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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ドライマウス

私も最近、起床時に口の中が異常に乾くので、何かの病気かと思っていたが、60歳以上の人間の40%以上がそうなるということなら、単なる老化現象と見ていいだろう。ネットは、こういう有益な知識を与えてくれる。
だが、その一方では、糖尿病や腎臓病でも口が乾く(糖尿病では「喉が渇く」らしく、これは口の渇きとは違うはずだが、どうなのか。)とか書いてあるサイトもあり、こういう健康情報はかえってストレスを増やしたりする。



ドライマウスと唾液の働き

[ 編集者:歯学部附属病院   2014年11月10日 更新 ]

最近、口が渇いていることを示す「ドライマウス」という言葉を、テレビや雑誌などでも目にすることが多くなってきました。

ドライマウスと唾液

 

唾液とは

 

我々の調査によれば、60歳以上では、食事中に約10%、朝の起床時には約40%もの人が口の渇きを感じています。

唾液は、咀嚼、嚥下、発音、味覚といった口の働きを助け、呼吸器官と消化器官の入り口で、病原菌から身を守る生体防御としても重要な役割を果たしています。
もちろん歯の表面の細菌や付着物を洗い流し、虫歯や歯周病を防ぐ働きもあります。

唾液は口の中の空気の様な存在で、普段意識することはあまりないでしょう。
しかし、少なくなって初めてその重要性に気付きます。

唾液がないとどうなる?

では、唾液がなくなったことを想像してみましょう。

例えば、唾液がないとすれば、噛み砕いた食物を飲み込みやすいおかゆの様な状態にする(これを食塊形成と言います)ことが困難になります。
味を感じるのも、味覚物質を溶かし出す唾液のおかげです。

唾液減少に関連した臨床症状により、下記のような困ったことが起こります。

・口腔乾燥感:口が渇く、つばがネバネバする
・味覚異常:味がしない、わからない
・咀嚼障害:よく噛めない、噛みにくい
・嚥下障害:飲み込みにくい、のどが詰まる
・発音障害:しゃべりにくい
・口臭が強い
・粘膜が傷つきやすい、義歯をつけると痛い
・歯垢が付きやすい

原因と対策

 

よく噛むということ

 

 

唾液減少の3大原因は、加齢、常用薬剤の副作用と噛む力の低下であることが我々の研究から分かってきています。

じっとしている時(安静時)には唾液が少ない人も、食事中によく噛めば(咀嚼時)唾液が出ることがほとんどです。

適切な歯科治療を受けて、何でも良く噛んで、唾液分泌と健康の維持に努めましょう。
我々の研究結果より、咀嚼時は、安静時に比べ、若年者(平均年齢23.8歳)では約6.5倍、高齢者(同73.3歳)では約9倍もの唾液が出ることがわかりました。




性犯罪への最近の「不可解判決」の理由

前の記事に関連して文春オンラインの記事を転載。裁判所・警察・加害者(男性)寄りの視点の記事だが、こういう見方もある、という例として保存する。しかし、こういう記事は「らめーん」などというふざけたペンネームではなく実名で書くべきだろう。

(以下引用)

 今年3月、性犯罪事件の無罪判決が相次いだ。

 1つ目は、福岡地裁久留米支部での準強姦事件。女性がテキーラ等を大量に飲まされたことによって酩酊(めいてい)し、抗拒不能状態にあったことは認めたが、外部から見て意識があるような状態だったと認められるため、男性には「抗拒不能」の認識がなかった、事件が起こったサークルのイベントでは度々わいせつな行為が行われており、女性から明確な拒絶の意思が示されていなかったために、「女性が許容している」と男性が誤信してしまうような状況にあったという理由で無罪となった。

©iStock.com © 文春オンライン ©iStock.com

 2つ目は、静岡地裁浜松支部での強制性交等致傷事件。被告人の暴行脅迫が女性の反抗を著しく困難にする程度であったことは認めたが、女性が「頭が真っ白になった」などと供述したことから、女性が抵抗できなかったのは精神的な理由によると認定し、「被告からみて明らかにそれと分かる形での抵抗はなかった」として、被告人が、被害者の拒絶を認識していないことを理由に無罪となった。どちらの判決も、被告人の故意を否定するものである。

