた。自分にとって忘れがたい体験となった小学校のクラスでは先生が作文を書かせて自分の生活を見つめなおさせていた。生活を客観的に捉えさせ、そこに必要な教育的介入を与えることで、得難い体験をクラスとしてした、今でもそのクラスのことは忘れない、とQさんが述べた。

 実は、Pさんもエバーハートが刑務所で囚人たちに作文を書かせてそこに批判的なコメントをつけて激励したところ、ものすごく熱い反応が返ってきた箇所に心を打たれていた。

 PさんもQさんも、こうした差別問題に与える教育の介入というものの力に強い感動を覚えたのである。

 ただ、ぼくはそこには少し距離があった。

 それらのエピソードは、差別されている側、つまり打ちひしがれ、尊厳を失わされている人たちにとって教育は大きな力を発揮するという証明ではあるが、差別する側のバイアスを正す力に果たしてなるかどうかは疑わしい。仮になるにしても、そうした丁寧な教育や啓発によって変えられる部分は、限られている上に、なかなか手間がかかる。いや…確かに特効薬はないのだから、手間がかかるし、初めは限定的なものなのだろう。それを倦まず弛まずやるしかないのかもしれない。

 

 ぼくは、解決策として注目した部分についていえば、多様な人たちとの交流は、交流自体では偏見の除去の解決にはならず、逆に偏見を強化してしまう恐れもある、という本書の主張であった。

当時、人種バイアスは一般的に無知の産物であると考えられていたのだ。そこで、人々を互いに交流させるだけで、誰もが大まかなステレオタイプを個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な人種的態度を和らげることができると考えられていた。バイアスの壁が緩和されれば、社会的統合は少数派の台頭を可能にするであろうと。……

しかしながら、バイアスへの解決策を約束した学校の人種的統合は、主唱者たちが予想していなかった障壁をもたらすことになった。結局のところ、ただ単純に同じ教室に座っているというだけでは、時代遅れの偏見はなくならないのだ。……

他の人が信頼する権威のある教師から、日常的に軽蔑されることで、不平等の規範が支持されているのである。……

交流は衝突を改善するのではなく、悪化させる可能性があることを発見した。

(前掲書KindleNo.3138-3163)

 

 エバーハートが紹介する「単なる交流」の中で起きていた教師による差別は相当に露骨なものである。今日これほどの差別が許容されているとは思えないのだが、エバーハートが別のところで書いているように、「無意識のバイアス」はちょっとした表情やしぐさの中に現れ、それは社会的に伝染してしまう。だから、この部分は解決策を書いているというよりも、「交流により解決する」という「解決策」のナイーブさを指摘している箇所として読んだ。

 それは、黒人の話ではないが、例えば、日本で「同じ偏差値のような人々だけでなく多様な人がいる学校やクラスの方がいい」という主張が一理ある反面で、かえって差別感覚を助長してしまう難しさについても考えてしまった。そこにはやはり意識的な教育介入がなければ、偏見を強化してしまう危険があるのだろう。

 

 という具合に、ぼくは本書に何か解決策を見出した、という読み方をしなかったし、できなかった。差別についての現状、起きる仕組み、解決の難しさについてむしろ思い知らされるような一冊となった。

国分寺JC(青年会議所)の精神分析

ネットでは「昭和臭がする」というコメントが多いようで、ほかにはモデルがブスという意見もあるが、まあ、ネット民のレベルはそんなもんだ。それより問題はJC(青年会議所)がなぜ政治討論会の主催者になったのか、ということだろう。そのJCというのは親父趣味を遺伝的に持つ集団なのだから、こういうポスターを好むのは当然だ。
このポスターが訴えかける対象はどういう層なのか。女性でないことは明白である。まるで、「私をプレゼントします」と言わんばかりの性的アピールをしているのだから、当然だ。足よりも、コラージュされたリボンや、下の字体にそういう雰囲気が臭っている。手にしたバッグやハイヒールも下品だが、胸元から降りている紐は何なのか。どう見ても、銀座のキャバ嬢ファッション(ただし、店内ではなく同伴出勤時)だろう。国分寺JC(女子中学生の意味ではない)の願望と趣味丸出しである。


まるで男性向けのグラビア? 脚露出の女性モデル使った討論会チラシに批判 国分寺市長選

2021年7月1日 11時10分
 東京都国分寺市長選(4日投開票)で国分寺青年会議所(JC)が計画した公開討論会のチラシに、脚を露出した女性モデルの写真が使われ、ネット上で「今すぐ取り下げてほしい」「あきれるレベル」と批判の声が上がっている。
東京都国分寺市長選の公開討論会のチラシ=国分寺青年会議所のフェイスブックから

