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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

英語の「お勉強」

「紙屋研究所」記事だが、私自身はとっくに英語には挫折しているというか、さほど必要性も感じていないので勉強する気は無いが、ここに書かれた「英語学習体験」は、英語を勉強しようと思っている人にはかなり実践的で、しかも読み物として面白いので紹介するだけだ。(誰が私のブログを読んでいるか知らないが、まあひとりでも読む人がいればいいのである。)
まあ、私は英語を「勉強する」気は無いが、好きな本や文章を英語(原語)で読んでみたいとは思う。つまり、「辞書を引き引き」読めればそれで十分だし、それを勉強ではなく「娯楽」でやるのが私流だ。

(以下引用)

英語を勉強しているんだが

  

 英語を勉強している。

 なんのために?

 いや…別に…意味もなく。

 『超訳マルクス*1をやった時には、辞書を引き引きという具合だった。

 

 サラサラ読めたらカッコいいかな、くらいに。

 

 しかし英語というものはいったん始めたら日課にしないといけない。

 筋トレと同じである。

 筋トレは週1日の休みを入れて毎日続いている。2017年の秋頃からだからもう3〜4年になる。だいたい30分あればできるほどのメニューだからだ。

 ここに英語など入れることができるだろうか。

 たぶんできないと思う。

 日課を増やすと、一つ一つは小さくて、面白いことであっても、やはり「やらねば」という義務感が多少混じるので、下手をするとそれがいつか積もり積もって爆発してしまう。「あー、もー面倒くせえ!」ってなるのだ。だから日課を増やすことは慎重でなければならない。さしたる目的もないのに日課にするなどということは時間という資源の浪費である。

 しかしそれでも迂闊に始めてしまった。

 まさに「迂闊に」。まだ3ヶ月ほどだ。いつやめても「三日坊主」と言われるだろう。

 

 英語をやりたい、というのは20代の時にも起きた熱情で、この時は結局挫折してしまった。あの頃はバックボーンにしていた方法論がよくなかった。

 「浴びるように聞く」「ドラマを聞き流すだけで身に付く」などの勉強法が当時流行った。

 そこで教材のカセットテープを買ったものの、「シャドーイング」のような方法を知らなかったのでただ聞くだけである。1回聞いたものを何度も聞くのは意味がないのではと思いあまり聞かなかった。今のようにインターネットがあるわけではないから、「どんな単語を話していて、どんな意味の文章になるのかわかる英語の音」などというものはお金を出さないとそう簡単に入手できない。ラジオやテレビの英会話講座があったが、聞き取れないし、面白くなくて日課にならなかった。

 好きな文章を丸暗記するのはどうだろうと思ってやってみた。左翼的文書を英語にしたものを、東京の町田から静岡の三島まで歩く間に暗記するということをやってみた。それはそれで面白かったのだが、だからと言って英語が聞き取れたり、英字新聞が読めたりするようにはならなかったので、あまり意味がないのかなと思い、これも途中で放り投げた。

 要するに、学んでいることもつまらなかったし、上達したような気持ちにもならなかったので続かなかった。

 そして、今思うといろいろと方法論的に間違っているような気がしてならない。

 別に今英語が堪能なわけではないけども、あの頃は方法論についてあまり深く考えていなかったために無用の混乱を起こしたのだと思っている。

 

 今、いろんな英語の勉強本を読むと、書いている人によって方法論が様々である。千差万別だ。仕方ないので、数冊読んでみて自分にとってしっくりいったものを取り入れようと思った。

 その中で一番しっくりいったのは関正生『世界一わかりやすい英語の勉強法 カラー改訂版』(KADOKAWA)であった。

 

カラー改訂版 世界一わかりやすい英語の勉強法
 

 

 その中でもぼくが全くその通りだと思ったのは、関が示した英語トレーニング順序のピラミッドである。一番基礎が「単語力」、次が「文法・リーディング力」、その次が「リスニング力」、最後(頂点)が「ライティング力」である。

 同じ図が下記の記事にも出ている。

president.jp

 ここで「単語力」を「筋力」として捉えている、その発想が目からウロコだった。

 ぼくは受験英語をずっとやってきて、感覚的にはずっと語彙があるかないかが大事だという実感があった。しかし、世の中は「英会話」や「使える英語」のようなものが花盛りで、辞書を引いて単語を暗記するようなものは古い受験英語の感覚ではないかという思いが抜けなかった。

