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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

インド社会とカースト制度



ヒンドゥー化が急速に進むインドで起きている深刻な問題とは

ライフサイエンス の意見 - 9 時間前
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文庫新刊書『世界の宗教地図 わかる!読み方』からの一部抜粋で、宗教と世界情勢の密接な関係を、わかりやすく紹介していく。今回は、モディ政権が進めるヒンドゥー教による国家統合で、これまで世俗国家として政教分離を原則としていたインドに生じ始めている歪みについて解説する。

ヒンドゥー教で神聖な生き物とされ、街中を堂々と歩く牛 Photo:PIXTA
ヒンドゥー教で神聖な生き物とされ、街中を堂々と歩く牛 Photo:PIXTA© ダイヤモンド・オンライン

モディ政権下のインドで

ヒンドゥー化が進む

 インドのめざましい経済発展はニュースでもよく取り上げられる。コロナ禍を経て、GDP成長率はコロナ前の水準を上回るまでに戻っている。こうした高成長を牽引するのが、2014年の下院総選挙でインド人民党(BJP)が大勝し、発足したモディ政権だ。

 実は、与党となったBJPは、ヒンドゥー教至上主義を掲げ、ヒンドゥー教による国家統合を目指している。だが、そもそもインドは世俗国家だ。政教分離を大原則として、多様性を国の根本に据えている。にもかかわらず、モディ政権下でヒンドゥー色の強い政策が次々と推し進められ、多様性が揺らぐ状況が生まれている。

 ヒンドゥー化を可能にしているのが、圧倒的多数を占めるヒンドゥー教徒の支持。国民の約8割、10億人を超える人数である。

 インドは仏教発祥の地だが、ヒンドゥー教やイスラム教の勢力拡大で13世紀頃までには壊滅状態となった。仏教徒が改宗させられ、最下層カーストの不可触民とされた歴史もある。解放運動が高まり、インド独立後に不可触民数十万人が仏教に改宗し、現在も仏教徒の多くがこの流れを汲むが、人口の1%に満たず、キリスト教徒、シク教徒よりも少ない。

イスラム教徒への弾圧が進む

ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭

本コラムの元本『世界の宗教地図 わかる!読み方』
本コラムの元本『世界の宗教地図 わかる!読み方』© ダイヤモンド・オンライン

 現在、問題となっているのはイスラム教徒への弾圧である。イスラム教徒は国民の14%超で、人数にすると2億人近い。にもかかわらず、モディ政権は憲法を改正し、インドで唯一イスラム教徒が多数派を占めるカシミール地方の自治権をはく奪してしまった。

 これを皮切りに、州レベルのイスラム教徒への弾圧が続く。イスラム教徒は豚は不浄として食べないが、牛は食べる。一方、ヒンドゥー教では牛は神聖視され、道路を悠然と闊歩する姿もよく見られる。

 ヒンドゥー教徒は19世紀の頃から牛の保護運動を展開してきた。

 そして近年、牛のと殺と牛肉の販売を禁ずる法律を各州が続々と施行。最高裁が牛肉禁止法は無効との判断を出した後も、「食用、取引はよしとしても、と殺は禁止」といった法律が存続している。

 過激派ヒンドゥー教徒が、牛肉を扱うイスラム教徒を暴行する事件も頻発している。2020年以降も、過激派ヒンドゥー教徒がモスクとイスラム教徒を襲撃する事件は相次いでおり、ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭を不安視する声があがっている。

「カースト」に縛られない職業として

優秀な若者たちがIT業界を志す

 インドの経済成長の牽引役のひとつになっているのがIT産業だ。IT産業勃興の背景には、ヒンドゥー教のカースト制度を乗り越えようとする若者たちの強い上昇志向がある。

 カースト制度では、4つの身分に加え、どんな職業につくかを定める事細かな分類がある。その数は2000~3000種類もあるといわれ、驚くほど細分化されている。

 カースト制度は世襲であるため、代々それが受け継がれる。個人に選択の余地はなく、資質や能力にかかわらず、はじめから職業が決められているのだ。

 優秀な若者たちがIT業界を志すのは、新しい業界ゆえにカーストの縛りがないことが大きい。そのため、中下層カーストの人々にとって固定化した社会の階段を駆け上がるチャンスもあるのだ。

 インド工科大学には、IT業界を目指す若者がインド各地から集まってくる。抜群のレベルの高さを誇り、世界的に見ても最難関の高等教育機関のひとつとされる。卒業後は渡米して大学院に進み、そのまま米国のIT業界に入る人も多い。

