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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

物事をきちんと「分けて捉える」ことが論理の基本

私はナンセンスユーモアは好きだが、それはその構造が論理の裏返しであるからだ。最初から論理性の無い言論は私には耐えがたい。前回の内田樹に関する記事は、そういう非論理性への怒りだと思う。まあ、怒りそのものが感情であり、論理ではないのだが。
それはともかく、一時的にメモしておいた問題をここで考えてみたい。
先に、その「問題」を転載(自己引用)しておく。

(以下自己引用)

面白い指摘だが、論理(大筋は賛成)が大雑把すぎる感じだ。後で考察してみたいのでメモとして保存し、追記する予定。


(以下引用)


芦辺 拓
@ashibetaku
60年余生きた経験からすると今の失政がどんな惨状を生もうと「やっぱり自民党でないとダメなんです!」と声があがって何も変わらない。さすが敗戦後はそんなことはなかったと思いきや、公選になった知事・市長に選ばれたのは旧内務省の官僚ばかり。つまり官選と同じ結果。日本人はとにかく変えられない



(自己引用終わり)

芦部拓のこの発言のどこに問題があるかというと、論理の基本である「問題の要素を分けて、そのひとつびとつを正確に検討する」という作業ができていないということだ。まあ、直感的な判断だ、ということだろうから、ツィッターなどではそれが普通ではあるだろう。
1:敗戦後と現在を比較しているが、当時と現在は状況がまったく異なる。芦部氏は「敗戦で人民は日本の政治の誤りに気付いただろう」という前提で考えているが、敗戦後の国民は、完全な混乱状態にあったのであり、日本の政治が間違っていたという自覚を持った人間はほとんどいなかったはずだ。知事や市長を選ぶ際に、判断の根拠となるのは、候補者の「実績」「学歴」だけであるが、敗戦当時に地方自治体首長としての実績を持った人間は候補者の中にほとんどいなかったはずだ。政治経験者の多くは「公職追放」されていた以上、政治家に準ずる実績を持つのは官僚、特に旧内務省官僚たちだけだっただろう。内務省は「官僚の中の官僚」であり、庶民から見れば雲の上の人だ。素性の分からぬ候補者に入れるよりは、「優秀な」(と期待される)官僚に投票するのは当然なのである。
2:庶民が自民党に票を入れ続けることと、敗戦時に「官僚出身者」に入れることはまったく別の話であり、官僚=保守層というのは現在を視座とする固定観念にすぎない。戦争時の官僚は国家統制の要であり、当時の日本はいわば「戦時国家社会主義」なのであり、むしろ革新的な思想の者も多く、マスコミ人などは「官僚=アカ」と見做す者もいたのである。
3:「日本人は」という大きなくくりが論理的には根本的欠陥であることは言うまでもない。提灯も釣鐘も「吊るされているから同じ種類だ」とか、月とスッポンも「丸いから同じ種類だ」と言うようなものだ。




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