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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

好意を見せたために相手にストレスを与える話

私は人の顔を覚えるのが大の苦手なのだが、世の中にはそれが得意な人もいる。
山本さほのweb漫画の新しい回で、お気に入りの食べ物屋で顔を覚えられて、「もうこの店には行けない」という気持ちになる、という内容の話があって、それを批判する「お店関係の人」のツィートをどこかで見たが、私は山本さほの気持ちがよく分かる。
特に、「特別サービス」を受けると、二度とその店には行かないだろう。実際、そういう経験がある。と言うのは、そういうサービスを受けた店にまた行けば、それは「サービス目当てで来たな」と思われかねないし、また、そういう気苦労や心的葛藤(またサービスすべきかどうか)を店の人に起こさせるだろうと思うからだ。まあ、好意を見せたために馴染み客をひとり失うという不条理だが、それが人間心理というものだ。
もちろん、個人的サービスを受けて大喜びして、その後もそのサービスを当てにしてその店に行くというのが普通なのかもしれないが、そういう「サービス」(特別扱い)を好まない人間も一定割合でいるということである。


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創価学会内の特殊用語や観念

こういうスレッドは役に立つ。
私は創価学会が釈迦よりも日蓮を上位に置いているとは知らなかった。仏教への反逆ではないか。
まあ、キリスト教に対するイスラム教に相当するか。
なお、雑な内容だという批判もあるが、雑というのは「大筋は正しい」ということだろう。
その批判も後で載せる予定。

(以下引用)


2021-06-21

創価学会系の人しか使わない言葉10選

私は創価学会員ではありません。

趣味創価学会研究しているものです。

注・なお、創価学会系とは日蓮正宗顕正会もさします。

1,大聖人(だいしょうにん)

鎌倉時代僧侶日蓮」のこと。

創価学会は彼を実質的に「神」として崇めている。

所謂「お釈迦様」よりも上位の存在とみなされる。

(厳密にいうと「本仏」という。)

なお、一般的日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。

菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは

相容れないのである

2,謗法(ほうぼう)

「罰当たり」の最上級バージョンといえる。

最近日本でも放送している韓流ドラマタイトルにもなったので

知名度は上がったかもしれない。

創価学会系の人にとっては最大の侮辱ワードとなる。

3,境涯(きょうがい)

境遇」のこと。なぜか「高い」「低い」と表現する。

4,財務(ざいむ)

お布施」のこと。創価学会では毎年末に集められる。

強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。

一般家庭でも100万円出すところもある。

5,折伏(しゃくぶく)

勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである

6,破折(はしゃく)

論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)

7,御書(ごしょ)

日蓮信徒に当てたとされる手紙のこと

創価学会系では「聖書」的な扱いである。

8,仏法(ぶっぽう)

仏教」のこと。

9,広宣流布(こうせんるふ)

創価学会の教えが世界に広まった状態を指す。

公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)

を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。

現在では池田大作創価学会名誉会長創価学会インターナショナル(SGI)会長

世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である

10,功徳(くどく)

「ご利益」のこと。いわゆる「エア本動画からネットミーム化した感もある。

(上記内容への批判を転載する)

雑だなぁ。いくつか修正しとくよ。

謗法、

法をそしると書く。他宗や外道への信仰法華経に書いてある内容をそしる事に繋がるから駄目だよねって考え方。

創価学会僧侶擁立していないが為に、仏教としての定義に反するので内道の仏教じゃなくて外道だよね

じゃあ謗法だよね?っていう教学の上での致命傷が有る。割と逃げ場の無い正論なので指摘するとキレる。

境涯

境遇の事とするのは狭いかなぁ。因果応報輪廻転生ってどちらも仏教基本的な考え方で受け入れやすいよね

でもこの二つって別々に存在してるわけじゃないからくっつくんだよね。都合の悪い人も多いだろうけれど。

まれも育ちも全部自分のせいだからね?つらくても受け入れようね?って仏教は言ってきます

そういうの踏まえた上で、あの人はそういう境涯からね…。って使い方をします。

功徳

仏教因果応報を説きますのでご利益とするのは誤りです。まぁ皆同じ意味認識してそうですが

仏教における功徳って概念は、筋トレすれば筋肉が付く位の意味です。それは奇跡を願った神頼みとは違います

まぁ創価学会は現世利益を謳ってたみたいな話を耳にしたことあるので、学会の話としては間違いじゃないかしれません。



シーギリア(スリランカ)

謎だらけの「空中宮殿」シーギリヤ・ロック登頂に挑戦!

