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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

一億人の性病患者www

「in deep」記事の一部だが、成人の約半数が性行為感染症だというのは凄い。もちろん、中には未成年もいるだろうが、それでも高すぎる数字である。
白人種というのはもともと性欲が強いのだが、社会がフリーセックスになると、性病がこのように蔓延するのだろう。

(以下引用)


そのサイエンティフィック・アメリカンの記事の冒頭は以下のように始まります。

抗うつ剤は最も一般的に処方されている医薬品のひとつだ。全米保健医療統計センターによる 2011年の報告によると、12歳以上のアメリカ人の 10人のうちの 1人が抗うつ剤を服用している。

これは 12歳以上のアメリカ人の 11%が抗うつ剤を服用していることを示す。

このようになっていまして、少なく見積もっても、アメリカでは 2000万人以上の人たちが、抗うつ剤を服用していて(実際には 2500万人を超えていると思われます)、その多くが SSRI (パキシルなど)である可能性があるのです。

さらに、今のアメリカでの現実として「若者の自死が急激に増えている」ことがあります。

10歳から 14歳の最も若い世代では、2007年から「自殺率が 3倍になった」ことが伝えられています。下は、米ビジネスインサイダーの記事からの翻訳抜粋です。

アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の新しいデータによると、10歳から 24歳までのアメリカ人の若者たちの自殺率は 2007年から 2017年の間に 56%増加したことがわかった。

10歳から 14歳の少年少女では、2007年から 2017年の間に自殺率は数年間低下したが、2017年には、結果として 10年前の 3倍となった。

ミレニアル世代(1980年代序盤から1990年代中盤までに生まれた世代)でも自殺は増加しているが、データでは、最も精神疾患のリスクが高いのは、Z世代(1990年代後半から2000年生まれの世代)である可能性が示されている。

アメリカの大量殺人については、報道では、以下のようになっています。

米国での大量殺人は2019年に過去最高を記録

2019年、アメリカでは 41回の大量殺人が発生し、210人以上が死亡した。

これは少なくとも 1970年代以来最高の件数で、2019年は大量殺人の件数で新しい記録が作られた年となってしまった。

あと、先ほどの中に、肛門ガンとか口腔ガンとかの、本来なら稀少なガンが増加していることが挙げられていますが、最初は意味がよくわからなかったのですが、これはすべて、先ほどの項目の中の以下と関連することのようです。

#11 アメリカ疾病予防管理センターのデータによると、アメリカには現在、1億1000万件の STD(性行為感染症)症例がある。

先ほどの「アメリカで生まれる赤ちゃんのうちの約 40%が未婚の女性から生まれている」などにしてもそうなのかもしれないですが、先ほどのいくつかのデータを見ていますと「性に関してのモラル」が崩壊しつつあるようなイメージがあります。

ある程度、性についての行動を人が起こすのは当たり前だとしても、いくら何でも、性行為感染症の症例が 1億1000万件は多すぎ。

最初は数字を見間違えたかと思いましたが、何度見ても「 110 million 」とあり、1億1000万のようなのです。アメリカの成人の人口は 2億3000万人ですので、約半数が…。

 



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「人生経験」とは数か深さか

「琥珀色の戯言」から転載。
筆者の意見にほぼ全面的に同感。それどころか、私は、一生部屋から出ず、一冊の本しか読まなかった人間でも、深い「人生経験」をできると思っている。ポール・バンヤン(だったか)は、生涯に聖書しか読んだ本は無かったが、「天路歴程」という傑作を書き上げたと言う。


(以下引用)


「薄っぺらな恋愛経験」という噓

白黒つけます!! (角川文庫)

白黒つけます!! (角川文庫)