 彼らがめきめきと頭角を現し、近年ではグーグル、マイクロソフト、IBM、アドビ、ツイッターなど米国のIT大手でインド出身者のCEO(最高経営責任者)が続々と誕生している。そしてインド出身のハイテク人材のネットワークが、世界に張り巡らされている。

ヒンドゥー教社会のカースト制
ヒンドゥー教社会のカースト制© ダイヤモンド・オンライン

経済格差が固定化され

経済成長の妨げとなる懸念も

 インドでは1950年にカースト制度による差別が憲法で禁止された。しかし、それはカースト制度そのものを禁ずるものではない。ヒンドゥー教の信仰と密接に結びついて切り離せないうえ、ヒンドゥー教徒は国民の約8割という圧倒的多数を占め、モディ首相のもと、ヒンドゥー色は強まる一方だ。

 これまでは、カースト制度があるからこそ下層階級の人々も職につき、低賃金ながら稼ぐことができるプラス面があるともいわれた。だが、それでは激しい経済格差は固定化されたままで、貧困にあえぐ人々は救われない。細かく仕事を分ける制度ではマイナス面も多く、経済成長の妨げになっているという意見も多い。カーストの縛りから脱するため、あえて仏教やキリスト教に改宗する人も増えている。

 一方では、ヒンドゥー教には優秀な子どもを積極的に援助するさまざまな仕組みもある。カースト枠外の最下層ダリットから大統領になった人物は二人おり、モディ首相も駅でチャイを売る下層カースト出身といわれる。インドのさらなる発展に向けての模索も続いている。

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エロチシズム論

三島由紀夫の文学論「ジョルジュ・バタイユ『エロチシズム』」の冒頭部分だけ読んだのだが、そこに書いてあるバタイユとやらのエロチシズム論が不可解なので、考察ネタにしてみる。

とりあえず、「エロチシズム」という、言葉だけはよく聞くが定義の曖昧な言葉の私流の定義からしておく。それは「性的欲望を喚起する物象や言語表現によって喚起され高揚した、性欲を含む複合的感情」としておく。つまり、基本は性欲だが、性欲だけではなく、或る種の神秘感や美感がそこには存在する、と言えるのではないか。たとえば、自分の母親や姉妹の全裸を見た時に、相手を犯したいという性欲を感じる人もいるだろうが、普通の性欲とは言えない或る強烈な感情を生じる人もいるだろう。それは、近親相姦というタブーによって、より激烈化しつつ隠れた性欲であり、葛藤であり、苦悩なのではないか。しかも、そこには或る種の美感すらあるかもしれない。
まあ、分かったような、偉そうなことを書いているが、私は男の性欲など射精すれば終わりという思想であり、恋愛と性欲はまったく別だと考えている。そして、エロチシズムというものもよく分かっていない。だが、それを「性欲と同じ」とするのは違う気がする。まあ、美的概念のひとつでもあるだろうが、裸=エロではない。勃起した男を見て女性が美的と思うとは思えない。あんな無様な姿はない。映画やアニメのラブシーンでも男の勃起したペニスは見せないし描かないものである。
ここで、三島由紀夫が紹介しているバタイユの「エロチシズム論」の概要を書いておく。
三島の文章をさらに私が簡略化しておく。

1:生の本質は非連続性にある。
2:個体分裂によって個々の非連続性が始まる。
3:個々の個体において生殖の瞬間にのみ連続性の幻影が垣間見られる。
4:しかし、存在の連続性とは死である。
5:ゆえにエロチシズムと死は固く相結んでいる。
6:エロチシズムとは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。
7:それはまた、「われわれ限定された個人の非連続性の秩序を確立する規則的生活、社会生活の形態の解体」である。
8:ここに性愛と犠牲の近似点があり、犠牲が裸にされることがこうした解体の第一歩であり、殺されることがその完成である。
9:なぜなら、犠牲の死によって、人々は存在の連続性の明証を見るからであり、それがすなわち神聖感の根拠である。
10:エロチシズムには三つの形態があり、「肉体のエロチシズム」「心のエロチシズム」「神聖なエロチシズム」である。

