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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

恋愛と性愛

「紙屋研究所」から転載。
例によって論旨明快で、その内容にまったく異論は無い。この文章から派生した浮遊思考を少し捉えてみたい。
まず、性愛とは何か、ということである。
「恋愛」と「性愛」は違うのだろうか。「性愛」の定義を見たことは無いが、おそらく恋愛とは違うのだろう。そしてそれは、「性愛」とは「性行為を前提とした愛」というものかと思う。つまり、「プラトニックラブ」の反対語だ。ただし、実際のプラトン時代の「少年愛」は「稚児趣味」であり、セックスを伴っていたらしいが、それを精神性の強い「師弟愛」としたのがプラトンだろう。
で、実際に、男女の間で性行為を伴わないが深い恋愛感情を持つということはあるかと言えば、あるだろう。むしろ、恋愛感情がもっとも激しい時というのは、恋愛の初期、まだ性行為をしていない時だと思う。性愛とは性行為の悦楽であって、それは恋愛とは別のものではないか。恋愛感情を持たない相手でも性行為の快楽はあるだろう。つまり、性行為は恋愛の絶対条件ではない。むしろ時によっては恋愛感情を終わらせるものだ、というのが私の考えである。
いや、これは思いつくままに極論を書いているのであり、性行為によって恋愛感情がさらに高まることもあるだろうし、結婚してもなお恋愛状態が続くという羨ましい夫婦もいるとは思う。
だが、性愛はそれとは別だろう。性愛に関しては、結婚して数年も経てば新鮮味は無くなり、配偶者への性欲もほとんど無くなるのではないか。それは、夫や妻への愛情自体が無くなるということではない。単に、性交相手として飽きるというだけのことだ。
性欲というのは不思議なもので、インモラルな条件でこそ性欲は極度に高まることが昔から知られている。「一盗二婢三妾」というのがそれだ。他人の妻、下女、妾の順に興奮度が高いということである。女性の場合はどうか知らないが、浮気や不倫の場合にいっそう興奮度が高まるのは同じなのではないか。
話が長くなったので、性愛以外の問題はまた別に考察したい。







LGBTを「趣味」「嗜好」としてはいけないか

 さて、LGBTを「趣味」とする表現について最後に一言だけ。

 LGBは「性的嗜好」だと言われることがある。そして「嗜好」を辞書で見ると、「たしなみ、好むこと。趣味。特に、飲食物についての好み」(大辞林)とある。つまり「嗜好=好み=趣味」だということになる。

 「私はAさんが好きです」と言ったとき、「えー、あんなのが趣味なんだー」と言われたりする。「趣味」を辞書で引けば「2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(大辞泉)とあり、そういう意味で「趣味」なのである。


 この部分に関して、ことさら「LGBは性的嗜好preferenceではなく性的指向orientationである」として反論する向きがある。反論しようとするあまり、LGBは生来的なもので、変えようがないものだという側面だけが強調されてしまうこともある。


 性的指向といった場合、性愛の方向がそういう性に向いているか、という大きな方向性の意味であるのに対して、性的嗜好といった場合、誰の、どんな特徴を好むのか、というまさに対象そのものの意味であるといった違いがある。言い方を変えれば、「指向」は性別について方向を示すのみで、分類のためのニュートラルな表現であるのに対して、「嗜好」は「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」といった具合に個別性が強くなる。そのような意味で「指向」を使ったほうが、ニュアンスを交えずに中立的に表現ができるように思える。

 しかし、LGBの人の性愛のありようを「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」という「嗜好」の一つだといって何も問題はないのではないか?

 「Aさんという個人をかけがえのない人として好きになったが、それがたまたま同性だった」という場合、方向付けを表す「性的指向orientation」よりも「性的嗜好preference」で表現した方がむしろしっくりくる。

 LGBが生来的なものか、変えようがないものかどうかに至っては、二の次の問題ではないのか。自分の同性愛が生来的なものだと決めつけることもできないし、逆に後天的なものだと決めつけることはできないだろう。将来のこともわからないから、変わるかどうかなんて誰にも変わらない。杉田水脈の言うように、同性愛は人生上の一過性のものであるかもしれないが、他方で、一過性であるとは決めつけられないのもまた事実である。


 「嗜好」「趣味」という言い方は、「特に、飲食物についての好み」と辞書にあったように、例えば今日はカレイにするか、サンマにするか、というほどのニュアンスに聞こえる。自分の気持ち一つで変えられるのだ、と。