この本のコラム『恋にルールはいらない』のなかに、石田衣良さんのこんな言葉がありました。

 ぼくは日本の女性はやはりまじめすぎると思う。女性の華は短い。せっかくのいい季節を、何年も同じ男のことを片思いして費やすなんて、ちょっともったいないよ。ダメなときはすっぱり忘れて、つぎにむかう。こういう「切り替え力」も出会いを増やすためには大事な資質なのだ。さらにいえば、まじめなだけでなく、みんなひどく気弱であきらめが早いのだ。目の前にちょっといい男がいる。探りを入れて、相手に彼女がいるというだけで、すぐにあきらめ、候補者リストからはずしてしまう。でね、そういう女性は必ずいうのだ。「いい人はみんな先に誰かのものになっている」と。でも、その誰かだって、あなたと同じ普通の女の子なのである。
 確かに相手に恋人がいたら、壁は一枚厚くなるかもしれない。つきあい始めるまでのどたばたも覚悟しなければならないだろう。だけど、そんなにいい子でばかりいて、あなたの未来は切り開けるのだろうか。
 女は度胸というのは、今も昔も変わらぬ金言である。この男と狙いを定めたら、相手に恋人がいるくらい問題ではないではないか。だいたい1年半以上つきあっているカップルなら、どんなに熱愛した時期があっても、必ず倦怠期がやってきているはずなのだ(すくなくとも男のほうはほとんどそうである)。
 つきあって、そのくらいでまだ結婚という雰囲気が見えていないなら、後発組だって十分勝算はある。古来、戦争と恋愛にルールはないという。いい人のふりをするばかりでなく、ときに相手の身体にぶちあてるくらいの気もちで、危険な球を投げるのもおもしろいと思う。
 だって、ただしいこと、人に自慢できるようなことばかりしている人生なんて、おもしろくないよ。人生など、傷ついたり、危険を冒してなんぼである。お見合いのつり書きじゃないんだから、立派なことばかりしても、内容は薄っぺらな恋愛人生なんて、きっと後悔することになる。恋愛においてはモラルばかり優先させると、実際の経験がやせた貧しいものになるのだ。誰からも祝福されなければいけないなんて、ずいぶん勝手な思いこみ。もともと恋愛や性の力は、ぼくたちの社会のお約束などとはるかに超えた厳しさや純度をもつものなのだ。
 これは単純な計算だけど、仮に5人の女性と真剣につきあってから、男性が結婚する場合、結婚したひとり以外は、みなただつきあっただけで終わるのだ。今あなたが目をつけた男が、今の彼女と結婚する確率は単純にいって20パーセントでしかない。どうですか、なんだか勝ち目が見えてきた気がしませんか。
 それから、最近の若い男性はみな自分からはアタックしない傾向にある。誰かが自分を見つけてくれるのをひたすら待っているのだ。

 いやまあ、石田衣良さんは、こういう「芸風」の作家なので、大真面目に反論するのも不粋だし、「だからお前はモテないんだ!」って言われてしまいそうなんですけど。


 「恋愛にルールはない」っていうのは、たしかにそうかもしれません。
 本当に「なんでもあり」の人もいるし、恋愛というのが絡むと、「すべての人に祝福される」なんてことはまずありえない。
 たとえば、僕が好きな人と結婚したとして、僕の妻のことを好きだった男がいれば、彼はたぶん、祝福はしてくれないでしょう。
 これは、僕が悪いわけでも、妻が悪いわけでも、その男が悪いわけでもなくても、そうならざるをえないのです。
 もし日本が、多重結婚可能な国にでもなれば違うのかもしれませんが、大奥や中国の後宮の歴史をみてもわかるように、それはそれで、嫉妬心というものが、なくなるわけではありません。

 僕にように「基本的には本やゲームがあれば幸せな人間」でも、こんなふうに「恋愛に奥手な人は、人生の敗者だ」と言われると、「そんなことない」と力なく反論しつつも、「人生失敗しちゃったかな……」なんて、落ち込んでみたりもするのです。

 自分の「人生経験」の乏しさが悲しくなったときには、森博嗣先生のこの言葉を思い出すようにしています。

経験できるのは、僅かに自分の人生一回だけだ。他人の人生も、自分の別の人生も、無理。人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である。

 屁理屈、かもしれないけど、僕はこういうふうに考えることにしているのです。
 (とりあえず)「人生は等価だ」


 例えば、僕たちが「人生経験が豊富」というふうに誰かを評するとき、その人は、「(良くも悪くも)多種多様な状況を体験してきた人」という意味なのだと思います。この「人生」という言葉を「恋愛」に置き換えると話は、わかりやすくなると思うのですが、「恋愛経験豊富な人」というのは、どちらかといえば、「誰か一人を愛し続けた人」というよりは、「いろんな相手とくっついたり別れたりした人」のことですよね。
 そして、「恋愛の悩みは、『恋愛経験豊富な人』に相談すればいいよ」というような話になるのです。
 でも、それって本当なのでしょうか?


