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青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳
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この機会に韓国読者向けに内田先生が考えていらっしゃる「街場」という言葉の意味あいを教えていただければ幸いです。
内田 こんにちは。今回は「街場」の意味ですね。ううむ、これは僕に訊かれても困るんです。というのは、この言葉を最初に僕の書き物のために選んだのは江弘毅さんという編集者だからです。2002年か3年に、彼が当時編集長をしていた関西の情報誌『Meets Regional』に連載コラムを寄稿することになりました。そのときに彼がつけたタイトルが「街場の現代思想」でした。かっこいいタイトルをつけるなと感心しました。「街場」というのは江さんの愛用する言葉でした。
たぶん江さんは知識人と市井の人が行き交う空間のことを「街場」と呼んでいたのだと思います。そして、編集者の仕事は、知識人の専門的知見を噛み砕いて市井に伝え、同時に生活者のリアルな実感を学術の世界に繰り込むことである、と。そういう力動的な往還の場を創り出すことが編集者の仕事だと思っていた。そのような場においてのみ「生きた言葉」は生まれるはずだと思っていた。
その通りだと思います。生活者の実感が「空疎」だとみなしたものは、学術的にどれほど厳密であっても、現実を変成する力を持ちません。逆に、世界のどこでも通用するような汎通的な知の層に達し得ない生活実感は、結局そのごく狭い地域的限界から出ることができない。
同じことを裏返して言えば、生活者がほんとうに自分の生活にしっかり根を下ろしていれば、学術的に汎用性の高い知見に触れたときに、それが初めて聴く言葉でも決して「空疎」だとは感じないはずです。また、生活者が(言語や親族や交換について)いのちがけで守ろうとする倫理や規矩があるとすれば、それはどこかで「暗黙知の次元」に通じている。そういうことです。
江さんと最初にお会いしたころ、よく「ウチダ先生の話は街場でも通りますわ」という言い方をしてくれました。「街場でも通る」というのは、江さんの「最高のほめ言葉」でした。僕はそう言ってもらったことをとてもうれしく思いました。そして、自分のいるべき場所はそこだと確信しました。
『寝ながら学べる構造主義』というのが、僕の「街場的」な書き物のデビュー作でした。レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、バルトらフランスの構造主義者たちの知見を、日本の高校生でもわかるように噛み砕いて説明したものです。「こういうもの」が絶対に必要だということについては確信がありました。それまでなかったからです。それまで書かれた構造主義の入門書は、学者が「素人相手」に、話をはしょって、ざっと概説するという感じのもので、どこかに読者を見下したところがありました。事実、そういうタイプの本のことを学者たちは平気で「啓蒙書」と呼んでいましたから。「啓蒙」って「蒙を啓く」(愚鈍な人間を開化する)という意味ですからね。すごいです。
僕はそういうものを書く気はありませんでした。高校生でも、彼らが生活者としてしっかり根をおろしていれば、構造主義の本質的なところは理解できるはずだと思っていました。だって、それは言語と親族と交換についての深い知見だったからです。
高校生だって、言語を操るし、家族とともに生きているし、経済活動にかかわっています。素材は彼ら自身の経験のなかに豊かに存在する。ふだん、ふとした機会に「生きた言葉」と「死んだ言葉」の違いがあることに気づいたり、家族であるというのはある種の「役割演技」をすることだと気づいたり、贈り物をもらったあとに何も「お返し」をしないと気持ちが片づかないとしたら、彼らは「人類の暗黙知」にアクセスする回路にすでに手が届いていることになります。だったら、別に「啓蒙」する必要なんかない。高校生自身がおのれの生活実感の深層に向けて垂直に掘ってゆけばよい。そのための作業の指針になるものを書きたいと思っていました。
たぶん、そういうふうに読者の主体的なコミットメントを「当てにして」本を書く学者というのがあまりいなかったということなんだと思います。僕は読者の知性を信頼して書くべきだと思っていました。それは教育者としての経験がもたらした確信でした。子どもを大人にしたければ、大人として扱う。学生たちに知的に成長して欲しかったら、すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。子どもたちは自分に向けられた「敬意」を決して見逃すことはないからです。
「敬意」というのは「愛情」よりも「信頼」よりも、はるかに伝達力の強いメッセージです。若い人たちが最も敏感に反応してくれて、こちらの意図を過たず受信してくれるのは「敬意」です。だったら、読者の知性にきちんと敬意を払えば、先方は「受信する構え」をとってくれる。そうすれば「書き手と読み手の間の回路」が形成される。「回路」さえ通れば、あとはそこに情報を流せばいい。
