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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

賃貸派VS持ち家派論争

「東海アマ」ブログ内の引用記事を孫引き引用する。冒頭の一句はアマ氏のもの。
一言言っておけば、この種の論争で「賃貸派」は、不動産会社がバックにいると思う。不動産会社は住民の転居で金儲けをするからだ。持ち家で儲けるのは建設会社である。不動産会社とは別存在だ。
住居が持ち家であることによるストレス軽減は、私が保障する。まあ、何の保障にもならないが、持ち家でも、売って引っ越すことはできる。私の女房はその達人で、持ち家を(子供の進学に合わせて)何回も売っているが、その度に前より高い値段で売っている。つまり、買う側は、築何年とかいうより、家の状態で判断するから、適切に保全し、適宜補修(リフォーム)していれば、価値はさほど下がらないのである。ちなみに、私が今住んでいる家は築60年近いが、まったく不便はなく、庭付きで窓の外の景色が良く、快適な住居である。(ただし、これは女房の田舎の実家である)
下記記事の前のほうに、アマ氏が賃貸住宅の家賃値上げで音を上げて(笑)山間の田舎(ほとんど僻地)に引っ越した話が書かれていて、賃貸住宅にはその種の危険性がある、という意味で先にその部分を(アマ氏の顔が青くなるような事態だっただろうからww)青字にして載せておく。

私は、25歳から50歳まで25年間、名古屋市内の住宅公団アパートに住んでいた。
 名古屋駅から徒歩10分という便利快適な環境で、目の前に地下鉄の駅があった。
 たぶん、全国でも有数の利便住宅で、家賃は2~2.5万円程度の1LDKだった。

 ところが、2000年頃から住宅公団に汚職が頻発したことがきっかけで、構造改革という名目で、さまざまな見直しが行われ、家賃も見直され、私が住んでいた住宅は「高度利便住宅」と札がつけられ、家賃が一気に二倍以上になることになった。
 緩和措置とかで、2年程度かけて段階的に上がってゆくのだが、じわじわ上がる家賃の恐怖に怯え、山が好きだった私は、なんとかして中津川地方の田舎に住みたいと願っていた。


(以下引用)

 さて、今回は、週刊現代の面白い記事を見つけたので紹介する。

 2024.01.20 「賃貸住宅に住むと早死にする」…!名門大学が研究論文で明かした衝撃の理由とは 「持ち家vs賃貸」論争
 https://gendai.media/articles/-/122820

 「家賃の支払い」が大きなストレスに ベイカー教授が総括する。
 「我々の研究は『老化と住宅環境の関係』について調査する目的のものであり、『なぜ賃貸が老化を早めるのか』について明らかにするものではありません。
 ただそれでも、1400人以上の協力者から得たデータを分析すると、賃貸住宅が老化を早める要因は見えてきました。

 老化に大きく影響を及ぼしていると考えられるのは、賃貸住宅における『毎月の賃料の支払い』に対するストレスです。
 同じく、予想外の賃料の上昇や契約延長ができるかどうかの不安などもストレスとなっていると見られ、老化を早めている可能性が高い」

 実際、長期的なストレスが老化の原因となることは、医学的にも証明されているという。高齢者医療に従事する医療法人「新穂会」理事長の都外川新氏が語る。

 「ストレスが慢性的に続くと、栄養の吸収や老廃物の排出に支障をきたすほか、細胞の変異や死滅が起きます。これがいわゆる老化です。住まいというのは生活のなかで最も身を置く時間が長い場所であるわけですから、当然、住居の問題によって生じるストレスは大きいと考えられます」

 喫煙による健康被害よりも失業によるショックよりも、賃貸に住んでいるストレスのほうが早死にする……。
 この研究結果を受けてにわかに勢いづくのは、もちろん、「持ち家派」の論客たちだ。

 「賃貸派」が猛然と反論
 『持ち家が正解! 賃貸vs.購入論争 データを見れば答えは出ている』などの著書がある麗澤大学未来工学研究センター教授の宗健氏が語る。

 「健康に関しては、やはり持ち家のほうが優れていると言えます。特に高齢者の場合は、室温の変化によって血圧が上下し、心臓や血管の疾患が起こる『ヒートショック』が寿命に影響すると言われています。持ち家や分譲マンションであれば、断熱やバリアフリーなど、リフォームも容易にできます。

