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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

芸能界と枕営業とセクハラ告発


これは私もバルドーの意見に同感する。役を貰う時には自分の意思で枕営業をしておきながら、後でそれをセクハラだと告発するのはちゃんちゃらおかしい。もともと洋の東西を問わず芸能界や映画界というのはそういう世界なのである。ヤクザがバックを仕切っているのも同じだろう。
大部屋女優だったマリリン・モンローが初めて科白のある役を貰った時、「これで、これからは私もプロデューサーたちに尺八をしないで済むのね」と言ったというのは伝説かもしれないが、芸能界や映画界の真実を突いているからこそ広く知られたのだろう。なお、「ゴッドファーザー」の原作(もちろん翻訳だが)には、母親が、子役である幼い娘にプロデューサーのセックスの相手をさせて役を貰うという場面がある。





女優によるセクハラ告発は「偽善的」ブリジット・バルドーさん

© シネマトゥデイ 提供

[パリ 18日 ロイター] - フランスの女優ブリジット・バルドーさん(83)は17日、多くの女優が役を獲得するために映画プロデューサーをその気にさせておきながら、後になって、注目を浴びるためにセクハラされたと言い出している、と述べた。週刊誌パリ・マッチに語ったもの。

 バルドーさんは、一般女性ではなく、女優によるセクハラ告発の多くは「偽善的でばかげており無意味」と批判した。

 また、セクハラ議論がもっと重要な話題の妨げになっているとし、自身はセクハラの被害にあったことは一度もないと述べた。

 バルドーさんは「私は美しいとか小さくてかわいいお尻をしているなどと言われるのはとても気分が良かった。そういった賛辞は素晴らしい」と語った。

 「BB」の愛称で呼ばれることも多いバルドーさんは1950年代から活躍し40本以上の映画に出演、プレイボーイ誌の20世紀で最もセクシーなスター5人にも選ばれている。

 1973年に引退宣言し、動物愛護活動に専念した。近年はゲイやイスラム諸国からの移民、失業者などへの発言が物議を醸すことが多い。



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作画における手の動きと視線の移動の問題

漫画家以外には関係の無さそうな話に見えるが、非常に示唆的である。つまり、これまで何の疑いも無く繰り返してきた作業を、少し変えるだけで作業が非常に能率的になる、ということがあるわけだ。しかも、大事なのは、その変更前のやり方には、ほとんど不満も疑問も無く繰り返してきた、ということで、そこに変更を加えてみようと思いつくのは、創作におけるインスピレーション(天からの啓示)と同じくらいの価値がある。
ペンにインクを付ける際に視線の移動が起こり、そのために集中が削がれていた、という分析も素晴らしい。これは、書道の臨書の際に、一画を書き終わる時に、筆を紙から離さず、次の画の起点を模範の書で確認してから次の画に移る、という、「とめはねっ!」で書かれていた教えに近い。(その逆パターンと言うべきか。)視線の移動というのを我々は普段意識していないが、何かを描いたりする際には大きな意味を持っているわけだ。







  1. すごいことに気付きました。左手にインクの瓶を持って至近距離でインクをつけペンを入れるとめっちゃ速いです。インク瓶を原稿用紙の外に置いてあると、視線の移動が生まれるために集中が削がれていたようです。このポジションで構えるとどんどん進みます。(アナログですが)






チアガールのパンツwww

まあ、チアガールとかマネージャーになる女の子の気持ちというのは男の大半は理解できないと思うし、私も理解できないが、ほとんどは「男目当て」だと男は考えていると女子は理解しておくべきである。それで何が悪い、と言われれば言い返せないのだが、あまりに浅ましくないか、ということで、下のスレ主の気持ちはよく分かる。
アメリカの短編小説の一節で、自分の結婚した女が、学生時代にはチアガールか何かで、相手がアメフトの選手なら誰にでもすぐにパンツを脱ぐ女だった、と書いていて、やはりそういうのが大多数なんだろうな、と思った記憶がある。


(以下引用)

    830:おさかなくわえた名無しさん2016/07/26(火) 04:34:49.45ID:vcouaHMl
    友達の紹介で知り合った子だけど
    見た目は清楚そうで気が合いそうな感じだった

    高校時代部活なにやってたの?
    と聞いたらサッカー部のマネージャーと答えた
    残念ながら俺には高校時代に異性の世話に時間を使うことが理解できん

    理不尽冷めかもしれないけどその日以降会うことはなかった


    831: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 08:15:42.86 ID:CUf9wCGt
    あーなんか分かるわ。俺も何故かそういうのが理解できない。
    自信がサッカーやっていたってのよりも嫌悪感が何故かある。