コミュニケーションには、メッセージとメッセージの読解の仕方を指示するメタ・メッセージの二層があります。「これから私が語るのは、あなたたちが十分に知的に成熟していることを前提にしている」というのは、読解の仕方を指示するメタ・メッセージです。そのメタ・メッセージを読者が過たず受信してくれれば、コミュニケーションの回路は立ち上がる。
江さんは『寝ながら学べる構造主義』を読んで、この僕のスタンスを理解して、「街場の思想家」に認定してくれたのだと思います。それから後僕は「街場の」というタイトルがついた本をたぶん20冊くらい出しています。自分でつけたわけではなくて、どれも編集者がつけたものです。たぶんすごく使い勝手のよいタイトルなのだと思います。でも、「街場の」をタイトルに使った本を書いているのは、いまのところ日本では僕一人のようです。学者と生活者の間を「架橋する」という仕事が好きでたまらないという人がそれほど多くはいないということなのかも知れません。でも、実に楽しい仕事なんですけれどね。
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トゥキュディデスの罠(トゥキュディデスのわな、英: Thucydides Trap)とは、古代アテナイの歴史家トゥキュディデスにちなむ言葉で、従来の覇権国家と台頭する新興国家が、戦争が不可避な状態にまで衝突する現象を指す。アメリカ合衆国の政治学者グレアム・アリソンが作った造語[1]。
この概念は、紀元前431年にアテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発したのは、スパルタがアテネの勢力拡大を恐れていたからであるという、古代アテネの歴史家であり軍事将軍であったトゥキュディデスの示唆に由来する。
しかし、この研究はかなりの批判を浴びており、トゥキュディデスの罠の概念の価値、特に米国と中国の間の潜在的な軍事衝突に関連するものについての学者の意見は分かれたままである。
紀元前5世紀のスパルタとアテナイによる構造的な緊張関係に言及したと伝えられる(英文訳:“It was the rise of Athens, and the fear that this inspired in Sparta, that made war inevitable.” 和訳:「戦争を不可避なものにした原因は、アテネの台頭と、それが引き起こしたスパルタの恐怖心にあった。」)[2]。
古代ギリシャ当時、海上交易をおさえる経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握るスパルタとの間で対立が生じ、長年にわたる戦争(ペロポネソス戦争)が勃発した。
転じて、急速に台頭する大国が既成の支配的な大国とライバル関係に発展する際、それぞれの立場を巡って摩擦が起こり、お互いに望まない直接的な抗争に及ぶ様子を表現した言葉である。現在では、国際社会のトップにいる国はその地位を守るため現状維持を望み、台頭する国はトップにいる国に潰されることを懸念し、既存の国際ルールを自分に都合が良いように変えようとするパワー・ゲームの中で、軍事的な争いに発展しがちな現象を指す[3]。
この用語とそれにまつわる議論は、国際メディア(中国国営メディアを含む)やアメリカや中国の政治家の間で影響力を持った。国防大学の軍事研究部門である国家戦略研究所が発表したアラン・グリーリー・ミゼンハイマーによるこの用語の事例研究では、「国際関係の辞書に入って以来、世界的な注目を集めている」と述べられている。 外交政策学者のハル・ブランズとマイケル・ベックリーは、トゥキュディデスの罠は「正典となった」と述べ、「今や米中対立を説明する際に、何度も何度も繰り返される定説」と述べている。さらに、BBCの外交特派員ジョナサン・マーカスは、トゥキュディデスの罠を拡大解釈したグラハム・アリソンの著書『Destined For War』は、「多くの政策立案者、学者、ジャーナリストの必読書となった」と評している。
この言葉は主に、米国と中華人民共和国の軍事衝突の可能性に関連して使われた造語である。中国の指導者であり中国共産党の総書記である習近平はこの言葉に言及し、「トゥキディデスの罠を避けるために、われわれ全員が協力する必要がある」と警告した。「ドナルド・トランプ米大統領が中国の対米輸出のほぼ半分に関税を課し、貿易戦争に発展した後、米中間の緊張が高まった結果、この言葉は2018年にさらに影響力を増した。
欧米の学者たちは、西側諸国が支持する台湾の事実上の独立の継続、中国のデジタル・ポリスとサイバー・スパイ活動の利用、北朝鮮に対する政策の違い、太平洋における中国の海軍存在感向上と南シナ海での主張、新疆ウイグル自治区、チベット、香港における人権問題など、2つの大国がトゥキディデスの罠に陥る可能性を高める、両国が対立する差し迫った問題が数多くあると指摘している。 また、習近平による権力強化、和解しがたい価値観の相違、貿易赤字を、両国がトゥキディデスの罠にはまりつつあるさらなる証拠として指摘する向きもある。