 また、持ち家の場合は、ローンが終わっていれば心理的な安心感につながります。賃貸派は簡単に引っ越せるメリットを主張しますが、高齢者にとって引っ越し作業や慣れ親しんだ家や街から離れるというのは大変なこと。人生を過ごした思い出とともに、愛着のある家に暮らすということは、健康維持にとって何より重要なのです」

 長年、持ち家のメリットといえば資産になることが挙げられてきた。それにくわえて長生きまでできると言われてしまえば、もはや「賃貸派」に打つ手はなしか……。
 だが、長きにわたって続いてきた論争は、そう簡単に終止符が打たれるものではない。

 「賃貸派」として知られる経営コンサルタントの日沖健氏が、猛然と反論する。
 「そもそも、このアデレード大の研究はイギリスのデータをもとにしたものであり、日本とは住宅事情が違うのではないでしょうか。地震の少ないイギリスでは築年数を重ねた賃貸物件も多く、なかにはエアコンがついていないケースもある。
 一方、日本では賃料の安いアパートであっても、ほとんどがエアコンを完備しています。またイギリスと日本の比較をした場合、治安にも差があるはずです」

 それ以外にも、イギリスでは近年、賃貸物件の賃料が高騰し続けているという問題もある。慢性的な住宅不足により、昨年の首都・ロンドンにおける平均賃料は月々約47万円。こんな状況では、「毎月の支払い」がストレスになるのは当たり前だというのだ。

 日本ならではの「不安」も 日沖氏が続ける。
 「日本でマンションを買えば、管理費や修繕積立費などの維持費もかかります。地震大国である日本では、一軒家であっても古い家であれば耐震基準などの不安も出てくるでしょう。いずれも、ストレスという意味では同じではないでしょうか。それぞれのライフステージにあわせて最適な住宅を選択できる賃貸のほうが、日本においてはむしろ精神的安定が保てると思います」

 住宅ジャーナリストの榊淳司氏もまた、日本ならではの不安はある、と主張する。
 「日本では現在、不動産バブルともいえる状況が続いています。私は職業柄、さまざまな住宅に関する相談を受けていますが、ここ数年でマンションを購入した人のなかには、『いつ自宅の資産価値が下落してしまうか、不安で仕方がない』という人も数多くいます。

 なかには、引っ越しするつもりがないのにもかかわらず、近隣にできた新築マンションの内見を繰り返し、相場チェックに余念がない人までいる。現在の日本の状況では、資産価値の下落に対する恐怖も、十分ストレスになっていると言えるかもしれません」

 アデレード大の研究をうけ、むしろ激しさを増す賃貸・持ち家論争。どうやら結論を出すのは容易ではなさそうだが、いずれにせよ、老化を早めないために重要なのは、住宅環境に対するストレスを軽減することだ。

 前出のベイカー教授はこうアドバイスを送る。
 「賃貸であっても、たとえばペットを飼っている人は老化が遅くなる傾向があります。また、賃貸期間が短期から長期に変わった人も同様にストレスが軽減している。借り手の権利が守られることで不安が解消され、老化スピードを遅くすることは間違いありません。

 オーストラリアでは、政府が賃貸住宅の借り手に対しさまざまな保護を行っており、それがストレス軽減につながっている。我々の論文が、世界各国で住宅環境見直しのための一助になれば望ましいですね」

 アデレード大の論文はインターネット上にも公開されている。住宅環境の見直しを考えている人は、ひとつの参考としてみてはいかがだろうか。
 「週刊現代」2024年1月13・20日合併号より
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 引用以上
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「正しい歩き方」の問題

「隠居爺の世迷言」記事の一部で、たいていの人にはどうでもいいだろう「歩き方」の話だが、私は昔から「正しい歩き方」はどういうものなのか、興味を持っていて、実際、正しい歩き方をしなかったために膝に軽い故障がある。子供のころに読んだ昔の漫画に、プロ野球の米田投手は内股で歩く、と書かれていたので、それが彼の投手寿命の長さの原因だろうと思って真似したためである。つまり、わざわざ膝関節を不自然に使っていたわけだ。現在は、むしろ、外またのほうが人間、特に日本人の骨格から見て自然だ、と思っている。
で、下の記事のように、「膝を先に出す」というのも、膝関節保護のためには正解ではないか、と思う。もちろん、ほんの数ミリの話だ。漫画の「るきさん」(高野文子)ほど極端な歩き方ではない。しかし、膝関節保護のためには、数ミリほど膝を曲げた状態で歩く、あるいはその状態で足を着地させるのが正解ではないかと思う。それによって、踵だけで着地するのではなく、足裏全体がほとんど同時に着地し、それも着地のショックを軽減するのではないか。足全体をまっすぐにして歩くのは欧米人っぽくて、あるいはファッションモデルみたいで恰好いいかもしれないが、O脚気味の日本人には不向きだろう。