 

地球の歩き方aruco編集部

2021年05月31日

空から眺めたシーギリヤ・ロック

スリランカで必訪の世界遺産といえば、シーギリヤ・ロック。絶景スポットとして紹介されることが多いので写真で見たことがある人は多いはず。でも、この遺跡の本当の魅力は絶景だけではありません。なぜジャングルに囲まれた巨岩の上に宮殿が造られたのか、岩壁に描かれた不思議な美女のフレスコ画、階段脇に足だけ残る巨大なライオンの像など、謎だらけのエピソードやスポットが、世界中の人々を惹きつけています。今回はそんな「空中宮殿」のヒミツを探るべく、シーギリヤ・ロック登頂に挑みました!

人が豆粒のよう! シーギリヤ・ロックはこんなに大きい!

横から見たシーギリヤ・ロック

広大なジャングルの中、垂直に切り立った巨岩の最上部に造られた「空中宮殿」。そこに行くには、高さ約180m、南北約400mの大きな大きな岩山の側面に造られた階段をひたすら上っていかなければなりません。いざ上ろうとシーギリヤ・ロックに近づくと、あまりの大きさに少しひるんでしまいます。

そして階段にはすごい行列が。本当に頂上にたどり着けるか不安になりながらも、一歩ずつ手すりを持ちながら上っていきます。日差しが強いので帽子と水分補給は忘れずに!

断崖絶壁に沿って造られた階段

正体不明の美女たちのフレスコ画が現れる!

鮮やかな色彩の壁画
十数体の華やかな女性たちが描かれる

数十分上っていくと、途中で岩壁一面にカラフルな女性たちの壁画が登場! 現在は十数体が残っているけれども、かつては500体以上の女性が描かれていたそう。

彼女たちは、宮殿にいた貴婦人や侍女たち、もしくは天女アプサラという説もあるけれど、はっきりとしたことは未だにわかっていないのだとか。きらびやかな装飾に彩られた美しい女性たちは、現実の人というよりはどこか浮世離れした印象でした。

裸の女性が貴婦人、服を着ているのが侍女だという説も

巨大なライオンのツメが見えたら頂上はもうすぐ!

ライオンテラスでひと休み

その後、「ミラーウォール」と呼ばれる磨かれた漆喰の壁を通って先に進むと、「ライオンテラス」という名の小さな広場のような所に出ます。そこでは大きなライオンのツメの像が、頂上に続く最後の急な階段の入り口を囲んでいます。

「シーギリヤ」とは「ライオンの山」という意味。かつてはここに巨大なライオン像が建っていたとも言われているけれど、なぜか他のボディパーツは未だに見つかっていないのだとか。

巨大なライオンのツメ
ここから頂上へ続く急な階段を上る

ついに登頂! 宮殿跡から眺める王が見た景色

頂上からは360度の大パノラマが見渡せる

麓から約1時間。頂上に着くとまず目に入ってくる階段や沐浴場。かつては約1.6ヘクタールの巨大な宮殿が建っていた跡がキレイに残っています。

こんな高い所で水を引いて王様や多くの人々が生活をしていたとは思えない場所なのですが、当時の治水・建築技術の高さが伺えます。

そして高さ180mから見下ろす周囲一面の緑のジャングル。王様は毎日どのような気持ちでこの景色を眺めていたのでしょう……。

頂上には保存状態のよい遺跡が残る

なぜこんなところに宮殿が造られた? 悲劇の王様ストーリー

ゾウに乗ってシーギリヤ・ロックを眺めることもできる

5世紀後半に権力争いの末、王であった実父を殺害し自らが王位についたカーシャパ王。念願の王位を手に入れたものの、自責の念から、かつて父の夢であったシーギリヤ・ロックの宮殿を建築。しかし、そこでの暮らしのなかでも自責の念は消えず不安にかられながら暮らしていたところ、ある日弟が大群を率いてきたそう。その時王は自ら命を絶ったとか。

