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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

蜂蜜とスプーン

まあ、何に対して蜂蜜を使うのかによるが、たとえば紅茶に蜂蜜を入れるとかだと、油は厳禁だろう。つまり、飲み物の場合は無理。料理に蜂蜜を使うこともなさそうだし、せいぜい菓子作りくらいか。それだけに限定されるとしても、有益な知識かと思うので、拡散しておく。



ということはテフロンさじがあれば油を塗らなくても同様の効果が見込めるはずだけどありそうでまだないな…

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男と女の違いの大半は作られたもの

この写真を見ると、男の顔と女の顔は同じだと分かる。化粧をし、女装をするから女は女に見えるのだ、と思うべきだろう。我々男は女が化粧をしたりハイヒールをはいたりするのを「偽装工作だ」と内心では思っているが、まあ、それでこそ女性が女性に見えるわけである。
なお、下の写真が誰か私は気付かなかったが、内田有紀らしい。もともとボーイッシュな髪型が似合っていたが、それは顔自体が男顔であるからかもしれない。
なお、私はショートカットの髪型は好きだし、ボーイッシュな女性も好きだが、マリリン・モンローのような「ベビーフェイスグラマー」も好きである。グラマーにはアホ顔がよく似合う。ジェーン・マンスフィールド的な乳牛タイプのグラマーは嫌いだ。いずれにしても、日本女性の体型は男とさほど違いはない。タレントやグラドルの胸のほとんどはシリコン手術か上げ底胸だと思うwww 



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母性愛と所有権

この記事には被害者安奈ちゃんの送迎の人のことが書かれていないが、まさか2歳児がひとりで保育園に通っていたわけではあるまい。送迎は普通母親がやると思うが、その母親は事故の時、どこにいて何をしていたのか。仮に、子供から目を放して知人の母親とお喋りなどしていたとしたら、被害者はむしろ車を運転していた女性だと言っていい。というのは、2歳児の大きさだと、角を曲がった直後の運転席からは死角になっていて見えないだろうからだ。
幼児を連れて外出した母親が、買い物や他の女性とのお喋りに夢中になっていて子供から完全に目を離している姿はよく見かける。そういう姿を見る度に、危ないなあ、と私は思ったものだ。

この事件の場合にはどういう状況か分からないが、女性の母性愛というのは、「自分が産んだもの」への所有権意識と不可分であり、「自分のもの」なのだからと、結構自分自身ではいい加減な扱い(たとえば、子供自身の意思を無視するなど)をすることが多い。それでいて、他人の手でその所有権が侵されると(嫁姑問題がその代表だが)極端に怒り狂うのである。


現場付近を調べる大分中央署員ら(画像を一部加工しています) © 大分合同新聞 現場付近を調べる大分中央署員ら(画像を一部加工しています)

 24日午前7時35分ごろ、大分市古国府の「こおりん保育園」につながる私道で、同市南太平寺、看護師矢野亜矢さん(41)の乗用車が登園中の同所、吉野杏奈ちゃん(2)と接触した。杏奈ちゃんはその場に倒れ、市内の病院に運ばれたが頭の骨を折るなど意識不明の重体。大分中央署は、矢野さんから話を聴くなどして原因を調べている。