(以下引用)

 歩くことは私にとって長年の課題になっていて、今でも試行錯誤が続いています。特に不自由を感じることはないのですが、歩いていてどこかおかしいと感じるのが理由になります。うまく歩けている気がしなくて、不全感がつきまといます。

 そのために、ジョギングに精を出したこともありまして、終いにはフルマラソンにも1回だけ挑戦しました。毎週末に20km走ってみたり、毎朝5km走ってみたり。でもそのようなことでは解決しませんでした。筋力の問題ではなく、歩き方の問題だったようです。

 このブログのコメントで、「足の親指と人差し指に輪ゴムをクロスして掛けるといい」というヒントもいただいて試してみました。その頃から少しずつ良くなってきたようです。最近気をつけているのは、歩くときに膝から足を出すということ。結局のところは腿を上げて歩くということなのですが、腿を上げろといわれても上がるものではないですね。ところが膝を前、あるいは「前方やや上に出す」ように意識すると比較的スムーズです。

 しかし面白いですねえ、うまく歩けなくなるなんて。これは老化という一言で済ませられるものではなくて、バランスの崩れのような気がしています。筋力、俊敏さ、基礎代謝、体重などいろいろなものが変化してきて、若いときと同じ感覚ではうまく歩けなくなるように思います。私の場合、走ることはできても上手く歩けないという感覚だったのでこのような解釈になります。

 結局、赤ちゃんのように、一から歩き方を憶えないとダメみたい。それで自分の体のバランスにあった歩き方を見つけるということかな。長距離歩けばいい、長時間歩いて訓練すればいいという問題ではなく、歩く方法の問題になります。

街場と市井

内田樹の「専用文句」みたいになっている「街場」という言葉について内田自身が説明しているので、メモしておく。私自身は、国語辞書にも載っていない(だろう)この「街場」という言葉が大嫌いで、そういう言葉を使う内田樹にも偏見を持っている。「街中」「市井」という、まったく同義のちゃんとした日本語があるからだ。ついでながら、「市井」は「しせい」と読む。この言葉は大衆小説で「山本周五郎の市井物」のように使う。武士の話ではなく町人の話ということだ。

(以下引用)