 これは関に限らず、最近の英語の勉強本がだいたい指摘していることだが、受験英語のようなメソッドは否定されるべきではなく、文法をしっかり学んだり、辞書を引いて単語を暗記したりすることは、ネイティブでない人間が英語に到達するための確実な近道である。

 そして、「聞き取れて」「話せる」ということが実際には難しく、そういうものがごちゃ混ぜに「英語」として考えてはいけないのである。

 この本を読んだ時、「あ、単語を一生懸命覚えていいんだ」と気が楽になった。

 

 そして、一番大事なことは、「目標をどこに置くか」ということだった。

 リスニングやスピーキングができればそれは理想なんだけど、そのためには、かなりの時間を割かねばならない。だとしたら「読めればいい」というところに照準を合わせたらどうだろうか、と思った。

 関も上述の記事で

英語の基礎体力(単語力、文法・リーディング力)を、まず徹底的に鍛える。

と述べている。

 西澤ロイ『頑張らない英語学習法』(あさ出版)でも

 英語の主な動作は4つあります。「話す」「聴く」「読む」「書く」です。

 この中で「読む」が最初に鍛えるべき重要かつ基本的なスキルです。(p.25)

 としている。

 

頑張らない英語学習法

頑張らない英語学習法

  • 作者:西澤 ロイ
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 「日本の学校の英語は読むことに偏重している」「これからは使える英語=英会話」という見解に心のどこかで縛られていて、「リスニングもスピーキングも当面やらない」「読むだけ」という方針にふんぎれなかった。

 これらの本は、そこを明確に回答してくれたのである。

 まず読むだけでオッケー、と。

 

 そして、ひとは自分に関心のない分野は、仮に日本語であったとしても、そもそも言葉も知らないし、そこで話されている中身もわからない。

 だとすれば、ぼくにとっては政治のニュースとか左翼関係のニュースを、報道の言葉で読む、ということができればそれが「目標」になるのではないか、と思った。要するに「英字新聞が読める」程度のことである。

 関は次のようにいっている(強調は原文)。

 英字新聞で多くの人が失敗するのは、気合が入りすぎて難しそうな記事まで読もうとするからです。

 男性の場合、なじみがあるスポーツ欄から攻める人も多いのですが(高校時代のボク)、専門用語連発で確実に挫折します。

 英字新聞はとにかく気楽に。難しそうな記事をムリに読む必要はありません。1部200円前後で英語の勉強ができれば、たったひとつの記事でも読んだら「モトは取った」と思っていいでしょう。(関p.104-105)

 

 それで英字新聞などは買わず(笑)、ネット上にある無料の英文記事を毎日少しだけ読んでいる。その中には「赤旗」記事を英訳しているJapan Press Weeklyなどもある。それを読むと「あ、『野党統一候補』ってJoint opposition candidatesって表現するのか」とか「温室効果ガスの削減を政府に強く求めたって言うときはurgeを使うのか」などという具合に、自分が身近にやっている活動に引き寄せてかなり強い関心で読める。

 ぼくがかつて挫折した20代の頃、Japan Press Weeklyはお金を出して買わないといけないものだったから、1号買ったらそれを後生大事に長い間読むようなものだった。だから自分がやっている左翼的活動、政治活動をどうやって表現するのかは気軽にわからなかったのである。

 これは辞典を引くような時も同じで、今ネットで簡単に調べられる。

 そうすると、例えば「主張する」をどういう単語で言えばいいのかが、数多くの例文を目にすることでおぼろげながら分かってくる。学生の頃や20代の頃は「主張する」と丸暗記していたので、単語の「ニュアンス」がよくわからないままだったのだ。

 

 こうやって1つの記事を読むとわからない単語が10くらいでてくる。多いときには20くらいでてくる。それを調べて単語帳に書いて覚えるのである。これをスマホのアプリなどでやれるのかもしれないが、書くというプロセスと、使い勝手がいいので、単語帳でやっている。

 ただし関は単語のカード化には否定的で、「時間が膨大にかかるので、やらないほうがいいです」(p.56)としている。

 西澤の前掲書では、逆に単語カードを強く勧めていたので始めた。

 単語帳はどうも自分に合っているようだ。

 カードをつくるのは、筋トレのインターバルの1分間くらいにやることが多い。それで終わらないときは筋トレ終了後に引き続き作成を続ける。職場の待機時間などに作ることもある。無理はしない。それで時々思い出して眺めるのである。