    832: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 08:21:15.12 ID:T2d7G8XJ
    偏見だけど、わたしの学校にいたマネージャーは
    軒並み部員の男はわたし達のもの!みたいな意識があったから、
    マネージャーする子ってそういうの目当て多いんだろなと思ってしまう

    834:おさかなくわえた名無しさん2016/07/26(火) 09:30:22.77 ID:mQM4iqwI
    >>832
    わかるな…
    格闘技好きな女も、警戒してしまう。

    833: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 08:45:39.10 ID:BO2G1CDm
    自分の学校では運動部じゃないと近距離の人間は自転車通学が認められなかったから、
    自分で運動したくない人はマネージャーになってたな

    自分もそうだったんだけど3年間同じ部活の一人の人を大好きだったんだけど、
    卒業して半年後の同窓会で劇太りしてて本当に一瞬で冷めた事がある
    本当にかっこ良かったのに…運動部を辞めたからって太りすぎだよ

    835: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 12:31:45.43 ID:7nxT7esf
    高校まで運動してた男子生徒はドカ食い癖があるからね。

    大学に入って運動を止めてしまってもドカ食いだけは直らないから
    人相変わるほど太ってしまう人も確かに多いだろうなw

    836: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 12:50:29.13 ID:QB9uPD6g
    友人知人に運動部マネージャーやる人間がいなかったせいか
    初めて知った考え方だなー

    839: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 13:22:16.70 ID:2cCBfY2Y
    自分の学校も清楚系女子がマネージャーだったな
    部活以外でもわざわざイケメン部員にちょっかいかけにマネージャー2人で教室に来てたよ、
    自分のクラスにも部員は何人もいるのに

    それを見てるとその子達が言ってた「頑張っている人を支えたくてマネージャーになりました」も、
    大会で負けたあと「みんな頑張ってたのに~」と
    泣いて慰められる様子も全てが嘘くさすぎて無理だった

    844: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 15:10:41.86 ID:SVEwU+tL
    まあ男子が女子部のマネージャーやりたいなんて言ったら
    間違いなくそっち目的だと思われるわな

    男女逆になったらそんな邪念の無い純粋な娘ばっかりなんて事もある訳ない

    847:おさかなくわえた名無しさん2016/07/26(火) 16:40:10.27 ID:fgxpAKJD
    >>844
    世の中色んな役割があり様々な人が居てるから一概にはいえんよ

    845: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 16:03:58.95 ID:ELolR9/L
    自分とこは、サッカー部の女子マネさん
    男子に混じってサッカーしてた子で
    中高になると女子はチームに参加できないから…って子だったなあ

    でもバスケの女子マネさんは男子に媚びると有名な子だったし人それぞれだよねー

    846: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 16:13:07.23 ID:yhOKhOt+
    マネージャーになる子は◯◯という先入観はよくないな
    匂いだけ嗅いでロールキャベツだ!と思ってもミートポトフだったりするわけで

    849: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 18:26:03.67 ID:JDEY1mYC
    >>846
    その例えでは致命的な問題にはならないなw

    850: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 18:29:12.64 ID:4rZZKOzK
    何にしても決めつけはよくないけど学生時代男目当ての女マネは多かったし
    可愛くないと立候補できないような雰囲気あったのは確か

    851: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 18:32:30.58 ID:9LfI1fSz
    男子生徒側でもブスがマネージャーになったらすごい態度悪くなりそう

    853: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 19:55:18.34 ID:bRSpufhi
    まぁマネージャーするタイプは本当に甲子園好きとかもいるだろうけど、
    基本チヤホヤされるの大好きタイプだけどね

    858: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/26(火) 23:20:46.21 ID:vcouaHMl
    意外と同じ意見の人が多くて驚いたw
    俺だけかと思ったら結構いるんだな

    サッカー好きなら自分でやってくれと思うわ

    864: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/27(水) 10:26:19.09 ID:sWlkLiin
    マネージャーに男好きが多いという考えは女にもあったんだな
    女はみんな憧れてるのかと思った

    865: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/27(水) 11:01:04.54 ID:Hv9R6dsR
    みんな運動部のマネージャーに夢見すぎじゃね?