 こう言ってはなんですが、「恋愛経験豊富な人」というのは、ある意味「浮気性」であり、「ひとりの相手と長続きしない人」なわけです。アドバイスを求められても「恋愛って自由なものだしぃ」とか、無責任なことしか言わなかったり、「私のときは、彼はこうだった」とか、「オンナってそんなもんだよ」とかいうような、自分の経験に基づいた、偏ったことしか言わなかったりもします。そりゃあね、ロールプレイングゲームだって、たくさんの敵と闘ったほうが経験値が多く入るのが一般的でしょうが、スライムを何百匹も倒すよりは、ドラゴンを一匹倒すほうが、はるかに高い経験値が得られたりもするわけです。
 「人生経験」にしても、「さまざまな転職を繰り返し」ているような人が、必ずしも「経験値が高い」とは限らないと思いませんか?
 例えば、ずっとひとつの企業に勤め上げた人、職人として一生を終えた人などは、逆に「転職したい」とか「この仕事を辞めたい」というような誘惑とずっと闘う「経験」をしてきているとも言えるはずです。本当に必要なのは、そういう「自分を踏みとどまらせた経験」だという人だって、いるのではないでしょうか。


 5年間に5人とつきあった人と、5年間同じ人とずっとつきあっている人では、前者のほうが、「人生経験が豊か」だと言われるじゃないですか。
 でも、それっておかしい。
 前者は「5人」でも、5人×1年間」、後者は、「ひとり」でも、「ひとり×5年間」。
 同じ人と5年つきあうことによって、1年間では見えてこなかった、いろんな経験もするはずです。
 50年一緒に生活している夫婦にだって、他者からはうかがい知れないような、さまざまな「障害」があったのでしょうし、そこでなんとか続けてきた経験というのが、自分の感情の赴くままに相手をとっかえひっかえして稼いだ「経験」に、劣っているとは僕は思えないのです。


 数だけが価値じゃない。
 もっと言えば、「5年間、ずっと恋人なしで過ごす経験」だって、「恋人がいた人」には得られなかったものです。
 何かをするのが「経験」なら、あえて何もしないのも「経験」なのではないでしょうか。同じだけ生きていれば、みんなそれぞれの「人生経験」を持っているし、その価値というのは、見た目の華やかさだけでは、到底測れないもののはずです。「人生経験」に「豊か」とか「乏しい」っていうのは、基本的にはないような気が僕にはするのです。それは、「ただ、そこにあるもの」で。


 もちろん、主観的な価値の差はあるのかもしれないけれど、どちらが良くて、どちらが悪いとかいうものじゃない。
 考えようによっては、人の恋人を奪おうとしてトラブルになるよりも、恋愛に関わらずに生きたほうが「静かで落ち着いた暮らし」であるとも言えます。
 まあ、そういう「静かな暮らし」に耐えるのはなかなか困難なので、人は恋愛をしたり趣味を持ってみたり、特定のアーティストや野球チームを応援したり、ギャンブルをやったりせずにはいられないものではあるのですけど。
 みんなが静かな暮らしをしていたら、本は売れないし、テレビの視聴率も落ちるだろうし。


 たしかに、いろいろ「やったことがある」というのは、ひとつの強みではあるのでしょう。
 でも、「経験の総和」に、そんなに個人差はないはずです。
 同じだけの時間を生きてきたのなら。
 それは、「恋人がいる、いない」とかだけで決まるのではなくて、それぞれの状況下で、「自分が何を受け止めていくか」が大事なのです。
そういう意味では、たしかに「刺激」があったほうが良いのかもしれませんが、それは、必ずしも「必要条件」じゃない。


「人生経験」「恋愛経験」に優劣なんてありません。
「それについての自信を持っているか」に違いはあるのだとしても。
 そんな言葉に踊らされて、やりたくないことをやる必要はないはず。

「ただしいこと、人に自慢できるようなことばかりしている人生なんて、おもしろくないよ」というのは、本当にその通りだとは思うけど、だからといって、わざわざ「ただしくないこと」をやるのはバカバカしいんじゃないかなあ。

「失敗」を許さない社会

人間は自分の存在を否定されるのが一番辛い。それは人間が自己愛の塊だからだ。自己愛とは生物的な自己保存本能と同じもので頭から否定すべきものではない。ナルシシズムはその過度なものにすぎず、誰にでもその要素自体はある。
で、下のツィートにあるように、何かを言った後に相手から「何で?」と問い返されるのは、「私はお前の言説を許容できない」と言われたわけであり、それは発言者自身の存在の否定に等しいわけである。だから、議論(ディベート)の上手い人間は、相手の言った内容を絶対に肯定しないか、どうでもいい部分しか肯定しないはずである。そして、「何で?」を繰り返し、相手を追い詰める。社会事象のすべての事柄は、正確さに欠けるのであり、それを「説明」するのは困難なので、どんどん窮地に追い込まれる。誠実な人間ほどディベートでは負けるという、理不尽なことが起きるのである。
もちろん、原則的には原因究明と糾弾は別のことだが、実生活ではだいたい「何で?」は相手を追い詰める糾弾の言葉になっていることが多いはずだ。山本氏も、その認識の上に立って、親や教師が子供を追い詰める行為を批判しているのだろう。
失敗を許さない社会が子供を委縮させ、卑怯な人間や嘘つきを常に再生産していく。