 同署によると、私道は幅約4メートル。矢野さんは自分の子どもを送迎した後、駐車場から左折し、私道に出た直後だった。

 現場は、一軒家やアパートが立ち並ぶ閑静な住宅街。近隣住民の話では、保育園には毎朝、送迎する保護者の車や通園バスが出入りするという。





集団の成員を一括りに捉える愚

そもそも、関東とか関西とか一括りにしていいのか、と思う。関東も関西も広い範囲であり、素朴な関西人もいれば口から先に生まれたような関西人もいるのではないか。
私は京都に数年前に来たが、京都市内の人と京都郊外の農家の人では性格がまったく違うように思う。大阪人も無神経で図々しいというのは一部の底辺層だろう。吉本新喜劇がそういう芸風だから大阪人がそうと思われてしまうのは気の毒である。だが、笑いに関しては大阪出の人は鋭いセンスがあると思う。小松左京や筒井康隆などは大阪だし、漫画家ではあずまきよひこなどもそうだと思う。
大阪弁そのものが、最初から「笑いを内包した言葉」のようにすら思う。つまり、言葉が「ボケとツッコミ」の対応に適しているわけだ。これが東北だと、太宰治や宮澤賢治は素晴らしいユーモア感覚を持っているのだが、言葉自体は東北弁だから面白いという作風ではない。あくまで基本は標準語であり、その笑いは、語る内容のユーモアである。
ただ、大阪の人同士の会話が本当に常に「オチ」があるかというと、そんな才能があれば、誰もが芸人になるだろう。他府県人よりは会話のテンポがよく、お互いのからかいや他者への嘲笑が多いという程度ではないか。それを大阪弁で言うと漫才風に聞こえるだけの話で、その内容はからかいと嘲笑という、あまり品の良くないものである可能性が高いと思う。ただし、大阪もいろいろであり、私の知っていた大阪の人は、実に穏やかで優しい、上品な家族だった。まあ、要するに、東京だの大阪だの、一括りに論じるのが間違いだ、ということだ。黒人がみんなスポーツ万能で、巨根で、リズム感が良く、頭は空っぽというわけでもないのと同じだwww なお、頭が空っぽというのは「無駄に悩まない」と言い換えてもいい。ただし、それがアフリカ大陸が白人に蹂躙された何百年の歴史の原因でもある。(現在も、白人社会で黒人はスポーツと芸能関係でしか上に行けないはずである。)




「関東は話にオチがない」っていうけど、 そんなに日常の会話にオチって必要なの?

何を書いても構いませんので@生活板71
http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1547809167/
※本スレに書き込む場合は>1をよく読み、ルールを守って書き込みをするようにお願い致します。

何を書いても構いませんので
156: 名無しさん@おーぷん 2019/01/22(火)16:19:47 ID:Gky
関西人のツッコミ話が出てきたけど、私は関東の人間で現在は中部地方に住んでる。
職場に関西の男の子と女の子が新しくやってきて、関西人が皆んなツッコミ出来ると思うなという
先の書き込みは個人によるものだから理解できるんだけど
上記の職場の関西人二人組と関西人上司がしょっちゅう「関東の人は話にオチがない」
「関西人は話にオチがあるのが当たり前。関東人は話がつまらないし広がらない」と言ってきては
盛り上がってる。
よくテレビの芸人たちも「関東は話にオチがない」っていうけど、
そんなに日常の会話にオチって必要なの?
関西人同士の会話を聞いてても別にオチのある会話してないんだけど・・・
関西人のオチのない会話はオッケーで関東人のオチのない会話はダメなの?


そして関西の男の子と上司が「関東の男が「~だよね?」「~しますね」とか言ってるの聞くと
オカマに思えてキモい、こないだ東京でタクシーの運転手が◯までですね と言ってきて
オカマくさくて身の危険を感じたわ」と言ってる。
これがオチってやつなの?オチって面白い終わりという認識だったけど、
これはただのイチャモンと受け取ってたけど違かったのかね。

兵庫に住んでた時も関東はオチがないって、色んな人にしょっちゅう言われてきたから
会話にオチが大事と言ってる人に「あなたも会話にオチないじゃん」と指摘すると
「関西人が皆んなお笑いのセンスがあると思うな、こうやって関東人は関西人の誰もが
お笑いのセンスあると勘違いしてきて困るわ」と言ってきて、えぇ・・・ダブスタ・・・となる。
会話のオチや笑いがないと言ってくる割に、こちらがそれを求めると
自分はお笑い芸人じゃない関西人みんなオモロイと思うなよ となるのが解せない。