    867: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/27(水) 13:21:32.02 ID:GiKlAvA0
    マネージャーになる側もしかりだけど
    部員が新入生をマネージャーに勧誘するのだって彼女候補の可愛い子だったよ
    尚、マネージャー勧誘は彼女がいない3年がするというルールだった

    868: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/27(水) 13:26:52.24 ID:6XwAy5D7
    そりゃ可愛い子じゃないとモチベ上がらないだろうからな

    883: おさかなくわえた名無しさん 2016/07/27(水) 23:35:15.10 ID:sWlkLiin
    サッカーの本田の嫁もマネージャーだった
    しかも自分の学校の部員と付き合ってたのに
    他校にいた本田と試合した時に告白されて乗り換えたらしいな

    まあうまくいってるみたいだからいいけどなんかな

    分析と解釈





    「分析と解釈」

     

      始めに

     

    人間が外部の現象を理解しようとする場合に、「分析」という方法と「解釈」という方法がある。分析とは、現象を構成要素に分解して理解する方法である。たとえば、Aという現象が(a,b,c,d)の四つの部分に分解できるなら、そのように分解し、それぞれの部分を検討する。それぞれの部分について理解できたなら、それを纏め上げた全体(纏め上げることを「総合」と言う。)についても大体は理解できるということである。もちろん、物事には相互の関係というものがあるから、個々の部分を理解できただけでは不十分だということもありえる。その場合は、「関係」をも構成要素とすれば、それも分析の対象になるわけだ。

    一般の事象に対しては、この「分析」と「総合」の方法で大体理解できるが、しかし、世の中には分析不可能な事象もある。その場合は、とにかく、与えられたデータから、未知の部分を推測して、その全体に対しての一つの判断を下す必要がある。その判断に幾つかの可能性がある場合に、最終的には直観によって一つを選ぶことになる。これが「解釈」だ。つまり、「分析」には飛躍は無いが、「解釈」には飛躍があるということである。だから、「それは一つの解釈に過ぎない」という言い方はできるが、「それは一つの分析に過ぎない」とは言わないのである。しかし、数学のようなフィクションの世界、つまりある前提を受け入れることによってのみ成り立つ自己完結的世界とは異なり、現実世界では、分析のみで正解が得られる場合の方が少ない。どこかで解釈に飛躍しているのが通常の判断なのである。

    要するに、分析と解釈は、我々がこの世界を理解する(ただし、その理解が「正解」でなくても少しも構わないのである。我々は現実の問題に取りあえず何かの答えを出すことで先に進まねばならないのだ。それが現実生活での問題解決なのである。)際の、車の両輪なのである。

    たとえば、「9.11事件」について、これをテロ組織による「同時多発テロ」であるとするのも、アメリカ政府によって流された一つの解釈(それが意図的な嘘なら情報操作となる)に過ぎない。インターネットの世界では、これはアメリカ政府とその背後にいる影の支配勢力による陰謀だという説も広く流布している。そのどちらの解釈を受け入れるかによって、アメリカ国民なら次の大統領選挙での投票行動を決定することもあるだろう。事象をいかに解釈するかは、我々の日常と深く結びついているのである。どちらの解釈を受け入れるにしても、あるいは第三の解釈を編み出すにしても、様々なデータを研究し、分析しなければならない。それによって、その解釈がより「正解」に近づくのである。いや、個人のレベルでは、べつに正解でなくてもかまわないのだが、多くの人間が「誤答」を出せば出すほど、この世界全体が愚劣なものになっていくのである。「9・11」はアメリカの話であって、日本には関係ない、というのは大間違いである、と私は思う。「9.11」はアメリカのみならず、世界全体の政治状況(=社会状況)を変えたのである。

    「文明の衝突」という本は、その内容がどうであれ、「9.11」以降の政治状況の中心的イデオロギーの役割を果たしてきた。ならば、これは「9.11」の準備としてアメリカ政治支配層の意を体して出版されたという解釈ができる。要するに、何が一番合理的な解釈かというと、冷戦終結後に産軍複合体が生き残る手段として、「テロとの戦い」と、「イスラム世界対キリスト教世界」あるいは、「非民主主義国家対民主主義世界」という図式が準備され、その図式通りに世界は動いてきたということである。これが私の「解釈」だ。ならば、ここから逆算して、実は「共産主義対自由主義」という図式も、意図的に仕組まれた構図ではないか、という解釈もできる。なぜなら、レーニンらの革命に、アメリカの大財閥から資金援助が行われていたという事実(多分、事実だろう。当事者以外に事実がわかるはずはないから、すべての「事実」は本当は憶測でしかないのだろうが)があるからである。