 3つ目は、静岡地裁での強姦事件。当時12歳の長女を強姦したという主張に対し、裁判所が被害者の供述の信用性を否定したものである。

一見理不尽に見える判決が続いた理由

 なぜ近い時期に、似たような事件で無罪判決が続いたのか。私は、性犯罪事件の被害者参加弁護士などを務めた経験などから、2017年の刑法改正の際の議論が、捜査実務に影響を与えたのではないかと思っている。

 以前なら、警察が捜査せず、検察が起訴しないようなケースであっても、最近は警察が動き、検察が起訴することが増えているのではないか。これまで起訴されなかった件を検察が起訴する一方で、裁判所の判断の基準が以前どおりであれば、無罪判決は増える。

 こうした事情に踏み込む前に、まず強姦罪・強制性交等罪の前提知識について説明したい。

強姦と強盗の比較は妥当か

 昔から「強盗」と「強姦」を比較する人は多い。2017年の刑法改正も、強姦罪の刑の下限を強盗罪と同じにすることが出発点だった。強姦罪と強盗罪は、たしかに似た部分もあるが、同時に大きく異なる部分もある。

 強姦罪の成立には「暴行脅迫」が必要だ。この「暴行脅迫」の内容は、犯罪によって異なる。強姦罪の「暴行脅迫」は、判例上「被害者の反抗を著しく困難にする程度」で足りる。

 強盗罪の成立にも、「暴行脅迫」は必要だ。ただし、強盗罪の成立に必要な「暴行脅迫」は、判例上「被害者の反抗を抑圧する程度」である。

 成立に「被害者の反抗を抑圧する程度」の「暴行脅迫」が必要な強盗罪と比べれば、「被害者の反抗を著しく困難にする程度」で足りる強姦罪の「暴行脅迫」は、やや軽くてよいようにも思われる。

 ところが、強姦罪・強盗罪はともに個人的法益に関する罪である、というのがトリッキーな点だ。

強姦では「同意があったか」の判断が難しい

 個人的法益に関する罪は「被害者の同意」があれば違法ではない。強盗罪では、財産を渡すことに同意していれば適法であり、強姦罪も性交に応じていれば適法である。

 社会通念上、財産を譲渡する際には、文書等で記録を残す、最低でも口頭で合意するなど、客観的に明確な合意があるのが普通である。

 しかし、性交に文書で同意する人はいない、口頭でも「性交しましょう」「そうしましょう」などと、明らかな合意をしないことのほうが多いだろう。そこで、強姦の場合、「被害者の同意」は、いろいろな客観的事情を見て判断するしかないのである。ここに強盗と強姦の大きな違いがある。

 では、性犯罪の裁判で「被害者の同意」はどうやって判断されているのだろうか。実務上、強姦罪の「暴行脅迫」は、「被害者の同意」と表裏に扱われている。つまり、暴行脅迫の程度と、被害者の抵抗の程度によって「被害者の同意」の有無が判断されているのだ。

 ことに警察段階では、「ここまでボコボコにされたのに『被害者の同意』もヘチマもないだろう」「このレベルの暴行脅迫で、被害者が抵抗をやめたということは、同意があったのではないか」などと判断されている。

ワザとやっている、という認識がなければ罪に問えない

 もうひとつ難しいのは、強姦罪が故意犯だということだ。刑法では、原則的に、犯罪行為の認識認容が必要である。言い換えれば、ワザとやっている、という認識がなければ罪には問えない。過失犯は法に特別の規定がなければ犯罪とされない。

 たとえば「ビニール傘を傘立てにさしてお店に入った。帰る時に自分の傘を持って出たはずなんだが、よく見ると他人の傘のようだ」という事例は犯罪にならない。それは、窃盗罪が故意犯であり、法律に過失窃盗を処罰する規定がないからである。