157: 名無しさん@おーぷん 2019/01/22(火)17:12:28 ID:m4g
>>156
関東の人間に関西人気質を求めること自体お門違いで無意味。
オチだのボケツッコミだのうるさいヤツに限ってクソ面白くない中身のつまらんヤツらばっかり。


学校という理不尽と強制の場

学校というのは理不尽と強制の巣窟みたいなものだが、体育座りなどもその一つだろう。だいいち、学校の「客」である生徒たちを地面に座らせること自体、おかしな話だ。ひどい場合には父兄を地面に座らせることすらある。私の子供が通っていた小学校の学芸会で、体育館に教師や来賓のための椅子は並んでいたが、観客の父兄は体育館の床にそのまま座らされた。私は怒って抗議したいと思ったが、「子供を人質に取られている」から、抗議もできなかった。まあ、臆病者だというだけの話だ。これも昔のことで、その子供も今では成人している。



体育座りは専門家や教員から「子どもたちの身体への負荷が少ない座り方を取り入れるべきでは」


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1: 茗荷 ★ 2019/01/22(火) 11:55:09.42
体育の授業や全校集会など学校ではおなじみの「体育座り」。場所を取らない、手の位置が安定するなどの利点があるが、子どもたちからは「お尻や腰が痛い」「窮屈だ」との声も聞かれる。専門家や教員からは「子どもたちの身体への負荷が少ない座り方を取り入れるべきでは」との声が上がっている。 

 「ずっと体育座りをしていてお尻が痛かった」。東京都内の小学五年生の女子は昨秋の運動会の後、母親にこう訴えた。例年は椅子に座るが、本年度は他校のグラウンドを借りたため、長時間地面に座らなくてはならなかった。

学校で体育座りをするのは、体育の授業などで短くても数分、全校集会などでは一時間近くになることもある。日本身体文化研究所代表で武蔵野美術大講師の矢田部英正さんは「膝を抱え込む座り方は、内臓が圧迫され、座骨への刺激や腰への負担も大きい」と指摘。特に体の大きな子には負担が大きく、「子どもたちの姿勢が持続するのは五、六分が限界では」と話す。
 
 「体育座りは一九六五年に文部省(現・文部科学省)が学習指導要領の補足として発行した『集団行動指導の手びき』で『腰をおろして休む姿勢』として紹介され、全国に広まったようだ」と矢田部さん。手引の留意事項には「必要のない場面で画一的な行動様式を強要することは決して望ましいものではない」と記されており、文科省も「体育の授業などでの座り方として、体育座りが絶対ではない」としている。
 
 にもかかわらず、なぜ体育座りは長年主流になっているのか。東京大教育学部付属中等教育学校で保健体育を教える浅川俊彦教諭は、子どもたちの体の負担や自由度を考え、体育座りをさせていない。しかし、「教育現場では、いったん『標準』として導入されると教員は思考停止しがち。子どもたちにとってより良い方法は何かを考えなくなってしまう」と背景を分析する。
 
 矢田部さんは「一つの座り方が標準とされることで、より良い座り方が禁止されてしまうのは問題。現場レベルで柔軟に対応していくことが重要では」と助言する。
 
◆楽で集中できる方法を
 長時間床に座るのにはどんな座り方が適しているのか。矢田部さんが勧めるのは、あぐらの足先を床に着けて座る安座や、安座の片方の足を立てて抱える楽立膝(らくたてひざ)だ。おなかが圧迫されず、背筋も伸ばしやすい。
 
 また、椅子に座ることが多い現代の子どもたちは、下半身の関節が硬くなっていることが多い。矢田部さんは、「日ごろから足をマッサージしたり、畳やフローリングにじかに座る時間をつくってみては」と提案。「幼少期に体が楽で集中していられる座り方を手に入れることは、大人になってからもさまざまな場面で役立ち、人生の大きな財産になる」と話す。

ソース
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201901/CK2019012202000198.html