「なぜあなたはその行動をとったのか」を一種の糾弾だと早合点するのは、成長過程でその言葉をそういう意味で使う親や教師の影響が多いと思う。子どもはそれを真似するので子どもも使うが、そもそも原因究明と糾弾は別のこと。

食品製造のコストカットに伴う危険性

この人のツィッターの内容は、まさにマッチョイズムそのもので、好きにはなれない性格だが、普通の人の言えないことを堂々という点ではなかなか有益なものがあるので、時々覗いてみる。下のツィートも、「身近だが目には見えない危険性」を示している可能性がある。鶏の餌に何かの危険物(成長ホルモンの類か)が含まれるために、卵黄が壊れやすいのではないか。




今週は焼いている最中にハムエッグの卵黄が4回も割れた。思い起こすと数年前にも続発した事があった。鶏のエサが原因で卵殻が割れやすくなるのは聞いた事があるが、卵黄が割れやすいのは何が原因なのだろう?
今日はスーパーの玉子に変更したら全く割れなかったから、俺の技術が原因では無いのは確か。





出雲の「国譲り神話」とは、弥生人対縄文人の戦闘

「ネットゲリラ」記事の野次馬氏の前説部分だけだが、私も野次馬氏(ゲリラ氏)と同意見である。つまり、縄文人(日本原住民)と弥生人(大陸渡来人)は混血によってその純粋形は消滅し、今の日本人は縄文人も弥生人も祖先に持つと考えている。まあ、朝鮮人っぽい顔が弥生人の血を濃厚に持つわけだろう。縄文人というのはアイヌ系か沖縄風の「濃い」顔だと思う。
それはさておき、古代出雲人に縄文人のDNAが濃いというのは当然の話であり、「古事記」の「国譲り神話」というのが弥生王朝(大和朝廷の祖)による出雲王朝の征服だったというのは、その部分を読んだ人なら誰でも即座にそう思うだろう。つまり、征服された側が縄文人だったというのも当然の話になる。この引用された記事の死体は、弥生王朝と出雲王朝の戦闘の死者だったのではないか。だから両者の「純粋形」がきれいに分かれたのだろう。


(以下引用)


つまり麻生は嘘つきってことか?

| コメント(7)
耕作を知らなかったり、効率の悪い農業しか知らない集団の中に、効率の良い近代的な農業を携えた集団が入り込むと、数世代で旧集団を駆逐してしまうわけです。アメリカインディアンとか典型的にそうで、別に虐殺で減ったわけじゃない。新しい効率的な農業集団の人口増加率が高いので、生産性の低い集団はあっという間に少数派に転落してしまうのだ。

 古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている――。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析から分かった。古代出雲では、大陸から来た弥生人との混血が進んでいない可能性がある。
 出雲市の出雲弥生の森博物館で昨年12月、同市の猪目洞窟遺跡で1948年に発見された古墳時代(3~7世紀)のものとみられる人骨のDNA解析結果の報告会があった。
 調査したのは遺伝子研究の専門家である国立科学博物館人類研究部(茨城県つくば市)の神沢秀明研究員。神沢研究員によると、猪目洞窟遺跡から出た人骨7体の歯や側頭骨から骨粉を採取し、石灰やたんぱく質を溶かすなどしてDNAを抽出した。
 そのうち6体から、母系統から受け継がれるミトコンドリア内のDNA情報を解析。6体のうち3体が日本列島に元々住む縄文系、3体が大陸から渡ってきた渡来系だと判明したという。

おいらの持論なんだが、水稲栽培技術を携えて日本に渡ってきた集団と、以前から住み着いていた水稲栽培技術を持たない集団とは、激しい抗争や戦闘はなかったようなんだが、それは依って立つところのエリアが違っていたからで、低湿地の足がズブズブ埋るな土地というのは、水稲栽培にしか使えないので、喧嘩にならなかった。縄文人はそれこそ「海彦・山彦」で、鳥獣、魚、木の実などを採取したり、山麓で焼畑農業やったり。低湿地には興味がない。それが、2000年かけてゆっくりと融合して来たのが、今の日本です。