「ワザと強姦した」はどう判断されているのか

 強姦罪の故意は、「被害者の反抗を著しく困難にする程度の暴行脅迫をしている認識」だけでなく、「被害者の同意がないこと」の認識が必要である。

「被害者の同意」も「強姦の故意」も内心の問題であるから、非常に立証が難しい。これまで強姦罪を立件する際に一番難しかったのは「被害者が同意していないと、加害者は認識していない」ケースであった。

 実務上は、強姦の故意も、暴行脅迫要件と表裏で扱われる。言い換えれば、暴行脅迫の程度と、被害者の抵抗の程度によって「強姦の故意」の有無が判断されている。「こんなにボコボコにしないと性交できないのだから、『被害者が同意していたと認識していた』という言い訳は通らない」「このレベルの暴行脅迫で性交できたのだから、被害者が拒否していたことを、加害者は認識できないだろう」などと判断されるのだ。

 従来、「被害者の同意」が争われるケースは、相当苛烈な暴行脅迫がないと、警察は捜査を開始してくれず、検察官も起訴してくれなかった。

 しかし、2017年7月、刑法が改正されて、強姦罪が強制性交等罪となった前後から、警察の捜査開始のハードル、検察官の起訴のハードルが下がっているように感じている。

捜査や起訴開始のハードルが下がっている理由

 強姦被害者は、特殊な心理状態となり、通常のシチュエーションなら反抗できるような暴行脅迫であっても、擬死状態といって身体が固まってしまい、反抗できなくなるということが、心理学的な研究などで知られている。被害者団体は、被害の実体験を基に、強姦罪から暴行脅迫要件を撤廃することを求めていた。

 2017年7月、刑法は改正されたが、暴行脅迫要件は残った。

 しかしながら、改正に対する衆議院参議院の附帯決議の中に、「暴行脅迫」「抗拒不能」の認定について、警察官、検察官及び裁判官に、「性犯罪に直面した被害者の心理等についての研修を行うこと」が盛り込まれた。

改正後に見られた変化の数々

 改正後、この附帯決議に基づく変化が確実に表れている。たとえば、今年の1月には、法務省が、警察も把握していない「暗数」を含めた犯罪被害調査を始めた。2月には、最高裁が、精神科医の講演録などをまとめた研修資料を全国の裁判所に配布したニュースがあった。

 研修の内容は、現段階では、発表されていない。しかし、著名な検事は、改正後の論文で、「被害時には、高度のストレスにより、ドーパミン・ノルアドレナリンなどが過剰に放出されることにより、脳の高次機能が停止し、より原始的な生存戦略として、擬死状態・迎合反応を示す」「検察官は、これらの脳科学的知見を精神科医など専門家の助力を得て立証し、裁判所・裁判員の『経験則』にしてもらわなければならない」と述べている。

 また、改正後、この附帯決議を非常に尊重した判決がよく出ている。こうした判決が出ると、警察や、検察の動きはどう変わるのか。「このケースでこの判決が出るのならば」と、以前であれば起訴・捜査しなかったケースに対しても、起訴・捜査することが増えるだろうと考えられるのだ。

今後、性犯罪裁判での判決はどう変わるのか

 今後は、強姦被害者の擬死状態などについて、脳科学的知見からの立証活動が進むことにより、従来よりは軽い「暴行脅迫」であっても「被害者の反抗を著しく困難にする程度」であることが認定されるケースが出てくると予想している。

 また、これまで暴行脅迫の程度と、被害者の抵抗の程度によって「故意の認定」が行われているのだから、暴行脅迫の内容が変化すれば、故意の認定に必要な事情も変動すると思われる。そして、これまで起訴・捜査されなかったようなケースの起訴・捜査が増える以上、性犯罪に関する判決では、今後数年は無罪判決が増えるであろう。

被害者心理に関する裁判所の知識が増えれば、判決は変わる

 冒頭に述べた無罪判決のうち、久留米支部のものは、被害者に大量のテキーラを飲ませた者と、性交した者が別であることが、後の報道で判明した。非常に特殊な事案であり、法改正とは無関係に、たまたま無罪判決がなされた可能性が高い。

 浜松支部の事件は、性犯罪被害者の心理に関する裁判所の知識が、判決に影響を与える可能性が高いケースである。性犯罪被害者の心理に関する知見が深まることによって、有罪とされる可能性があると、私は考えている。