 この機会に韓国読者向けに内田先生が考えていらっしゃる「街場」という言葉の意味あいを教えていただければ幸いです。

内田 こんにちは。今回は「街場」の意味ですね。ううむ、これは僕に訊かれても困るんです。というのは、この言葉を最初に僕の書き物のために選んだのは江弘毅さんという編集者だからです。2002年か3年に、彼が当時編集長をしていた関西の情報誌『Meets Regional』に連載コラムを寄稿することになりました。そのときに彼がつけたタイトルが「街場の現代思想」でした。かっこいいタイトルをつけるなと感心しました。「街場」というのは江さんの愛用する言葉でした。
 たぶん江さんは知識人と市井の人が行き交う空間のことを「街場」と呼んでいたのだと思います。そして、編集者の仕事は、知識人の専門的知見を噛み砕いて市井に伝え、同時に生活者のリアルな実感を学術の世界に繰り込むことである、と。そういう力動的な往還の場を創り出すことが編集者の仕事だと思っていた。そのような場においてのみ「生きた言葉」は生まれるはずだと思っていた。
 その通りだと思います。生活者の実感が「空疎」だとみなしたものは、学術的にどれほど厳密であっても、現実を変成する力を持ちません。逆に、世界のどこでも通用するような汎通的な知の層に達し得ない生活実感は、結局そのごく狭い地域的限界から出ることができない。
 同じことを裏返して言えば、生活者がほんとうに自分の生活にしっかり根を下ろしていれば、学術的に汎用性の高い知見に触れたときに、それが初めて聴く言葉でも決して「空疎」だとは感じないはずです。また、生活者が(言語や親族や交換について)いのちがけで守ろうとする倫理や規矩があるとすれば、それはどこかで「暗黙知の次元」に通じている。そういうことです。
 江さんと最初にお会いしたころ、よく「ウチダ先生の話は街場でも通りますわ」という言い方をしてくれました。「街場でも通る」というのは、江さんの「最高のほめ言葉」でした。僕はそう言ってもらったことをとてもうれしく思いました。そして、自分のいるべき場所はそこだと確信しました。
『寝ながら学べる構造主義』というのが、僕の「街場的」な書き物のデビュー作でした。レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、バルトらフランスの構造主義者たちの知見を、日本の高校生でもわかるように噛み砕いて説明したものです。「こういうもの」が絶対に必要だということについては確信がありました。それまでなかったからです。それまで書かれた構造主義の入門書は、学者が「素人相手」に、話をはしょって、ざっと概説するという感じのもので、どこかに読者を見下したところがありました。事実、そういうタイプの本のことを学者たちは平気で「啓蒙書」と呼んでいましたから。「啓蒙」って「蒙を啓く」(愚鈍な人間を開化する)という意味ですからね。すごいです。
 僕はそういうものを書く気はありませんでした。高校生でも、彼らが生活者としてしっかり根をおろしていれば、構造主義の本質的なところは理解できるはずだと思っていました。だって、それは言語と親族と交換についての深い知見だったからです。
 高校生だって、言語を操るし、家族とともに生きているし、経済活動にかかわっています。素材は彼ら自身の経験のなかに豊かに存在する。ふだん、ふとした機会に「生きた言葉」と「死んだ言葉」の違いがあることに気づいたり、家族であるというのはある種の「役割演技」をすることだと気づいたり、贈り物をもらったあとに何も「お返し」をしないと気持ちが片づかないとしたら、彼らは「人類の暗黙知」にアクセスする回路にすでに手が届いていることになります。だったら、別に「啓蒙」する必要なんかない。高校生自身がおのれの生活実感の深層に向けて垂直に掘ってゆけばよい。そのための作業の指針になるものを書きたいと思っていました。
 たぶん、そういうふうに読者の主体的なコミットメントを「当てにして」本を書く学者というのがあまりいなかったということなんだと思います。僕は読者の知性を信頼して書くべきだと思っていました。それは教育者としての経験がもたらした確信でした。子どもを大人にしたければ、大人として扱う。学生たちに知的に成長して欲しかったら、すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。子どもたちは自分に向けられた「敬意」を決して見逃すことはないからです。
敬意」というのは「愛情」よりも「信頼」よりも、はるかに伝達力の強いメッセージです。若い人たちが最も敏感に反応してくれて、こちらの意図を過たず受信してくれるのは「敬意」です。だったら、読者の知性にきちんと敬意を払えば、先方は「受信する構え」をとってくれる。そうすれば「書き手と読み手の間の回路」が形成される。「回路」さえ通れば、あとはそこに情報を流せばいい。
 コミュニケーションには、メッセージとメッセージの読解の仕方を指示するメタ・メッセージの二層があります。「これから私が語るのは、あなたたちが十分に知的に成熟していることを前提にしている」というのは、読解の仕方を指示するメタ・メッセージです。そのメタ・メッセージを読者が過たず受信してくれれば、コミュニケーションの回路は立ち上がる。
 江さんは『寝ながら学べる構造主義』を読んで、この僕のスタンスを理解して、「街場の思想家」に認定してくれたのだと思います。それから後僕は「街場の」というタイトルがついた本をたぶん20冊くらい出しています。自分でつけたわけではなくて、どれも編集者がつけたものです。たぶんすごく使い勝手のよいタイトルなのだと思います。でも、「街場の」をタイトルに使った本を書いているのは、いまのところ日本では僕一人のようです。学者と生活者の間を「架橋する」という仕事が好きでたまらないという人がそれほど多くはいないということなのかも知れません。でも、実に楽しい仕事なんですけれどね。

