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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

島耕作にとって女性とは何か

「島耕作」シリーズ(最初の役職が何だったか、覚えてもいないwww)は、好きな人間と嫌いな人間がはっきりと二分される作品だと思うが、女性の中でこのシリーズを好きな人はいるのだろうか。
はっきり言って、この作品の中の女性とは、女性器に目鼻が付いているだけの存在だ。
暴言を言うことになるが、実は現代の女性、特にビジネスシーンに関わりのある、野心的な女性像としては、この作品に出てくる、奔放で性的に「解放された」女性たちはかなり現実に近いのではないかと思う。島耕作にとって女性が女性器に目鼻なら、女性群にとっても島耕作とはペニスに目鼻にすぎない。気軽にセックスを楽しみたい女性なら、島耕作は理想的な相手だろう。そこでは人格は問題にならない。一見上品そうでカネがあり、性的能力があれば十分だ。
その女性たちがみな、要所要所で島にとって都合の良い存在であるのが、この作品が「サラリーマン御伽噺」として一部の人々に人気があるところだろう。つまり、釣る相手が人間の女か魚かの違いがあるだけで、「島耕作」と「釣りバカ日誌」は非常に近い存在なのである。魚の背後には会社の社長(会長か)か上司がいて、主人公にあれこれ便宜を図ってくれるのは、「水戸黄門」の印籠みたいなものだ。
言うまでもなく私は女性崇拝者であり、女権拡張論者であるので、「島耕作」シリーズは大嫌いなのであるが、そこには主人公への嫉妬がまったく無いとは言わないwww

(以下引用)


島耕作のスピード感は、『君に届け』を2コマで置き去りにする

2018/02/26 12:00
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人生、一寸先はセックス。

『課長島耕作』シリーズを読んでいると思うことである。とにかく次の瞬間に何が起こるのか分からない。人は突如としてセックスをする。そこで浮かぶのが冒頭の言葉だ。人生、一寸先はセックス。これが真実だったのか。

もっとも、「島耕作にとっての人生は」と言ったほうがいいかもしれない。私はべつに一寸先がセックスの人生を送っていない。たいていの人もそうだと思う。島耕作という特殊なサラリーマンにとってのみ、人生一寸先はセックスなのである。本当にこの人は、油断すると女と寝ている。

さて、一方で『君に届け』というマンガを読んでいると、この世にセックスなど存在しなかったような気がしてくる。なにか悪い魔導師にだまされて、われわれは性行為で子供ができると勘違いしていたのではないか。人類は本当は、手をつなぐことで子供を生んでいたのではないか。

しかしふたたび『島耕作』のページをめくれば、人類は息を吸うような自然さでセックスをし、挨拶がわりに不倫している。

同じ地球という惑星で、同じ男と女が扱われているのに、この違いはなんなのか。もしも私が異星人で、『島耕作』と『君に届け』を参考に人類のことを学ぼうとすれば、「島耕作と風早は同じ男なのか?」という問いを断末魔に、頭が破裂して死ぬだろう。

『君に届け』においては、実際にひとつの想いが「届く」までに、1000ページ以上が費されている。そして読んでいる最中、われわれはそれを長いとは感じないわけである。たしかに爽子と風早の二人は、これだけの時間、これだけの枚数を費さなければ、お互いの想いを伝えあうことはできなかっただろう。しかし島耕作にとって、知り合った女と数ページでセックスに至るのは普通のことだ。すさまじい速度で君に届いている。

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セクハラの起こる理由

「紙屋研究所」記事の一部を転載。


(以下引用)


 「職場のハラスメント研究所」代表理事の金子正臣は、セクハラをする人(ここでは男性)は「特別な人ではありません」と言う(「しんぶん赤旗」2018年10月15日付)。酒の席で、なりゆきで……などと言い訳にもならない言い訳でやってしまう。金子はその理由を二つ挙げている。

 

ひとつは職場でも異性を「性的対象」と見る傾向が男性に強いことです。それは性差ではなく、社会的な刷り込みによるものだと考えます。日本では女性の「性の商品化」が著しく、幼いころから女性を性的対象としてみる機会が非常に多く提供され、後天的にその性向がつくられてしまっています。(前掲)

 

もうひとつは女性差別の構造です。日本社会に根深い女性蔑視を背景に、職場でも女性にはサポート役や「職場の潤滑油」的業務を求める性的役割分業意識が強い。また子育てなど家庭の役割のため、残業が当たり前の「男社会」の働き方ができない女性は、労働力として「二流」だという思いがある。さらに管理職比率は圧倒的に男性優位です。職場のドアを開けたとたん、普通のお父さんが部長や専務になると、自分が格段の権力を持ったと錯覚し、部下を見下す視線が生まれます。(前掲)