さて、理解できただろうか? もちろん、私には理解できないのだが、理解に努めてみよう。

1はそのままだと極論だが、「個人の生の本質は、両親から切り離された存在であるという非連続性にある」とでも言えば納得できるだろうか。そこに人間の生の孤独の出発点もある。
2は、私が上の説明で言ったことと同じだろう。
3も、「生殖」とは祖先から子孫に続く、「血(遺伝子)の連続性」を確立する手段だから、そこには「連続性」が幻想されるわけだ。もちろん、それが「避妊」という壁をはさんでいても、性交という行為自体によって、連続性の幻想は生じるのである。
4が一番難解であり、論理性が無いように思える。そこにどういう論理を持ってきたらいいのだろうか。1で見たように、生の本質は非連続性である、というのは良しとしよう。としたら、形式論理としては、生の反対物である死の本質は連続性である、となるわけだろうか。しかし、死の本質が連続性だ、と聞いて頷く人はほとんどいないと思う。死とはまさに生の断絶であり、究極の非連続性だと誰でも思うだろうからだ。まあ、とりあえず、個人の死ではなく、種としての死を問題とするなら、個体の死は生殖の前提条件であり、個体に死がなければ生殖の必要性も無いわけである。つまり、(個体の)死は種としての連続性の前提条件となる。これを乱暴にかつ断定的に言ったのが「存在の連続性とは死である」という言葉だ、と解釈しておく。
5は、4が同意できたら即座に了解されるだろう。
6も、5と同様に4への同意で了解されるだろう。
7も、同様に4への同意で了解されるかと思うが、わかりやすく言えば、セックスをしている時に会社や仕事のことを考える馬鹿はいない、ということだ。
8は、まあ、どうでもいい話だと思う。犠牲がどうこうという人類学的問題に関心が無い人間には意味を持たないことだ。性愛と犠牲が近似している、というのは「それはあなたの意見ですよね」と言っておく。だからどうなの、という話だ。
9は、4への同意から了解されるだろう。要するに、「存在の連続性とは死である」という、奇抜な逆説への同意があるかないかで、4以降の論への同意・不同意が決まる。
10もどうでもいい話で、だから何なの、である。エロチシズムを御大層なものとするために「神聖なエロチシズム」をくっつけただけで、エロチシズムに心のエロチシズムと肉体のエロチシズムがあるのは馬鹿でも分かる。むしろ、エロチシズムとは肉体ではなく心の問題だ、とするのが私は正解だと思う。






人間五十年

私はいつも、織田信長の幸若舞で「人間(にんげん)五十年」と謡うドラマを見ていて、「これ人間(じんかん)の間違いじゃないか」と思っていたが、「にんげん」という読み方も昔からあるようだ。むしろ、呉音は漢音より早いのか? もちろん、「ひと」の意味で「人間」を使うのは明治以降だと思うが、幸若舞の「人間」は「人の世」の意味で通じる。人の世とは、生まれた人が生きる場所と時間でもあるからだ。



人間/にんげん

意味

人間とは、ひと。人類。人柄。人物。

人間の語源・由来

人間は、仏教語でサンスクリット語「mamusya」の漢訳。
仏教語としての「人間」は、「世の中」「世間」「人の世」を意味した言葉で、「人間」に「」そのもの意味が加わったのは江戸時代以降である。

「人間」を「にんげん」と読むのは呉音。
漢音では「じんかん」と読む。
一般に「人」を表す場合は「にんげん」、「世の中」の意味で用いる場合は「じんかん」と読み分けられることが多いが、この読み分けに特別な理由は無く、「世の中」の意味で「にんげん」と読んでも間違いではない。

宇宙空間で何秒生存可能か

国際宇宙ステーション(ISS)などに搭乗する宇宙飛行士は、宇宙飛行の間ずっと船内にとどまっているわけではなく、時には宇宙空間に出て船外活動を行う場合もあります。そんな場合に着用するのが宇宙空間で安全に生存・活動することを可能にする宇宙服ですが、「宇宙服を着ていない状態で宇宙空間に放り出されたら人間はどうなるのか?」という疑問について、サイエンス系メディアのZME Scienceが解説しています。




広くささやかれている説の中には、「生身で宇宙空間に放り出されると人間の体は爆発する」「宇宙空間では一瞬にして血液が沸騰し、蒸発して死亡する」といったものがあります。また、そういったシーンを描いたSF映画もありますが、実際に宇宙服を着ない状態で宇宙空間に飛び出してしまったとしても、人間の体が爆発したり血液が沸騰したりはしないそうです。



普段の生活で意識することはほとんどないものの、地球で暮らす人間の体は常に大気圧で押されており、体内の圧力がそれを押し返すことでバランスを保っています。しかし、宇宙空間は真空状態であることから、地球上では当たり前に存在する大気圧が存在しません。そのため、宇宙空間へ宇宙服などの保護なしで飛び出すと、急激な減圧状態に陥ります。

「宇宙空間に飛び出すと人間の体が爆発する」という説は、この急激な減圧によって連想されたものです。しかし、ZME Scienceによると人間の皮膚は非常に柔軟かつ丈夫であるため、大事な組織や臓器をこぼすことなく減圧にしたがって膨張できるとのこと。