 作らない日もあるし、作っても2、3枚という日もある。気にしない。

 単語帳はまだ5冊しかできていないから、3ヶ月で新たに400〜500程度しか覚えていないことになる。関は1日200単語を5セットで1000と言っているので全然追いつかないペースである。しかしまあ気にしない。関のいうのは受験英語だから、と思って読んでいる。

 西澤は前掲書で「市販の単語帳が役に立たない」(西澤p.52)と言っている。西澤は「なぜその単語を覚えたいのですか?」という問いを立てているが、これはまことにその通りで、ぼくは「政治・左翼ニュースを読みたい」し、それで興味を感じているから覚えているので合って、それと関係のない単語など無理に覚える必要は全くない。

 例えばcompensationは「補償金」であるが、これがJapan Press Weeklyには頻出してすっかり覚えてしまった。コロナで補償が十分かどうかが焦点だからである。

 覚えるべき単語、知りたい単語はむちゃくちゃ偏っている。しかしそれでいいのである。どこで使うんだよという左翼用語こそ覚えたいではないか。「半封建的地主制」ってthe semi-feudal landlord systemって言うんだぜww

 

 英文が「なんとなく読める」というのは意外とハードルが低い。

 「年収40万ドル未満の人々」を英語で言ってみろというとなかなか言えないのだが、バイデンの演説で「people making less than $400,000 a year」って書いてあったらなんとなくわかる。

 関も英単語の覚え方について「president→社長」「社長→president」どっちの順で覚えればいいかについて「president→社長」のほうが断然ラクでありそちらを勧めている。また、日本語から覚えようとすると4倍時間がかかるというデータを紹介している。

 日々覚えている単語と、高校までのうっすらとした文法が頭にあると、なんとなく読めるのである。そうすると調子に乗って続くのである。

 

 文法については、ぼくの場合大学受験で得たものがあり、すでに四半世紀を経てかなり錆びついているが、「なんとなく読む」程度には使える。おまじない程度に文法の本を手元に置いているが、時々思い出したように見る程度である。

 

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

 

 

 本当はリスニングやスピーキングもできれば相乗効果もあるのかもしれない。

 だけど、例えばリスニングをやるとなると、相当時間を取られることになる。

 行き帰りの通勤電車でやればいいのではないか、とか思うのだが、毎日そんなことを義務のようにやりたくないし、本も読みたいからせっかくの通勤時間が必ずリスニングで潰れてしまうと思うと気が重い。

 そして、ぼくはスマホを持っていないので、リスニングのための時間を取ることは結構面倒臭いのである。筋トレのためにジムに通うようなもので、時間をわざわざ作らないといけない。あ、こりゃ続かないなと思ってすっぱりあきらめている。

 とにかく単語とリーディング。これだけをひたすらやっているのである。

 

 関が前掲書のはじめの方に述べているのだが、「大事なのは『英語をキライにならないこと』」(p.20)である。

 ぼくの場合、「キライになる」とすればそれは義務感に押しつぶされることだろう。

 だから、「1日で英字新聞の記事1段落を読むだけでいい」と考えている。それすらできない日もある。だけど気にしない。筋トレは1日できないと気にするけども、英語は「できない日もある」と決めてかかることだ。

 そして、「結構長いこと英語を勉強しているのに、英語を話す外国人に会って、全然喋れなくても・聞き取れなくても落ち込まない」——ここ、非常に大事なところであるww

*1:驚かれるかもしれませんが、『超訳マルクス』で扱った文献はすべて、イギリスに本部のあったインタナショナル関連の文書・インタビューばかりなので、マルクスが執筆していてもドイツ語ではなく英文なのです。 『超訳マルクス』の最初に載せた「国際労働者協会創立宣言」だけは英語版とドイツ語版という2つの原文があります。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20131007/1381072909 

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「与信」とは何か

新聞の経済瀾などで見る言葉だが、いつ頃から使われ始めた言葉だろうか。昔は単純に「信用取引」と言わなかったか。それを恩着せがましく「与信」と言うようになったのは金融界の誘導によるもののように思う。
ちなみに、英語ではcreditで、単に「信用」の意味である。


与信

読み方: よしん
分類: 与信

与信は、国語辞書では「信用を供与すること」を意味します。これは、金融業界においては、金融機関や消費者金融会社の融資や融資枠、支払承諾(保証)等の供与、クレジットカード会社の利用可能枠(ショッピング枠、キャッシング枠)の供与などをいいます。