「ツキジデスの罠」という言葉の罠

これは米中間の緊張関係を高めるために意図的に広められた言葉だろう。そもそも、アテネとスパルタのどちらが「罠」にかかったというのか。これは、言葉と実質が乖離している。単に「ふたつの国家が戦争になる可能性が高い」というだけの内容である。どこにも「罠」は無い。あるとしたら、この両国を戦わせたいという連中(あるいは両国の緊張で金儲けができる連中)が、この言葉を使うことで、「この両国がいつ戦争になってもおかしくない」という空気を作り出すことである。

ちょっとしたお笑い。
「ツキジデスさん、東京ではどこを見物したいですか」
ツ「築地です」

(以下引用)


トゥキュディデスの罠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥキュディデスの罠(トゥキュディデスのわな、Thucydides Trap)とは、古代アテナイ歴史家トゥキュディデスにちなむ言葉で、従来の覇権国家と台頭する新興国家が、戦争が不可避な状態にまで衝突する現象を指す。アメリカ合衆国政治学者グレアム・アリソンが作った造語[1]

この概念は、紀元前431年にアテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発したのは、スパルタがアテネの勢力拡大を恐れていたからであるという、古代アテネの歴史家であり軍事将軍であったトゥキュディデスの示唆に由来する。

しかし、この研究はかなりの批判を浴びており、トゥキュディデスの罠の概念の価値、特に米国と中国の間の潜在的な軍事衝突に関連するものについての学者の意見は分かれたままである。

概要[編集]

紀元前5世紀のスパルタとアテナイによる構造的な緊張関係に言及したと伝えられる(英文訳:“It was the rise of Athens, and the fear that this inspired in Sparta, that made war inevitable.” 和訳:「戦争を不可避なものにした原因は、アテネの台頭と、それが引き起こしたスパルタの恐怖心にあった。」)[2]

古代ギリシャ当時、海上交易をおさえる経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握るスパルタとの間で対立が生じ、長年にわたる戦争(ペロポネソス戦争)が勃発した。

転じて、急速に台頭する大国が既成の支配的な大国とライバル関係に発展する際、それぞれの立場を巡って摩擦が起こり、お互いに望まない直接的な抗争に及ぶ様子を表現した言葉である。現在では、国際社会のトップにいる国はその地位を守るため現状維持を望み、台頭する国はトップにいる国に潰されることを懸念し、既存の国際ルールを自分に都合が良いように変えようとするパワー・ゲームの中で、軍事的な争いに発展しがちな現象を指す[3]

影響[編集]

この用語とそれにまつわる議論は、国際メディア(中国国営メディアを含む)やアメリカや中国の政治家の間で影響力を持った。国防大学の軍事研究部門である国家戦略研究所が発表したアラン・グリーリー・ミゼンハイマーによるこの用語の事例研究では、「国際関係の辞書に入って以来、世界的な注目を集めている」と述べられている。 外交政策学者のハル・ブランズとマイケル・ベックリーは、トゥキュディデスの罠は「正典となった」と述べ、「今や米中対立を説明する際に、何度も何度も繰り返される定説」と述べている。さらに、BBCの外交特派員ジョナサン・マーカスは、トゥキュディデスの罠を拡大解釈したグラハム・アリソンの著書『Destined For War』は、「多くの政策立案者、学者、ジャーナリストの必読書となった」と評している。

米中貿易戦争[編集]

この言葉は主に、米国中華人民共和国の軍事衝突の可能性に関連して使われた造語である。中国の指導者であり中国共産党の総書記である習近平はこの言葉に言及し、「トゥキディデスの罠を避けるために、われわれ全員が協力する必要がある」と警告した。「ドナルド・トランプ米大統領が中国の対米輸出のほぼ半分に関税を課し、貿易戦争に発展した後、米中間の緊張が高まった結果、この言葉は2018年にさらに影響力を増した。

欧米の学者たちは、西側諸国が支持する台湾の事実上の独立の継続、中国のデジタル・ポリスとサイバー・スパイ活動の利用、北朝鮮に対する政策の違い、太平洋における中国の海軍存在感向上と南シナ海での主張、新疆ウイグル自治区チベット香港における人権問題など、2つの大国がトゥキディデスの罠に陥る可能性を高める、両国が対立する差し迫った問題が数多くあると指摘している。 また、習近平による権力強化、和解しがたい価値観の相違、貿易赤字を、両国がトゥキディデスの罠にはまりつつあるさらなる証拠として指摘する向きもある。