父と母のことを考えた。
昔、顔も知らないのに宮古中学校(今の宮古高校)で1番優秀な生徒、つまり四年連続唯一の特待生と聞いて、”私の夫は与那覇勇吉にする”、つまり後の中山勇吉と決めた母を、これまた友達が、”勇吉、〇〇家(当時の料亭)の美人の光子がお前と結婚すると言っているよ”、と言うので、ある日父は物陰に隠れて母が現れるのを待っていると、現れた母の姿があまりに美しくて度肝を抜かれ、それから大分経ってから、母に、”俺は勇吉だけど、俺と一緒になってくれるか”、と告白すると、母は、”それではちゃんと食べていけるだけの仕事についてから会いに来てください”、と言ったようだ。
有頂天になって父は早速警察官になり、持ち前の頭の良さと宮古でも有数の柔道の強さでどんどん昇進して、最年少の警部となり、多分その頃に晴れて光子と結ばれたと思われる。
その頃の上司が、あのオリオンビールを作った具志堅そうせいで、警察署長としてとても勇吉を可愛がり、その付き合いは父の死ぬまで続いたのだ。
戦時中は陸軍だったわけだが、ここでも必死に勉強し尉官試験を受け、100人余人中、たったの2名昇官したらしいが、それに父はトップで受かり、もう1人も沖縄人で、外はほとんど内地の人でみんなを驚かせたようだ。
昔といっても、つい73年前まで沖縄は韓国、つまり朝鮮人と台湾人と同様に琉球人として二等国民として扱われており、だからこそ父も、もう1人の沖縄出身の方も必死になったんだと思う。
そして戦地中国では、愛馬も2頭殺され、多数の部下をなくし、敗戦で父がやっとの思いで母と兄と僕を連れて宮古島へ戻って、僕も台湾で6月17日に生まれているので宮古島へは10月頃来たようだ。
おかげで僕は、湾生、つまり台湾生まれの会を作ってくれと先輩から頼まれ、気持ちはあったが記憶が伴わないので断念したのだ。
昔々の写真を見ると、戦時中ながら父が戦前の中国から台湾連隊の副官の頃の幸せそうな父と母、そして兄やハツおばさんや、照子おばさんの姿が今も偲ばれる。
と、なんとなく記憶していたが、ただいつもこの幸せそうな写真は多分第二次世界大戦勃発前の父の少尉時代の写真で、この幸せは父が宮古島の若者として異例の出世で、母達もみんな誇らしく思っていた表れで、つい僕もずっと台湾時代とばっかり思い込んでいたのだと思う。
つまり父はまだ少尉の頃で、足に貫通重曹を受ける前の若者の頃で、母も25か26歳位では無いかと思う。
母は1男5女の3女として生を受けたが、優秀だった次女は女学生の頃病気で亡くなったようで、母も養女に出ていたが、兄や妹とはずっと付き合いはあったようだ。
母はもともと砂川姓で、砂川の5人の美人姉妹と言われ、中でも3女の光子
がトップの宮古1の美女と騒がれたようだ。
おかげで戦後もすごく気の強い美人妻として、貧乏ながらも頭の飛び抜けて優秀でタフガイの父と、気の強いNo.1美女の母は平良(ひらら)では皆が恐れ敬うコンビだったようだ。
これは、昔の平良市の市長だった平良重信から直接僕が聞いた話だ。
父は鏡原のススカニャーと言う家で生まれて、家は田舎ではかなりの裕福なマスヤーの分家で、まぁまぁの暮らしといっても尋常小学校でおしまいと言う暮らしだったが、あまりに頭脳明晰で優秀だったので、当時の鏡原小学校の校長と担任は、ススカニャーに何度も足を運び、学費や生活費も自分たちが何とか工面するから、勇吉をせめて中学校に送ろうと口説き続け、やっとの思いで宮古中学校へ父は行けたようだ。
それからの活躍がめざましかったわけなので、光子は自分の夫になる男は勇吉しかないと決めたのだ。
父も母も波瀾万丈な一生だったが、わずかに母が57歳父が60歳で亡くなったのは残念無念である。
でもある意味では、母はずっと父のことを愛していたんだなぁと思う。
そして父も母のことを愛し続けたなぁと思うので、2人はずっと相思相愛の一生だったと思うのだ。
ただ父の事にしろ母の事にしろ、これは全てハツおばさんや勲兄さんから、父の友人知人から聞いた話で、父も母も自分たちの事は一切話した事はなかった。
僕たちのことも見守るだけで、特に親しく楽しく話し合うと言う事は殆どなく、母など僕みたいに小学3年生まで、ハツおばさんに優しく育てられ、実家に戻った者から見ると、母はかなりきつい女だったのだ。
特に中学生、高校生と大きくなるにつれて、7歳年上の兄は徳島大学の医学生として順調に実績を積んでいるのに、僕など小学校入学後からまるで勉強をやらない子供だったので、毎日、”勉強やれ”、”勉強やれ”、と言う母は大嫌いで、まるで鬼婆と感じていたもんだ。
僕の勝手な判断で言うと、兄弟で1番頭の良いのが僕で、次が末弟の剛で、次が兄の勲で、最後が三男の仁と思うが、実際には兄と三男の仁は現役の医者で、末弟の剛は学習塾の先生だから、僕が最下位となるわけだ。
或る意味では、少なくとも医大に1時は通ったんだから、剛もかなりの生活を保障されたはずなのに、やはりそこを退学したのは多分内地にはあまりに優秀な医学生などがゴロゴロいるので嫌になったんじゃないかと思うのだ。
まぁ、僕みたいに平気の平さで、大学でも一生懸命勉強するものが皆変人としか思っていなくて、自分が1番自由でいいやと思っていたのだから、本当に能天気な幸せ者かもしれん。
そして僕は離婚歴ありだし、例え今はとても幸せだとはいっても、威張れるもんでもないし、やはり頭の良さよりも現在の実績かなと考えると、友人知人にも恵まれている勲兄さんがトップで、医者としての実績より以上に愛妻家が目立つ仁が第2位で、ぜひ剛には第3位を保ってくれよとの祈りを込め、僕はビリッケツだが、まぁ1番幸せな男としておこうと勝手に決めたわけだ。
脳出血で父は60歳で他界したが、わずか1年の別れで母と再会できたのだから、父が1番幸せ者かもしれないな。
僕も母につきっきりで、母の最後も看取ることができたし、父の最後も僕が結婚半年位だったから、せめて父を安心させたかなとも思い、勲兄さんと交代して心臓マッサージを延々と続けたが、最後に、”マーもういいよ”、と止められた日の辛さは忘れられない。
母の葬儀も傷痍軍人会会長の妻として、僕が驚きあきれたほど盛大だったし、父の時もそうだった。
まだ3000人余りの会員が生き残っていたことが、或る意味では父も母も幸せな死に時だったのかもしれない。
2018年10月31日