また、与信は、日々の商取引(ビジネス)を効率的に行うために、企業間における与信取引でも取引先(顧客)に供与されます。

与信の審査と管理

与信は、申込時の審査だけでなく、供与後のモニタリングや見直しなどの管理も非常に重要です。また、与信にあたっては、返済能力や返済原資、返済資質、返済担保などがチェックされます。

例えば、融資の申込みの際には、厳格な審査が行われ、資金使途や返済計画、保全面(担保、保証)、過去の信用情報などがチェックされ、所定の基準に合致した場合に融資が実行されることになります。

与信に関する基本用語

与信に関する基本用語として、以下のようなものがあります。

|与信取引|
取引先(顧客)に信用を供与することで、商品や製品を納品した後に、またはサービスを提供した後に代金を受領する取引をいう。

与信限度額
「与信枠」とも呼ばれ、取引先(顧客)に対して設定する与信の限度額(リミット)のことをいう。

与信管理
取引先(顧客)の与信の状況を日常的に管理することをいう。

与信ダンピング
与信基準を大幅に引き下げることで、より多くの与信を行うことをいう。

細菌とウィルスと風邪と肺炎

某医師兼推理小説作家のツィートだが、風邪と「細菌性肺炎」は別だろう。そもそも風邪の原因は細菌などではなく、風邪とは気温変化などによる免疫系自律神経の発動だと私は思っている。ただし、風邪の患者のクシャミや咳からうつることはあるかもしれないが、それが「細菌」によるものとは思わない。そもそも風邪の細菌ってあるのか。
まあ、調べたわけではないので適当に書いているのだが、今でも風邪の原因は分かっていないと聞いた記憶がある。
さらに言えば、新型コロナの原因がウィルスだというのも仮説でしかないはずである。

(追記)ほとんどのサイトは風邪の原因をウィルスだとしている。私は、それは「現在の定説」にすぎないと思っている。

原因

風邪症候群の原因となる病原体は80~90%がウイルスと言われている。主なウイルスとして、ライノウイルス、コロナウイルスが多く挙げられ、続いてRSウイルス、パラインフルエンザウイルス、アデノウイルスが続く。アデノウイルスやパラインフルエンザウイルスは比較的、子どもが感染することが多いと言われている。ウイルス以外では一般細菌、肺炎マイコプラズマ、肺炎クラミドフィラなどの特殊な細菌が原因となる場合もある。空気中に浮遊しているこれらの原因となる病原体が、気道内に入って気道の粘膜に付着して侵入・増殖し、鼻・咽頭・喉頭といった上気道に急性炎症が起こり、さまざまな疾患を引き起こすことが風邪症候群のメカニズムである。患者のくしゃみなどで飛び散った飛沫から感染することもあるが、気道内にウイルスが侵入しても風邪症候群を発症するかどうかは、患者が置かれた環境や患者自身の免疫力などの要因によって変わる。



(以下引用)

大人のウイルス性肺炎なんて、ほとんどありません。 私は細菌性肺炎なら数百例診ましたが、ウイルス性肺炎の患者さんを新型コロナが流行するまで1人たりとも診たことがありませんでした。 まったくの別物です。
引用ツイート
死にたいとき専用
@94MtE3NYuCk3knD
·
返信先: @EARL_COVID19_twさん, @MIKITO_777さん
昔も風邪からの肺炎ってありましたが、全く別物ですかね。 風邪をこじらせて死んだってのも。 なんでこんなに扱いが派手になったんですかね。

社会主義の問題点

社会主義社会建設の問題点を考察してみようと思う。
とりあえず、思いつくままにメモしてみる。

1:管理者と労働者の区別
2:労働の報酬の公正さ
4:非競争体制での労働効率
5:評価不可能な労働(芸術など)
6:財産(個人的所有権)を認めるか
7:道徳をいかにして守らせるか
8:自由主義(資本主義)との比較優劣
9:「全体主義」への転落をいかに防ぐか *もちろん、「社会主義=全体主義」と見ることもできる。
10:国民の要求や不満にいかに対応するか。

