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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

何がゲンノショウコなのか

どうでもいい話だが、「ゲンノショウコ」という植物がある。これ、凄い名前だと思う。「現の証拠」、つまり「目の前に厳然として存在する証拠」なんだから、植物界で裁判沙汰になれば最強の検事か弁護士になれるのではないかwww
まあ、「ゲンノショウコ」の語源など調べたわけではないから、ただのヨタ話である。
「元野祥子」さんとかいう女性がいたら、法曹関係に進むといい。
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「飯盒炊爨」の「爨」の字

この字を小学生に書かせるのは無理である。まあ、大人でも無理だが、必死で覚えれば何とかなる。しかし、使う機会は一生に一度も無いだろうwww
それより私は「はんごうすいさん」と覚えていたが「はんこう」だったのか?「合」を含むから「ごう」だろうと思っていたし、私が耳で聞いた時、教師も「はんごうすいさん」と言っていた記憶があるし、今検索した時も「はんごうすいさん」で検索できたのだがどちらが正しいのか。


「爨」の画数・部首・書き順・読み方・意味まとめ

とは、かまど/かしぐ/飯をたくなどの意味をもつ漢字。29画の画数をもち、火部に分類される。日本では大学もしくは一般レベルの漢字とされる。

漢字「爨」
字体
読み音読み サン
セン
訓読み かし()
かまど
部首 火部
画数総画数 29画
部首内画数 火部25画
JIS漢字水準 JIS第2水準
漢字検定 漢検1級

目次 [展開する]

書き方・読み方

書き方

爨_書き方
爨の書き順【筆順】

読み方

』の字には少なくとも、セン・ サン・ かまど・ 爨ぐかしぐの4種の読み方が存在する。

意味

かまど/かしぐ/飯をたく

熟語

飯盒炊爨【はんこうすいさん】

[料]飯盒を使って飯を炊(タ)くこと。

文字コード

「爨」の漢字をコンピュータで取り扱うために策定された各文字規格を紹介する

「爨」の文字コード一覧
Unicode 1 U+7228
JISX0213 1-64-06
戸籍統一文字番号 2 221290
住基ネット統一文字 J+7228

文字ごとに採番された各種コードは、互いに異なる識別番号を持ち、管轄業務を担う省庁/団体/組織によって各用途ごとに管理されている。

検字番号

検字番号とは、各出版社が刊行した漢字辞典/漢和辞典に記載されている検索字を効率よく探すための識別コードである。

「爨」の検字番号一覧
書籍出版社検字番号
角川大字源3 角川書店 5595
新大字典4 講談社 9450
新潮日本語漢字辞典5 新潮社 6793
大漢和辞典6 7 大修館書店 19648
大漢語林8 大修館書店 6613

辞書の巻頭や巻末、別巻などに記載された検字番号を用いることで、漢字の掲載ページ・掲載位置を容易に特定することができる。

まとめ

「爨」の画数・部首・書き順・読み方・意味について、もう一度おさらいする。

「爨」についての総括
  1. 爨の画数 :29画
  2. 爨の部首 : 火
  3. 爨の読み方:セン・サン・かまど・かしぐ
  4. 爨の意味 :かまど/かしぐ/飯をたく
以上で「爨」の字の解説は終わりです。今後とも受験勉強・資格取得・自己学習にモジナビをお役立てください。

ウサタロー

おねがい

若い女性はなぜBL漫画やBL小説を好むのか

私にとっての長年の謎は、少女漫画はなぜあれほど男性同性愛に関心を持ってきたのか、という問題だ。その答えが、前にも引用した小谷野敦の「聖母のいない国」の中に出ていたので、引用する。これは小谷野自身の言葉ではなく、中島梓(栗本薫)の言葉(要旨)らしい。

「それは思春期を迎えた少女たち、そしてそれがやや成長した若い女たちの、女性性からの逃走である」「ゲイを描き鑑賞している限りにおいて、彼女らは自らのセクシュアリティに直面せずに済む」