    こうした「解釈」は、あまりに面白すぎて、十把一絡げに「陰謀論」の名で片付けられる。新聞やテレビの流すお仕着せの解釈で自分は十分だと言う人も多いだろう。下手に真実を知って危険にさらされるよりは、安全な無知の中にいたほうがいいというわけだ。なにしろ、青木雄二、宮本政於など、歯に衣着せぬ発言をした人々は、なぜか早死にをするのが常なのだから。問題の人間がたとえ変死しようが、医者と警察を牛耳っていれば、自然死ということにできるのである。いや、完全に殺人であってさえ、警察がまったく捜査に動かないという例も洋の東西を問わず、非常に多い。そのほとんどは、時の政権にとって都合の悪い調査をしていた野党議員の死である。世の中、触らぬ神にたたりなし、と人々が思うようになっても仕方のないことである。

    しかし、嬉しいことに頭の中身だけは誰にも分からないから、我々には考える自由はある。同じ考えるなら、できるだけ正しく考えたい、というのは自然なことだろう。わざわざ間違った考えで頭を一杯にしたいという人間はあまりいないはずだ。いわゆるネット右翼のお兄さんたちにしても、好んで自ら間違いだと思う説を振り回しているのではなく、それが正しいと信じているか、あるいは上から命ぜられてやっているだけのことだろう。彼らの言動は愚劣だが、もちろん、権力の片棒をかつぐことでそのおこぼれに与かれるなら、世界中で何万人が死のうがかまわない、という考えもあっていい。ただ、みっともない、というだけだ。アフガニスタンやイラクで何万人死のうが、自分には関係無い、と考える若者がいてもいい。しかし、それなら、その同じ立場に自分が立たされても文句は言うべきではないだろう。我々は、自らが正しいと思うことを信じればいいのであり、世の非道に対して「心の中でノーと言う」だけでもいいのである。その事がたとえば選挙での投票行動につながり、世の中をより道義的な方向に変えていくはずだから。

    私は別に正義感の強い人間ではないし、実生活では臆病そのものの人間である。頭も良くない(というより、頭の回転が鈍い)から、表立って自分の意見を述べることもない。怠け者でもあるから、知識も少なく、その知識も不正確だ。つまり、社会的な発言をするにはまったく不適当な人間である。しかし、なぜか私は自分の直観には自信がある。それに、未来世代の子供たちのために、この世を少しでも良くしておきたい気持ちがある。そこで、少々は政治的な問題を論じたりすることもあるのだが、実はこの雑文集には、政治的発言はあまり多くはない。この世を良くするなどと大げさなことを言ったが、私という人間は単に、対象が何であれ、物事を分析すること自体が好きなのであり、その結果を文章にしてきただけである。たとえば、私はスポーツ音痴であり、中でもサッカーなどというものはまったく分からない。しかし、人々がサッカーに熱中しているということには興味を感じる。そこで、サッカーについて分析してみたりするわけだ。無知な人間の分析などに興味は無い、という人は無視してくれればいいだけのことだ。だが、頭のいい人間たちが膨大な金とエネルギーを注ぎ込んでも、日本はこれまでサッカーの国際大会でろくな成績を残していない。ということは、それらの人々は決して頭が良くはないのかもしれないし、その膨大な知識も意味の無い知識だけなのかもしれない。インターネットのいいところは、専門家も素人も同じ土俵に上るところである。ネット上の文章を読む人は、ただその文章が面白いか、納得できるかということだけで評価するのである。たとえば、私がよく読む、自称天才(というより、アインシュタイン並の知能指数であるという)の若い女性のホームページがある。通常なら、そんなのはただの法螺だと判断するところだが、その文章の内容から、確かに非常に高い知性が感じられるので、私は彼女の発言を真実だと判断したわけである。もちろん、知能指数の測定方法そのものにも問題はあるし、知能指数の高さがその人間の価値につながるとも限らないが、そのブログは内容自体も面白いのである。要するに、「文は人なり」ということが、このインターネットの時代にもまさしく通用するのである。となれば、馬鹿が自分の文章を公表することは、自分の馬鹿さを公表することであり、非常に危険な行為であることになる。しかし、馬鹿を売り物にして生きる生き方だってあるわけであり、馬鹿が無価値とも限らない。「沈香も焚かず、屁もひらず」よりは「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにや損々」という生き方を選ぶこともあるわけだ。

    文章を書く目的は、私の場合は必ずしも公表するためではなく、思考の整理のためである。書いた物の中には、死蔵するのが惜しいな、と思うのもたまにはあるが、ほとんどは駄文である。だが、私は他人の駄文を読むのも嫌いではないし、日常のお喋りが意味があるなら、駄文によるコミュニケーションにも意味があるだろう。というわけで、この序文の途中の真面目な政治的な話題から、有益な内容を期待されては困るのだが、あくまで書き手とのお喋りを楽しむつもりで、これからの駄文にお付き合いを願いたい。