まあ、細部の問題をいくら挙げてもあまり意味は無いかもしれない。
最初に根本点だけ言えば、社会主義と共産主義を混同してはならないということだ。共産主義が「(全員の)平等」を理想とするなら、それは永遠に実現不可能な思想である。しかし、社会主義は必ずしも「平等」を目標とはしない、と定義するだけで、実現可能な思想になるだろう。では、社会主義とは何か、と言えば、「社会の個々人が社会全体の幸福に寄与する使命のある社会」を実現する思想、ということでいいのではないか。別の言い方をすれば、社会の不幸の原因である「個々の欲望の異常な肥大」に制限をかけることが社会主義だ、ということだ。それは当然、貧富の格差の極度の開きに制限をかけることになる。これは実現不可能どころか、容易に実現可能だろう。つまり、財産や収入に上限を設けるだけでいいのである。
では、事業や企業活動はどうするか。事業規模が大きなものはすべて国営企業とするのが解答のひとつだが、そこにも当然汚職が生じるだろう。その場合は処罰を厳しくすることだ。つまり、公務員の汚職への処罰は重罪とするのである。最低でも「公民権の停止」と「財産没収」が必要だろう。海外亡命は認めるが、財産の持ち出しは許さないのは当然だ。
犯罪抑止のためには、「カネの移動」の記録は常に厳正に行い、いつでも誰でも確認可能にするように法律で決めることである。これだけで「資本主義的犯罪」のほとんどは防げるだろう。資本主義社会の汚染の原因は「経済犯罪」への処分がゼロに近いことなのである。


自己愛とプライドと美意識

これは、生活の技術と言うより「生きる技術」と言うべきかと思うが、人間は「自分自身を制御する」ことが一番困難であり、それができればほぼ「満足の行く人生」が送れると思う。
これは当たり前の話であり、たとえば「勉強しなくてはならないのに勉強したくない」というのはほとんどの学生の悩みだろうし、それが克服できれば優秀な成績が得られるのも自明である。もっとも、真面目に勉強しても成果が上がらないという「勉強の技術」の有無はまた別の話だ。少なくとも、遊び心を克服して勉強机に向かうという最低限のことができるというのは、「自分を制御できている」ということなのである。
まあ、勉強などについては「習慣化する」ということでだいたい克服できると思うが、ここで論じるのは「感情の克服」である。怠け心も感情と言えばそうだが、少し違うことを問題とする。
それは、「プライド」のことである。
簡単な問いかけをしよう。人間はプライドを持つのと持たないのと、どちらが「幸福な人生」を得やすいだろうか。これは、「持たないほうが幸福を得やすい」と私は思う。
もちろん、少しでも美意識のある人間なら、プライドを持たない人間を第三者として見ると不快に思うだろう。だが、直接にその人間と関わる場合、プライドのある人間というのは、実につきあいにくい相手なのである。これは、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」で見事に描かれている。主人公ベスが、最初嫌っていたミスタ・ダーシーの真価を知るまでには長い時間が必要だったのだ。というのが、ミスタ・ダーシーは強烈なプライドの持ち主で、自分の美意識に背く行為(人に自分を良く見せたり媚びたりする行為)は絶対にできない人間だったからである。とすれば、彼の善行は常に「隠れた善行」であり、彼の欠点は常に人の目に隠されないことになる。逆に、常に自分を良く見せようとする人間は、よほど鋭い知性の目で見ないかぎり、「素晴らしい人間だ」と思われるのである。彼の真実の姿は、彼の悪行が「事実として」暴露された場合だけになる。
「いや、プライドを持たない人間はいない」という考え方も一理あるが、問題は、その現れ方である。少なくとも、他人の前で自分のプライドを守ろうとする行為は、その相手を不快にさせるだろう。逆に、常に相手の「意を迎える」ような行動を取る人間は、ふつう嫌われることはない。軽く見られるだろうが、だからこそ親しく付き合うこともできるのである。
高位高官の前で頭も下げない人間は「プライドを守る」ことはできても、社会的には絶対的に不利になるのであり、その姿勢を貫くなら隠者にでもなるしかない。つまり、「他人へのへつらい(愛想、媚び)」は、地位や財産の無い人間にとっては不可欠の「生きる技術」になるわけである。
まあ、隠者にまでならなくても、職人とか研究者という生き方もあり、それは隠者に近いのだが、とにかく「人間を相手にする」仕事では、自分のプライドを守るのは至難のわざだろう。もっとも、「喧嘩が強い」というプライドだけで生きていく人間もいるわけで、何を自己評価の基準にするかは人それぞれである。