 そういう恋愛もないとは思わない。

 他方で、「Aさんをやめて代わりにBさんを愛しなよ」と言われて、「はいそうですか」と代替できない場合があることもまた事実である(というか、統計的にはおそらくその方が多い)。趣味として、好みとしてAさんが好きだったとしても、Bさんに替えられるわけではない……という人が事実として存在する以上、その恋路は邪魔できないし、結婚することも妨げられない。

 「嗜好」や「趣味」だから軽いというわけではなく、「嗜好」や「趣味」に基づく感情・性愛であっても個別の、代替不可能な、かけがえのなさを含んでいることはあるのだ。

 だから、「性的嗜好」と表現することや「趣味」と表現すること自体に、ぼくはあまりかみつく必要はないと思っている。


 タイトルの問い(LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか)の(ぼくなりの)答えをまとめて言えば、「趣味」「生産性」で論じることはありうるのだ。

 言いかえると、

(1)LGBTは「趣味」である人も、「趣味」でない人もいる。しかし「趣味」であるからといって法律婚が認められないのはおかしい。LGBT法律婚から排除するかどうかの問題は、少なくとも「趣味」の領域ではない。

(2)生産性がない人というものは存在するけど、生産性がないからといって尊厳が奪われていいわけがない。生産性の有無で尊厳を論じるのは間違いだ。他方で、性的少数者の多くは経済的な生産性があるのに「ない」と言われているのはおかしいのではないか――

となる。

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男女の知性と社会的環境

まあ、「男はああだ」「女はこうだ」という議論そのものが間違っている気はするが、「女に学問はいらぬ」というのは、女は家庭で子供を産み育て、家族の食事など生活全般の面倒を見るのが当然という考えであっただけで、「平等に学問をやらせたら、男はバカだということが分かってしまうのを恐れた」というのは無いだろう。実際、バカは男にも女にも必ず大量にいるのであり、男が女より馬鹿ということはない。
最近の男が女より学業成績が悪いのは、男には思春期に性欲が最高度に高まるという弱点があり、また、あらゆる遊び事が容易に手に入りやすくなっているので勉強になかなか専念できないのだと思う。女は「人生のピークが短い」ことを知っているから、若いころに真面目に勉強などして一生の足掛かりをつかもうとするから成績のいい子も多くなるのではないか。
男が若いころに思慮が足りないのは確かだが、それは知性が低いということではなく、それが許容される環境がある、つまり、年を取っても逆転はできるという安心感があるからだろう。






さんがリツイート

今考えたら、明治・大正時代に「女に学問はいらぬ」と言って女性に勉強させなかった男どもは、実は平等に学問をやらせたら、男はバカだということが分かってしまうことを恐れていたのかも知れない、と真面目に思いました。



東京タワーの上で眠る怪獣

「ガメラ」シリーズは、亀が火を噴いて空を飛ぶという設定があまりに馬鹿馬鹿しくて一度も見なかったが、下のスチル写真は名シーンだと思う。ギャオスが東京タワーの上で眠りに就く場面のようだが、怪獣が眠る(生き物である以上、眠りを必要とする)ということの圧倒的なリアリティに、夕暮れの背景が幻想性を加えて絶妙である。
「モスラ」が繭を作る場面といい、怪獣映画と東京タワーは実に親和性が高い。










粘着テープの性能と気温

粘着テープは色々あるが、それらには「〇〇度以上になると使えません」という注意書きはあるのだろうか。下のツィートだと、おそらく40度近くなると粘着能力が無くなるのだろう。(車内気温と同様に、エアコン無しの室内気温は外気温より高くなるとしたら、45度以上か。)





仕事場に人がいない日は当然エアコンを止めているわけだが、その間に暑さで粘着テープが溶けて、アニメ関係のポスターが落下しまくる。



「さよならクリストファー・ロビン」のポスター

これは、実話にもとづく映画のようだが、ミルンの「くまのプーさん」のイメージを見事に表現したポスターである。特に背景の木々がシェパードのタッチで素晴らしい。ミルン作品を本当に好きなスタッフが作った映画であることがよくわかる。
なお、クリストファー・ロビンはミルンの童話の中で実名で「出演」させられたため、いじめを受け、父親とも不仲になったという。しかし、「くまのプーさん」によってその名前はミルン以上に不朽のものになったわけだ。