東京都国分寺市長選の公開討論会のチラシ=国分寺青年会議所のフェイスブックから

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 討論会は6月22日に予定され、候補者2人のうち1人の都合が付かず中止になったが、チラシは1日午前時点で、国分寺JCのフェイスブックのページで見られる状態になっている。
 同JCは取材に「若い世代に興味を持ってもらえるデザインを念頭に検討した。差別的意図で作成はしていない。不愉快な感情を持たれたことに対しては申し訳なく思っている」と釈明した。
 日本女子大の吉良智子学術研究員(美術史・ジェンダー史)は「男性向けのグラビアにありがちなポーズだ。女性像を目を引きつけるための『アイキャッチ』として利用した」と指摘。JCの回答についても「不快に感じた人に問題を押しつけている」と批判した。(竹谷直子)

モンタノス派とウルトラモンタニズム

「モンタノス派」はこの「ウルトラモンタニズム」とはまったく別系統のキリスト教(原始キリスト教に近いと思う。)で、私も誤解していた。「ウルトラ」は誤解を招く言葉である。


ウルトラモンタニズム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ウルトラモンタニズム または ユルトラモンタニスム(ultramontanism) とは、キリスト教の歴史上、17,18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。しばしば「教皇至上権主義」「教皇至上主義」と意訳される。転じて、教皇が政治上も絶対的権威を有するという近代の主張もこの語で表される。

概要[編集]

ウルトラモンタニズムを直訳すると「山の向こう主義」。フランスから見てローマはアルプスを隔てた向こう側であることによる。類義語に「バチカニズム(バチカン主義)」「キュリアリズム(教皇庁主義)」が挙げられる。超モンタニズム(=超モンタノス主義)では全くない事に注意。

対立概念は「ガリカニスム」。こちらは直訳すると「ガリア主義=フランス主義」だが、しばしば「国家教会主義」と意訳される。

カトリック教会政治に限定された議論のようでありながら、世俗権力を巻き込む主張・論争に発展したのは次の経緯による。すなわち、王権神授説絶対君主の権威の源は神の意思という説だが、そこからすなわち世俗のより神の代理と称するローマ教皇の権威が優先するという主張が可能であり、これがウルトラモンタニズムである。対してガリカニズムは、フランスの大司教の権威は教皇ではなく直接の神の召しであり、ローマ教皇に従属するものではないとして、その大司教から戴冠した王の権威の上にも直接に神がおり、王は教皇の支配下にはない、と主張した。これに地域教会の独立性の主張の観点から「国家教会主義」の訳を充てる。

したがって、用語ウルトラモンタニズムは「教皇至上主義」と日本語訳されることがあるものの、ローマ教会の権威における公会議と教皇との優位権を巡る公会議主義に対する「教皇主義」、プロテスタントの標榜する聖書の権威が教会に優先するとする「福音主義」に対する「教皇主義」の、どちらも意味しない。



暴力と不合理性と「問題の誕生」

コリン・ウィルソンの「SFと神秘主義」の中に出て来るふたつの思考素、あるいは思考課題を書いておく。前者はヴァン・ヴォークト(文中ではヴォートと書いている。)後者はアルフレッド・コジプスキーという人の思想らしい。

1:「どうして人間はこうも暴力的、不合理なふるまいをするのか」
2:「問題は、われわれの不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から発している」

後者の「問題」がどういう問題なのか、あるいは「すべての問題」なのかは分からないが、ウィルソンの書によれば、2が1の解答であるようだ。(ヴォークトはそう思ったらしい。)
だが、その当否は別としても、1も2も思考素として面白い。

1は、「暴力的」と「不合理」が同じものであることを含意している可能性があると私には思える。もちろん、問題の合理的解決として暴力を手段として選ぶこともあるだろうが、より突き詰めるなら、暴力的なふるまいとは、問題の解決方法が分からないことから来る衝動的行為なのではないか。それは単なる力の行使とは異なるから、「暴発的な」力の行使という意味で「暴力」と呼ばれるのではないだろうか。それは、暴力的な人物のほとんど頭が悪い人物であるという事実と一致しているように思う。(この場合、単純に「人を殺すから暴力」という考えは採らない。冷静に行われた殺人は暴力とは別のものであり、またその殺し方も問題ではない。)

2は、単純にその考えが面白い。つまり、問題自体に問題が内在しているよりも、考える側の思考法によって問題が生じている、という思想と言えるかもしれない。別の見方をすれば、「それが問題だと思う時に問題は生まれる」とも言えるだろう。少なくとも、動物が人生に悩むことは無さそうである。人間が人生に疑問を持つからその生き方が問題になるわけだ。動物同様に自分の人生に悩みを持たない層は存在する。別に悩むほうが高級な人間だとは言わない。むしろ愚かだろう。問題は、問題がどうして生まれるのか、ということで、それはそれを問題視するから生まれる、というだけのことだ。そして、何かの疑問は「我々の不明瞭な論理と不明瞭な言語習慣から来ている」可能性は非常に高いと私も思う。