華麗な宮殿は悲しいエピソードによりわずか11年で役目を終えてしまいましたが、今では世界中の人たちを魅了するスポットになっています。

ぜひ実際に上って遺跡のスケールを体感してみてください。さらに詳しい情報は『arucoスリランカ』で紹介しています。シーギリヤ・ロックをゾウに乗って眺めたり、隣の山から見下ろせる穴場の絶景スポットなども掲載中です。

aruco編集部 池田祐子
写真 ©スリランカ政府観光局、©iStock

※初回掲載: 2018年02月09日

降圧剤のメリットとデメリット

小田嶋隆の記事の一部だが、彼は脳梗塞を二度発症しているはずである。二度目は最近で、すっかり瘦せ衰えている。まあ、やせて老けたこと自体は入院生活の結果だろうとも思うが、問題は、ここに書かれている内容だ。つまり、彼は体の様々な不調が薬の副作用だと知っていながら、薬物治療を続けているということである。それは、その副作用より、脳梗塞の再発生が恐いという判断だろう。多くの脳梗塞経験者も同じ判断をするわけだ。
だが、一度目の発症以来、薬物治療を続けていたとすれば、その治療に効果が無かったから二度目の発症があったのではないか。とすると、なぜ三度目は防げるという信頼が持てるのか。
あるいは、二度目の発症自体に、その薬物が関係していたのではないかとすら私には思えるわけである。
確かに降圧剤は血圧を下げる。しかし、その高血圧そのものが、身体が正常な働きをするための自律的な現象だった可能性もあるのではないだろうか。
仮に、降圧剤を飲んでも飲まなくても脳梗塞は発症するとすれば、薬の副作用がある分だけ、飲まないほうがいいという結論になるのではないか。
いや、降圧剤を飲むなと言っているのではない。私自身、飲まないと血圧が200を超えるので飲んでいる。しかし、降圧剤の副作用は、製薬会社が言うよりはるかに出現可能性は高いだろうと私は思っている。そもそも治験など、全年齢をカバーした長期間のものであるはずはないし、自分の身体の不調が飲んでいる薬の副作用だと気付かない人は膨大にいると思う。

(以下引用)

定期的に投与しているクスリの副作用で、体調は一定の周期ごとに変化している。
 それらの体調の変化が、病気の症状そのものではなくて、薬剤の副反応であることは、おおむね理解している。であるから、対処のしようについても、だいたいのところはわかっている。
 であるから、身体的な負担はともかく、不安は持っていない。
「この時期になればこういう反応があらわれて、それらの症状は、これこれの期間のうちには減衰する。うまく消えてくれないようなら、これこれのクスリをこういう用法用量で飲めば良い」
 てなことで、やりくりしているのがこの3年ほどの状況だ。

ジョン・フィールド

偶然にユーチューブで聞いたのだが、実に素晴らしい作曲家である。ショパンへの影響は明らかに大きい。つまり、彼がいなければショパンも存在しなかっただろう。

(以下引用)

ジョン・フィールド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジョン・フィールド
John Field
John field.jpg
基本情報
生誕 1782年7月26日
アイルランド王国の国章 アイルランド王国 ダブリン
出身地 イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没 1837年1月23日(54歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 モスクワ
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家
ピアニスト
担当楽器 ピアノ

ジョン・フィールド(John Field, 1782年7月26日 - 1837年1月23日[1])は、19世紀の初めに活動したアイルランド作曲家ピアノ奏者で、「夜想曲」(Nocturne)の創始者としても知られる。「夜想曲」を一つの音楽ジャンルとして確立させ、フレデリック・ショパンらに影響を与えた。また、モスクワサンクトペテルブルクに長く滞在して作曲・演奏活動を行い、後に『近代ロシア音楽の父』と呼ばれることになるミハイル・グリンカを指導するなど、ロシア音楽の発展にも大きく寄与した。

生涯[編集]

ダブリンに生まれたフィールドは、ヴァイオリン奏者の父にピアノの手解きを、また、教会のオルガン奏者であった祖父から音楽の基礎を学んだ。9歳の時に彼はピアノ奏者として世間への初登場を果たしたとされ、 1792年から トンマーゾ・ジョルダーニ(Tommaso Giordani、1730 - 1806)の指導を受けた。

