「逝きし世の面影」記事で、例によって主旨のつかみにくい内容だが、貴重な知識が得られる。
赤字部分(当ブログ筆者による強調)は、さすがに宗純氏らしい着眼である。
また、そのすぐ後にある「靖国神社」の意味も、成る程、だ。つまり「日本会議」とは長州同盟でしかないということだろう。いまだに「天皇など玉(操り人形)でしかない」という考えなのだと思う。
(以下引用)
歴史の闇に埋もれた「天誅組」(中山忠光卿の挙兵)
五條市大塔町の誅組天辻本陣跡は、王政復古(明治維新のクーデター)の4年前、明治天皇の叔父にあたる中山忠光卿が大和五条で『尊皇攘夷』の十津川郷士など千数百人を率いて挙兵した天誅組の実質的な終焉の地である。
歴史的意義でも規模的にも新撰組を遥かにしのぐ『天誅組』ですが、なぜか誰も注目しない。
天誅組主将の中山忠光は尊皇攘夷の長州藩の光明寺党の党首として下関戦争に参加し外国船砲撃を行った。ところが部下の久坂玄瑞の名前だけが有名になっている理由ですが、忠光卿は天誅組が壊滅した後に長州に落ち延びたが、亡命先の長州藩に謀殺される。
禁門の変(蛤御門の変)で天皇が住む御所を砲撃した久坂玄瑞は朝敵だったのに軍神として靖国神社に祀られている。ところが、長州に殺された天誅組の中山忠光の名前は何処にも無い。
亀井静香が言うように、今の靖国神社は長州の『氏神様』程度である。到底日本の戦没者を慰霊する神社とはいえないだけではなく、尊王でもないし愛国的でもない)
長州藩の旗印の『尊王攘夷』ですが、政権掌握(王政復古)後には早々と開国に転じたように『攘夷』は真っ赤な嘘だった。これと同じように、『尊王』の方も口から出まかせの嘘八百だったので、本物の『尊皇攘夷』の天誅組とか中山忠光の存在自体が不都合だったである。(幕末に日本を訪れた外交官アーネスト・サトウの日記によれば、徳川将軍と姻戚関係にあり『尊王攘夷』の孝明天皇は長州藩によって暗殺されていたと書いてある)
天誅組の主力となったのが1000人の十津川郷士ですが、十津川は幕府の天領(五条代官所の管轄)で年貢を免除されていたので、『尊皇攘夷』ではあったが討幕派では無かったと言われている。天誅組の本陣跡(旧大塔村の天辻峠)は700年前の後醍醐天皇(南朝)の息子で最有力武将の大塔宮護良親王(もりよししんのう)ゆかりの土地でもあった。(現在の天皇家は北朝方の系列)
『思いきや野田の案山子の梓弓 引きも放たで朽ちはつるとは』長州藩に殺された天誅組の中山忠光卿の辞世の歌とされている
明治天皇の生母中山慶子は中山忠光の姉にあたるので、もしも(ニセ『尊皇攘夷』の)長州藩に暗殺されす(天皇の叔父の)超大物の中山忠光が生き残っていたら明治政府で岩倉具視など下っ端(下級公家)の出る幕はまったくない。
また、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の浩は、忠光の曾孫にあたる。(長州亡命中に中山忠光と親密な関係になったトミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産んだ。その孫の浩は政略結婚でラストエンペラーの弟と結ばれる)
中国の国父である辛亥革命の孫文の号である『中山』は、日本に亡命中の孫文が天誅組の中山忠光にあやかって自分の号を『中山』と命名したと言われている。ところが、肝心の日本国内では中山忠光も天誅組も歴史の闇に埋もれたまま。
★注、これら、すべての不思議の原因は安倍晋三などニセ右翼と長州藩の胡散臭い妄動が影響していた.
一億総『随神の道』(かんながらのみち)で左翼が消滅 \(^o^)/オワタ
日本に来た仏教もキリスト教も古来の『かんながらの道』(ありのままに全て受け入れる)に変質し超越性を失ったが、『生まれながらに尊い人』を認めるとは、『生まれながらに卑しい人』の存在も認めることですよ。★注、自らの教義に反するので仏教徒もキリスト教徒も、もちろん本来は民主主義者も科学者も共産党員も認めては絶対に駄目で、それは棄教とか背信、転向、腐敗堕落の極みである。2019年05月08日 | 政治・外交と天皇制 「お健やかな天皇を願っていません」デンデン安倍晋三
孫崎 享 @magosaki_ukeru 2016-08-10
戦前の右翼中「ゾルレン(あるべし)の天皇」と「ザイン(ある)の天皇」がある。ゾルレンの天皇を守るためザインの天皇を殺していいという考え方が出た」(鈴木邦男氏)。今その考えじゃないか、日本会議、安倍首相の周辺に存在。2018年10月15日 | 政治・外交と天皇制 ゾルレンのためにザインの天皇を殺す偽右翼
躓きの石としての天皇 超克されざる『近代――近代日本のパラドクス』 革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。
右翼とは『失われた理想の過去に立脚して現在に異議を申し立てる』思想や勢力のことで、今の社会問題は、過去の理想的な社会からの逸脱からもたらされたもので、過去に立ち返れば全ては良くなると考えている。
ところが何処まで歴史を遡っても天皇制があるので無条件の現状肯定になる。
現状肯定なら、『右翼』とは呼べないので我が日本国の右翼は全てが、現状肯定を身上とする『保守』を自認する。
世の中を変えようとする、だがうまくいかない
どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする
変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
それで、様は、『美しくしても死ぬときは死ぬ』のだと思い至る
それならば、『美しい国を守る』ために、『潔く死のう』と思う
思考より『美しい死に様』が重視されれば1945年の破滅まで右翼思想は一直線に導いていく。近代日本の右翼思想『つまづきの石としての天皇』が理解出来れば、極右楯の会の三島由紀夫の割腹自殺も『一直線』だったと解る。2008年04月14日 | 政治・外交と天皇制 『近代日本の右翼思想』 つまづきの石としての天皇