だからといって急激な減圧による影響は小さなものではなく、組織内の水分が急激に蒸発することで体が膨張する苦しみや、腸内の空気が膨張することによる心臓や横隔膜の圧迫、減圧症などを引き起こします。加えて、肺から急激に空気が抜けることにより、肺や気道の組織に損傷が生じる可能性もあるそうです。


生身で宇宙空間に飛び出した人間を直接的に死に至らしめるのは、酸素の欠乏だといわれています。とはいえ、宇宙空間に飛び出した際に酸素を少しでも使わないようにと考え、息を止めることは「実行できる限り最悪の行動」だとのこと。宇宙空間で息を止めると空気の泡が血中に入り込んで脳に到達して脳卒中を引き起こすか、圧力の変化に伴って肺が破裂してしまうそうです。

しかし、たとえ息を止めなかったとしても酸素はすぐに不足してしまいます。運がよければ宇宙空間に出てからも15秒程度は意識がある可能性があるとのことですが、それ以降は意識を失い、2分ほどで全身の臓器が酸素不足になって死に至ります。


過去にはいくつかの「真空あるいは急激な減圧にさらされてしまった事故」の事例があります。1965年にジョンソン宇宙センターで発生した事故では、真空チェンバー内に入った技術者が誤って減圧してしまい、12~15秒ほどで意識を失ったとのこと。27秒後に真空チェンバー内が再加圧され、この技術者は意識を取り戻し、事故後4日ほどは味覚を喪失したものの無事に回復したそうです。1982年の事故では、技術者が大気圧のわずか3.6%に相当する低圧環境に1分間さらされてしまい、肌が青くなって肺から出血するなどの事態に陥りました。この男性も、事故後に無事回復したそうです。

また、ISSが太陽に面している時の外部温度はおよそ121度、太陽が地球にさえぎられている時の外部温度はおよそマイナス157度であるため、宇宙空間では「温度」も人間の生命を脅かすものに思えます。しかし、宇宙には空気がないため、人体に空気を通して熱が伝わったり、対流によって熱が伝達されたりすることもありません。宇宙空間で熱が伝わる唯一の方法は放射しかありませんが、放射で熱が伝わるには時間がかかるため、熱によって死ぬ前に酸素の欠乏で死亡するだろうと、ZME Scienceは指摘しました。

「標高」と「海抜」の違い

これは疑問にすら思ったことが無かった。

(以下引用)

「標高」と「海抜」はどう違う?

オピニオン 昨日 20:15
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高さを表す基準の「標高」と「海抜」。どちらもよく見かけるものですが、2つの意味は少々異なります。「標高〇m」などと書かれた看板は意外とたくさん立っています。

(画像=dメニューマネー編集部)
(画像=dメニューマネー編集部)© 「標高」と「海抜」はどう違う?

高さの表示は山の頂上ではもちろん、道路沿いや公共施設でも見かけますが、「標高」や「海抜」の表記は場所によって異なるようです。紛らわしい2つの言葉ですが、どのように違うか分かりますか?

■同じ場所で「標高」と「海抜」が異なると混乱を招いてしまう

「標高」とは、東京湾の平均海面を0mの基準面として、基準面から測った高さのことです。国土交通省の付属機関である国土地理院では、日本の土地を「標高」で表します。標高は広く使われる基準ですが、実際に海面から測量するのは実用的ではありません。

そこで1891年に国内の高さの基準となる「日本水準原点」が、東京都千代田区永田町に設置されました。その後、関東大震災による地殻変動の後と、東北地方太平洋沖地震による地殻変動の後に、水準原点の高さは改定されました。

日本には全国に2万点あまりの水準点が設置されており、標高を測る際の基準になっています。

本来の「海抜」とは、近隣の海面を0mの基準面として、基準面から測った高さのことです。ただ標高と海抜が異なると混乱を招くので、一般的には海抜を表示するときにも東京湾を基準にしています。

東日本大震災以降、国土交通省では津波被害を軽減するための取り組みとして、道路上に海抜情報を表示するよう推進してきました。表示シートの寸法は縦30cm、設置高さは視界に入りやすい1.5m程度とされています。

防災関連では津波を意識するために「海抜」が使われます。

■解答:「標高と海抜」の違いとは……

「標高」とは東京湾の海面から測った高さのことで、「海抜」とは近隣の海面から測った高さのことです。実務的にはどちらも同じ数字になります。

文/編集・dメニューマネー編集部

(2022年3月12日公開記事)