1793年、11歳のフィールドは、家族と共にロンドンに移住、作曲家でピアノの製造も手掛けていた ムツィオ・クレメンティのもとで学んだ。17歳の頃には、彼の最初のピアノ協奏曲の初演が行われていたといわれており、1801年に彼の最初のピアノソナタ集が出版され、この頃から作曲家としての活動が盛んになった。

1802年7月に、彼はクレメンティと共にヨーロッパを回り、パリウィーンなど各地で名声を博した。その後、クレメンティに連れられてロシアサンクトペテルブルクへ移り、彼は1803年6月にクレメンティが去った後も、この地に留まり演奏家として、また、ピアノの指導者としての活動を続けた。1804年に最初の交響曲を初演し、その後もロシア各地の貴族社会から熱烈に歓迎され、一時は「フィールドを知らないことは、罪悪である」とまで評されていたとされる。

1810年、28歳のフィールドはモスクワでの教え子の1人であったアデライデと結婚し、1819年に エイドリアン・フィールド を授かる。1815年にはフランス女性と不倫し男児 レオン・シャルパンティエ をもうけており、レオンは後にピアノ奏者となり、父と共に演奏旅行をしている。フィールドにとって、この頃が人生の絶頂期であり、この頃の教え子の1人に後に作曲家として知られる ミハイル・グリンカがいた。

フィールドは、サンクトペテルブルクとモスクワとを行き来する生活を続けていたが、1821年、43歳の時にモスクワへ移り住んだ。この後の10年間はアルコールに溺れ身体を壊し、また、直腸癌も患い手術も行った。1831年に癌の治療も兼ねてロンドンを訪れ、1832年から翌年にかけてはパリで過ごした。その後、ベルギースイスイタリアへと演奏旅行を続けるが、体調不良から往時の面影は失せ生活も窮乏、ロシアの貴族 レイマノフ家 の助力でモスクワに戻り1837年に亡くなった。

彼の書いた、それまでの形式にとらわれない単一楽章のピアノ作品、夜想曲(ノクターン)は、ショパンに大きな影響を与え、また、後のメンデルスゾーンシューマンリストグリーグら、ロマン派作曲家の作品の先駆けとなった。また1808年、26歳の時にモスクワで出版したピアノ連弾曲イ短調は、ロシアの民謡を取り入れたものであり、当時としては珍しいものであった。

主な作品[編集]

夜想曲[編集]

  • 第1番 変ホ長調 (1812年)
  • 第2番 ハ短調 (1812年)
  • 第3番 変イ長調 (1812年)
  • 第4番 イ長調 (1817年)
  • 第5番 変ロ長調 (1817年)
  • 第6番 ヘ長調 (1817年)
  • 第7番 ハ長調 (1821年)
  • 第8番 イ長調 (1821年)
  • 第9番 ホ長調 (1816年)
  • 第10番 ホ短調
  • 第11番 変ホ長調 (1833年)
  • 第12番 ト長調 (1834年)
  • 第13番 ニ短調 (1834年)
  • 第14番 ハ長調 (1835年)
  • 第15番 ハ長調 (1834年)
  • 第16番 ヘ長調
  • 第17番 ホ長調 (1832年)
  • 第18番 変ロ長調 「真昼」
    注: これらの番号は出版社により異なっており、一意なものでは無い。第8番と第9番は最初、「ロマンス」の題で発表されたが、後に作曲者自身によって改題された。また、「真昼」は、本来は夜想曲ではなかったが出版社によって「夜想曲」と題されたとされる。フィールドの作曲した夜想曲の正確な数は、はっきりしていない。

ピアノソナタ[編集]

  • 第1番 変ホ長調 Op.1-1(1801年)
  • 第2番 イ長調 Op.1-2(1801年)
  • 第3番 ハ短調 Op.1-3(1801年)
  • 第4番 ロ長調 (1813年)

その他のピアノ独奏曲[編集]

  • ロマンス ハ短調
  • パストラール イ長調 (1816年)
  • パルトラール ホ長調

ピアノ協奏曲[編集]

  • 第1番 変ホ長調 (1799年)
  • 第2番 変イ長調 (1811年)
  • 第3番 変ホ長調 (1811年)
  • 第4番 変ホ長調 (1814年)
  • 第5番 ハ長調 「嵐の中の火事」(1817年)
  • 第6番 ハ長調 (1819年)
  • 第7番 ハ短調 (1822年)