 静岡本庁の事件は、被害者証言に変遷があったことが、裁判所が、被害者証言の信用性を否定する理由の一つとなった。性犯罪被害者の場合、事件直後は「解離」という症状が起こり、事件の記憶が真っ白になってしまうことが多い。このことは、性犯罪被害者の治療をしてきた精神科医にとっては、常識レベルの知見である。

 性犯罪被害者は、適切な治療をすることにより、記憶自体が変遷することがあるという知見が、裁判所の「経験則」となることにより、やはり有罪となる可能性があるように考えている。

過渡期のいま、大事なのは歩みを止めないこと

 ネットでは、この3件の無罪判決について賛否が吹き荒れ、SNSでは「レイプ天国日本!」などという声も見られた。

 しかし、2017年7月の刑法改正には、政府が3年を目途に実態に即した見直しを行うとする「附則」が入った。現在は、「性犯罪に関する被害実態調査」が行われ、被害者団体・ワンストップ支援センターへのヒアリングもなされている。現在は過渡期なので、性犯罪被害者の心理状態を正しく把握した判決も出れば、そうでない判決も出るであろう。大切なのは、3年後の見直しに向けて歩みを止めないことである。 

(らめーん)

家庭という密室

性犯罪というのは基本的に密室内の出来事で、証人が加害者(被疑者)と被害者(告発者)しかおらず、判断が非常に難しい法的問題である。被疑者が、相手の合意があった(和姦だった)と思い込んでいても、後で告発者が「強姦された」と言えば、疑惑の晴らしようはなく、被疑者は社会的地位を失うことになる。逆も当然あるわけで、告発者が「強姦だった」と主張しても、裁判所は「和姦、あるいは虚偽の告発である」と認定したら終わりだ。まあ、簡単に言えば、女が男と密室内にふたりでいたら合意があったと見做されて仕方がないわけだが、同じ屋根の下に住む人間同士の強姦による近親相姦だと避難は不可能になる。基本的には、長い間身近に暮らしていると異性であっても家族への性欲は無くなり、家族愛しか無くなるのだが、世の中には野獣以下のケダモノ的人間もいる。
まあ、こうした事件が表面化してくると、結婚制度そのものが価値の減少を来し、少子化はとめどなく激化していくだろう。オールダス・ハックスレーのSF小説(「素晴らしき新世界」)のように、子供は試験管ベビーとして生まれ、国家が育てる時代も遠くはないかもしれない。



さんがリツイート

最近毎日のようにニュースになる性的虐待者への無罪判決があまりにも納得がいかず調べてみたら、この改正時に専門家が指摘していた問題点であり、危惧していた通りの判例だということが分かった。
次の見直しの際にこの点が反映されるか注視しなければ。


“暴行・脅迫”が証明できなければ罪に問えない

一方で、上谷さんは不十分な点も残ると指摘します。そのひとつが「加害者にはっきりとした“暴行又は脅迫”があったことを証明できなければ、罪に問えない」という点です。

「判例で、(暴行・脅迫とは被害者の)反抗を著しく困難ならしめる(程度のもの)と言われていまして、これが非常にハードルが高くてですね。被害を受けた側からすると、反抗が著しく困難なんだけれども、客観的に見るとそうじゃないとされてしまうことも多いんです。例えば、ちょっと肩をつかむとか、ドンと押し倒すとか、それが暗闇であったり周りに人がいないだけで、被害者としては怖くて反抗が困難です。しかし、『そのくらい頑張ったら逃げられたんじゃないの?』というふうにとらえられてしまって、結局“暴行・脅迫”の要件を満たさないというケースがとても多いなと思います。そこで泣き寝入りしている人の数がとても多いんですね。ですから要件を緩和するとか、別の新しい罪を作るべきではないかとか、いろんな意見があります。そこが結局なんら手当されることなく、今回の改正で反映されなかったことは非常に残念だと思っています。」(上谷さん)