    よさほい節と天皇制批判

    大島渚の「日本春歌考」がネットテレビに入っていたので、見てみたが、学生の作った演劇を映画化したみたいな、半前衛的な、要するにどこまでが現実でどこから幻想か分からない芝居を延々と見せられる映画だが、さきほどネットで「よさほい節」の歌詞を調べ、その9番の歌詞で、「日本春歌考」のテーマの一部が分かった気がする。
    要するに、70年安保直前における反体制知識人の、日本の社会や政治や天皇制への鬱屈した気分を、直接的に表現した場合の危険性を避けて韜晦的に表現した、「仲間内の映画」であると思う。映画の中では、9番は歌われなかったと思う。その代わりに、10番が「尊いお方とするときにゃあ、ほい、羽織袴でせにゃならぬ」となっていて、その「尊いお方」が皇室(の女性)を暗示していたのではないか。
    で、この春歌が天皇制批判(皇室侮辱)の歌であることが9番の歌詞から明らかであることから、この映画の隠れたテーマが浮かび上がってくるわけである。
    映画のラストで、不良学生たちに向かって、そのあこがれの女学生が、「あなたたちが想像で私を犯したというのなら、それが本当にできるかどうかやってみてよ」と挑発し、大学の講堂で学生たちがその女学生を犯そうとする場面があるのだが、その場面で、小山明子(だと思う)演じる年上の女がなぜか教壇に立って、古事記の一部に関して論じ始めるという奇妙な行動をする。その古事記の一節とは、要するに、日本の皇室は大化の改新で朝鮮から来た勢力(藤原鎌足一族ら)に乗っ取られた、ということを暗示する一節であり、要するに、日本の天皇制とは朝鮮勢力による支配体制のことだ、ということなのだろうが、この小山明子(だろう)の演説は、不良学生たちが歌う春歌に声を消されて、なかなか聞き取れないようになっている。つまり、そうすることで、この映画が天皇制批判の映画であるという事実を隠蔽しているのだろうと思う。



    (以下引用)



    よさほい節の歌詞

                        よさほい節
    
    
    ・ひとつ出たほいのよさほいのほーい、
      一人娘とやるときにゃ
      親の許しを得にゃならぬ、よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・ふたつ出たほいのよさほいのほーい、
        二人娘とやるときにゃ
        姉の方からせにゃならぬ、よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・みっつ出たほいのよさほいのほーい、
      みにくい娘とやるときにゃ
      顔を見ぬようにせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・よっつ出たほいのよさほいのほーい、
      よその二階でやるときにゃ
      音のせぬよにせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・いつつ出たほいのよさほいのほーい、
      いつもの娘とやるときにゃ
      あの手この手でせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・むっつ出たほいのよさほいのほーい、
      昔の娘とやるときにゃ
      思い出しだしせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・ななつ出たほいのよさほいのほーい、
      質屋の娘とやるときにゃ
      入れたり出したりせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・やっつ出たほいのよさほいのほーい、
      八百屋の娘とやるときにゃ
      皮を剥き剥きせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
    ・ここのつ出たほいのよさほいのほーい、
      皇后陛下とやるときにゃ
      直立不動でせにゃならぬ,よさほいのほーい、よさほいのほーい
    
                                                                     以上
    
    ※それとこのような歌詞もあるようです。地域差かな?。
    
    
    ひとつ------一人娘と------親の許しを得にゃならぬ
    ふたつ------二人娘と------姉の方からせにゃならぬ
    みっつ------見難い娘と-----顔を隠して------
    よっつ------余所の二階で----声をたてずに-----
    いつつ------いつもの女と----あの手この手で----
    むっつ------昔の女と------思い出しだし-----
    ななつ------質屋の娘と-----入れたり出したり---
    やっつ------八百屋の娘と----南瓜枕に-------
                       (大根担いで)    別バージョン(笑)
    ここのつと----校長の娘と-----退学覚悟で------
    とうと------尊いお方と-----直立不動で------
    じゅういちと---獣医の娘と-----注射覚悟で------
    じゅうにと----十二単と------まくりまくって----
    じゅうさんと---巡査の娘と-----手錠覚悟で------
    じゅうしと----十四の娘と-----監獄覚悟で------
    じゅうごと----十五夜の夜に----月を見ながら-----
    
    
    さぁ、みんなで歌いましょう(笑)。