分析と解釈
「分析と解釈」
始めに
人間が外部の現象を理解しようとする場合に、「分析」という方法と「解釈」という方法がある。分析とは、現象を構成要素に分解して理解する方法である。たとえば、Aという現象が(a,b,c,d)の四つの部分に分解できるなら、そのように分解し、それぞれの部分を検討する。それぞれの部分について理解できたなら、それを纏め上げた全体(纏め上げることを「総合」と言う。)についても大体は理解できるということである。もちろん、物事には相互の関係というものがあるから、個々の部分を理解できただけでは不十分だということもありえる。その場合は、「関係」をも構成要素とすれば、それも分析の対象になるわけだ。
一般の事象に対しては、この「分析」と「総合」の方法で大体理解できるが、しかし、世の中には分析不可能な事象もある。その場合は、とにかく、与えられたデータから、未知の部分を推測して、その全体に対しての一つの判断を下す必要がある。その判断に幾つかの可能性がある場合に、最終的には直観によって一つを選ぶことになる。これが「解釈」だ。つまり、「分析」には飛躍は無いが、「解釈」には飛躍があるということである。だから、「それは一つの解釈に過ぎない」という言い方はできるが、「それは一つの分析に過ぎない」とは言わないのである。しかし、数学のようなフィクションの世界、つまりある前提を受け入れることによってのみ成り立つ自己完結的世界とは異なり、現実世界では、分析のみで正解が得られる場合の方が少ない。どこかで解釈に飛躍しているのが通常の判断なのである。
要するに、分析と解釈は、我々がこの世界を理解する(ただし、その理解が「正解」でなくても少しも構わないのである。我々は現実の問題に取りあえず何かの答えを出すことで先に進まねばならないのだ。それが現実生活での問題解決なのである。)際の、車の両輪なのである。
たとえば、「9.11事件」について、これをテロ組織による「同時多発テロ」であるとするのも、アメリカ政府によって流された一つの解釈(それが意図的な嘘なら情報操作となる)に過ぎない。インターネットの世界では、これはアメリカ政府とその背後にいる影の支配勢力による陰謀だという説も広く流布している。そのどちらの解釈を受け入れるかによって、アメリカ国民なら次の大統領選挙での投票行動を決定することもあるだろう。事象をいかに解釈するかは、我々の日常と深く結びついているのである。どちらの解釈を受け入れるにしても、あるいは第三の解釈を編み出すにしても、様々なデータを研究し、分析しなければならない。それによって、その解釈がより「正解」に近づくのである。いや、個人のレベルでは、べつに正解でなくてもかまわないのだが、多くの人間が「誤答」を出せば出すほど、この世界全体が愚劣なものになっていくのである。「9・11」はアメリカの話であって、日本には関係ない、というのは大間違いである、と私は思う。「9.11」はアメリカのみならず、世界全体の政治状況(=社会状況)を変えたのである。
「文明の衝突」という本は、その内容がどうであれ、「9.11」以降の政治状況の中心的イデオロギーの役割を果たしてきた。ならば、これは「9.11」の準備としてアメリカ政治支配層の意を体して出版されたという解釈ができる。要するに、何が一番合理的な解釈かというと、冷戦終結後に産軍複合体が生き残る手段として、「テロとの戦い」と、「イスラム世界対キリスト教世界」あるいは、「非民主主義国家対民主主義世界」という図式が準備され、その図式通りに世界は動いてきたということである。これが私の「解釈」だ。ならば、ここから逆算して、実は「共産主義対自由主義」という図式も、意図的に仕組まれた構図ではないか、という解釈もできる。なぜなら、レーニンらの革命に、アメリカの大財閥から資金援助が行われていたという事実(多分、事実だろう。当事者以外に事実がわかるはずはないから、すべての「事実」は本当は憶測でしかないのだろうが)があるからである。
こうした「解釈」は、あまりに面白すぎて、十把一絡げに「陰謀論」の名で片付けられる。新聞やテレビの流すお仕着せの解釈で自分は十分だと言う人も多いだろう。下手に真実を知って危険にさらされるよりは、安全な無知の中にいたほうがいいというわけだ。なにしろ、青木雄二、宮本政於など、歯に衣着せぬ発言をした人々は、なぜか早死にをするのが常なのだから。問題の人間がたとえ変死しようが、医者と警察を牛耳っていれば、自然死ということにできるのである。いや、完全に殺人であってさえ、警察がまったく捜査に動かないという例も洋の東西を問わず、非常に多い。そのほとんどは、時の政権にとって都合の悪い調査をしていた野党議員の死である。世の中、触らぬ神にたたりなし、と人々が思うようになっても仕方のないことである。