サイン盗みは誰にとってメリットがあるか

「野球の記録で話したい」から転載。
私は、罰則を伴わないルールには実効性は無いと思っている。(道徳の禁止条項にも罰則は無いが、道徳を破ることのデメリットを知れば、人は道徳を守るようになる。)その代表が野球の「サイン盗み」である。これには罰則規定はない。ただ、審判が容疑者に注意するだけである。ここで容疑者と書いたのは、サイン盗み自体が「証拠が示しにくい」ものでもあるからだ。二塁走者が不審な動作をしたからといって、それがサイン盗みかどうかは証明不可能だろう。それに、たとえば「次はアウトコースだ」と二塁走者から伝えられた打者が外角に踏み込んだところに内角の球が来たら、デッドボールになる。つまり、命に関わる事故の可能性がある。要するに、サイン盗みが得かどうかと言えば、疑われ、世間の批判を受けてまでやる価値はない、と私は思うが、甲子園での勝利に監督としての評価がかかる「プロ高校野球監督」からしたら、やりたくなるのは確かだろう。甲子園決勝で相手チームのサインを完全に見抜いたら、私なら選手にそれを伝えるか、ベンチからサインを送って、相手サインを利用する。
それは野球の戦略のひとつであり、それができるのも力量である、と私は思う。
つまり、野球というか、スポーツが勝利をめざすものである以上、特にカネがからむと勝利至上主義になってしまうのは宿命的だと私は思っている。逆に言えば、高校の部活が勝利至上主義になるなら、それは「教育的には好ましくない活動」だと私は思う。勝利のためなら何でもする、というのは、カネのためなら何でもする、というブラック企業と同じである。そして、野球をする子供の多くは、将来の人生設計のジャンプ台として野球と甲子園を考えているのは明らかだ。甲子園野球は道徳性向上のために行うのではなく、選手たちが「自分を高く売る」ための舞台なのである。
そこで再びサイン盗みを考えると、脇役選手たちには、サイン盗みをするメリットはなく、監督やスター選手だけにメリットのある行為だ、と結論できるだろう。
そしてスター選手は自分の力で評価を得られるから、優勝に近づく以外には、サイン盗みにさほど大きなメリットもない。「何が何でも優勝して監督としての評価を上げたい」監督だけにメリットはあるわけである。
こういうメリットとデメリットを子供に教えるなら、監督からサイン盗みを命令された子供は、その監督を馬鹿にし、あまり真剣にサイン盗みをしなくなるだろう。
妙に「スポーツマンシップ」「フェアプレー精神」などときれいごとを言うから子供は嘲笑するのである。法も道徳も、もともと損得の観念(合理性)から生まれたのであり、不法や不道徳は低レベルの得でしかないのだ。それを破ることが「長い目で見れば自分の人生をかえってダメにする」から人は法や道徳に従うのである。




(以下引用)


「サイン盗み」が禁止されているのは、「スポーツマンシップ」に反しているからだ。
「スポーツマンシップ」の定義もいろいろあるが、ウィキペディアには
「スポーツをすること自体を楽しみとし、公正なプレーを尊重し、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって行われる活動であるという姿勢」
とある。

ポイントは、「相手に対する尊敬や称賛」だ。スポーツにとって絶対に不可欠なこの部分に照らして、「サイン盗み」は、決定的にアウトなのだ。

そのことに言及する指導者が一人もいなかったのは本当に残念だ。

高名な高校野球ライターである安倍昌彦さんまでが
「サイン盗み経験者だからわかること。利は少なく損は多い、やめなさい」
と言っているのも残念だ。

みんな自分にとって何らかの意味で「損」だからやめようといっている。それは裏返せば「サイン盗みが何らかの意味で『得』になるのなら、やる」ということである。

本来、スポーツマンシップ、つまり精神性やモラルに照らして論議すべき「サイン盗み」を、損得論の次元でやっているのだ。「勝利至上主義」に毒されているとしか言いようがない。

そうではなくて、「サイン盗み」は、スポーツ、試合をするうえで絶対に必要な「対戦相手へのリスペクトがないから、ダメだ」という指導者が一人もいないことに、暗澹たる思いがする。

来年は、東京五輪がある。スポーツの本質に無理解な指導者ばかりで、大丈夫だろうかと思う。