 



西洋人と日本人の性生活

森鴎外が「イタ(ウィタ?)・セクスアリス」を書いた動機も、西洋(特に自然主義作品)の人間はなぜあれほど性に執着するのか理解しがたくて、日本人の平均的な性生活を淡々と描いてみようと思ったからだそうだ。
日本人の文化から見れば、西洋人は男も女も色情狂にしか思えない。セックスが生きる目的みたいな連中だ。性交のためならどんな不義理も犯罪的なことでもする。まあ、きれいな服装をしたケダモノである。





さんがリツイート

「外国の人にウルトラマン見せたら途中まで真面目に見てたのに、変身して巨大化した瞬間、爆笑された」とあるが、文化が違うから仕方ないのだ。我々も、昔の007が、なんで任務中に、あんなに女を口説くのが、わからなかったのだ。










「闘病記」の社会的有益性

このブログに何度か書いている我が兄のブログ記事の一部である。
前に書いたように、兄は脳出血(下の記事では脳出血と書いているので、とりあえずそう書いておくが、脳梗塞かもしれない。)で倒れて一命をとりとめ、その後遺症と戦っているのだが、そのリハビリの成果がなかなか上がらず、そこに堀尾という人の「奇跡の復活」「続・奇跡の復活」という本を読んで、すっかりその内容に惚れこんで、たまたま地理的に近いところにその堀尾氏が住んでいたので、その指導で新しいリハビリを始めようという事らしい。
ある意味、その経過を自分のブログに書いてくれていることは、多くの似た境遇の人たちへの「モデルケース」となり、社会的に非常に有意義な「仕事」だろうと思う。特殊な境遇にいる人しか被験者にはなれず、その成否が社会的に非常に大きな可能性を持っているから、私はそれを「仕事」と見ていいと思う。ただし、現段階ではその堀尾氏の本を私は読んだことも無いし、堀尾氏だけに限定された出来事を一般論化しているのではないか、と疑っている。
まあ、遠くに住んでいて、滅多に会いにも行かない(まあ、膝が悪いので、遠出はなかなかする気になれないのであるが)人間が外野で論評することではないが、この「リハビリ方針変更」自体は悪くはないと思う。5年余りも経過してかえって体の状態が悪化しているのなら、現在のリハビリ方法を変える意味はあると思う。


(以下引用)







さて、一昨日から堀尾さんの本に触発されて、生き方を変えた。

つまり、脳出血からの脱出を、本気で目指すことにしたのだ。

今までも本気だったわけだが、やり方が全く違っていた事を、初めて知ったのだ。

これまでの医学は、僕たち脳出血の後遺症に対しては、残念ながら無力だったと思う。

おかげで今、5年7ヶ月かかって徐々に悪化している状態に苦しんできたが、やっと明るい兆しが見えてきたのだ。

堀尾さんの本でも、当初ちょっと疑問はあったが、2冊目を読んで謎が解けた。

そして、今までの苦労は、逆に後遺症悪化させるだけだと分かった。

これからは、この、”続・奇跡の復活”、に従って、これまでの数十倍の努力を重ねてみようと思う。



直美には、二度と失敗したくないので、一度この復活の現場を見てみたいと言ったが、この、”続・奇跡の復活”、を何度も読み返してみると、まず実行が大事だと思った。

ただ、堀尾さんに一言感謝がしたいと思う。

さて、日記はほどほどにしたことも、今回の変化の1つだ。

今日も訓練を続けよう。



2019年 4月14日

鉄の優位性と木の優位性

鉄板(スチール板)は簡単に折れ曲がるというのは、子供のころから覚えておくべき知識だろう。
もちろん、曲がるからこそ使える場合もあるわけで、それが欠点というわけではないが、鉄は丈夫で長持ちする、というのは誤解である。特に水分による腐食は案外早い。だから塗装をするわけであるが、それも10年くらいで剥げ落ちる。法隆寺の五重塔が確か1000年以上も保たれていたはずで、建築材料や家具として、木の方が鉄より長持ちすると考えていいのではないか。不要になれば分解して切り刻むこともできるし焼却することもできる。
だが、鉄道のレールや自動車や飛行機などには木は向いていないのは当然だwww


うちは組み立て式のスチールのラック(あんまり本棚には適さない…)を壁際に並べてるんですが。頑丈そうに見えて棚板は折り曲げた薄い鉄板なので人間1人分の体重を掛けようものならすぐグニャッと曲がっちゃう。「でも子供は絶対足掛けて登る!」と考えて真ん中に補強用の縦板をかましました。