しかし、嬉しいことに頭の中身だけは誰にも分からないから、我々には考える自由はある。同じ考えるなら、できるだけ正しく考えたい、というのは自然なことだろう。わざわざ間違った考えで頭を一杯にしたいという人間はあまりいないはずだ。いわゆるネット右翼のお兄さんたちにしても、好んで自ら間違いだと思う説を振り回しているのではなく、それが正しいと信じているか、あるいは上から命ぜられてやっているだけのことだろう。彼らの言動は愚劣だが、もちろん、権力の片棒をかつぐことでそのおこぼれに与かれるなら、世界中で何万人が死のうがかまわない、という考えもあっていい。ただ、みっともない、というだけだ。アフガニスタンやイラクで何万人死のうが、自分には関係無い、と考える若者がいてもいい。しかし、それなら、その同じ立場に自分が立たされても文句は言うべきではないだろう。我々は、自らが正しいと思うことを信じればいいのであり、世の非道に対して「心の中でノーと言う」だけでもいいのである。その事がたとえば選挙での投票行動につながり、世の中をより道義的な方向に変えていくはずだから。
私は別に正義感の強い人間ではないし、実生活では臆病そのものの人間である。頭も良くない(というより、頭の回転が鈍い)から、表立って自分の意見を述べることもない。怠け者でもあるから、知識も少なく、その知識も不正確だ。つまり、社会的な発言をするにはまったく不適当な人間である。しかし、なぜか私は自分の直観には自信がある。それに、未来世代の子供たちのために、この世を少しでも良くしておきたい気持ちがある。そこで、少々は政治的な問題を論じたりすることもあるのだが、実はこの雑文集には、政治的発言はあまり多くはない。この世を良くするなどと大げさなことを言ったが、私という人間は単に、対象が何であれ、物事を分析すること自体が好きなのであり、その結果を文章にしてきただけである。たとえば、私はスポーツ音痴であり、中でもサッカーなどというものはまったく分からない。しかし、人々がサッカーに熱中しているということには興味を感じる。そこで、サッカーについて分析してみたりするわけだ。無知な人間の分析などに興味は無い、という人は無視してくれればいいだけのことだ。だが、頭のいい人間たちが膨大な金とエネルギーを注ぎ込んでも、日本はこれまでサッカーの国際大会でろくな成績を残していない。ということは、それらの人々は決して頭が良くはないのかもしれないし、その膨大な知識も意味の無い知識だけなのかもしれない。インターネットのいいところは、専門家も素人も同じ土俵に上るところである。ネット上の文章を読む人は、ただその文章が面白いか、納得できるかということだけで評価するのである。たとえば、私がよく読む、自称天才(というより、アインシュタイン並の知能指数であるという)の若い女性のホームページがある。通常なら、そんなのはただの法螺だと判断するところだが、その文章の内容から、確かに非常に高い知性が感じられるので、私は彼女の発言を真実だと判断したわけである。もちろん、知能指数の測定方法そのものにも問題はあるし、知能指数の高さがその人間の価値につながるとも限らないが、そのブログは内容自体も面白いのである。要するに、「文は人なり」ということが、このインターネットの時代にもまさしく通用するのである。となれば、馬鹿が自分の文章を公表することは、自分の馬鹿さを公表することであり、非常に危険な行為であることになる。しかし、馬鹿を売り物にして生きる生き方だってあるわけであり、馬鹿が無価値とも限らない。「沈香も焚かず、屁もひらず」よりは「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにや損々」という生き方を選ぶこともあるわけだ。
文章を書く目的は、私の場合は必ずしも公表するためではなく、思考の整理のためである。書いた物の中には、死蔵するのが惜しいな、と思うのもたまにはあるが、ほとんどは駄文である。だが、私は他人の駄文を読むのも嫌いではないし、日常のお喋りが意味があるなら、駄文によるコミュニケーションにも意味があるだろう。というわけで、この序文の途中の真面目な政治的な話題から、有益な内容を期待されては困るのだが、あくまで書き手とのお喋りを楽しむつもりで、これからの駄文にお付き合いを願いたい。