これは自分自身でもBL小説を書いて同人誌などを主宰していた栗本薫の言葉だけに、かなりの信頼性があるのではないか。つまり、知的な女の子たちが架空の舞台で「男をおもちゃにして遊ぶ」遊びがBL小説やBL漫画なのではないか。その裏側には、彼女たちが自らのセクシュアリティ(適切な日本語が必要だ)を重荷に思っているという事実があるかと思う。
というのは、彼女たちの人生は「自分のセクシュアリティをどのような形で社会に『売る』か、あるいは『売らない』で生きるか」ということが大きな問題として控えているからである。このセクシュアリティは彼女たちの大きな資産でもあるが、災いを呼び込む可能性を持つ資産でもある。
男の場合には、セクシュアリティは、ホモセクシュアルな人間を除いてほとんど問題にならない。と言うのは、男は何かの刺激で発情しても、それは自慰行為で即座に解消されるからである。一般男性にとって自らのセクシュアリティは自分の人生の資産にもならないし、重荷にもならない。
そういう「重荷を持たない男」を同性愛というセクシュアリティの中に投げ入れて重荷を負わせる遊びがBL文学やBL漫画ではないか。ある意味「男社会への復讐」でもあるだろう。
ということで、長年の疑問がやっと解決したようだ。まあ、その解答が正しいかどうかではなく、一応の解答が得られただけで満足である。



語彙力テスト

これは、スレッドの中身を見る前に、自分の語彙力を試すテストとしてやってみると面白いのではないか。ただし、ワープロソフトだと簡単に答えが出るから、紙に書いてみるといい。
私もまだ頭の中で少し(さ行まで)やっただけだが、「すんこう」「そんこう」は出てこなかった。

女性と恋愛と冒険性

小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、女性は「男女関係のどろどろ」を書いた小説が好きだ、という趣旨の言葉があるのだが、これは示唆的である。単に「男女関係を描いた小説」が好きなのではなく、それが「どろどろ」の関係であるのが好きなのである。こういう指摘はこれまであまりなされなかったのではないか。どこで誰が言った言葉か忘れたが「自分(男)にとって少女漫画とはめんどくさい少女たちのめんどくさい関係を描いた漫画だ」という趣旨の言葉があって、至言だな、と思うのだが、一般に女性というのはめんどくさい人間関係の話を好むと言えるのではないか。それが頭の単純な男にとっては謎なのである。で、そのめんどくさい関係とは基本的に男女の恋愛とそれに当然付随する性的関係であり、先に書いた「男女関係のドロドロ」なのである。それを少し表面をきれいに見せたのが少女漫画だったのだが、最近は少女漫画の中でも性行為を露骨に描いているらしい。
問題は「なぜドロドロでなければならないのか」「なぜめんどくさい関係でなければならないのか」である。そうでなければ物語にならないということもあるだろうが、ここには「女性にとっての冒険」というのは恋愛と結婚(現在は結婚はもはや若者にとって魅力のある制度ではないかもしれないが)である、というのが大前提としてあるのではないだろうか。もちろん、現実には女性の冒険家もいるし豪傑もいるだろうが、一般的には女性は恋愛と性関係に冒険性を求めると考えていいのではないか。そこで、「いい人」がなぜ恋人として女性から好まれないのかも分かる。「いい人」は「事件を起こさない」のである。つまり、人生にスリルを作り出さない。
女性が恋愛に求めるのは一種の冒険性である、という仮説をとりあえず提起しておく。
ちなみに、夏目漱石が「文学評論」の中で書いているスゥイフトの「ガリヴァー旅行記」の中に出て来るエピソードだが、ラピュタ島のある高官の妻が地上に逃げて、その優しい夫が連れ戻しに来たが、すべてを許すと夫が言っても帰らない。で、彼女が地上で一緒になっている男は貧しく汚らしい老人で、毎日のように妻を殴ったり蹴ったりするような男なのである。このラピュタの高官は人格者で人間の鑑のような人物なのである。この話の結語として「女には茶人が多い」と言ったか「女にも茶人がいる」と書いてあったか忘れたが、茶人とは普通人には分からない奇妙な嗜好を持つ連中のことである。

なお、女性にとって恋愛が冒険である、というのは少し前までは当たり前の話であり、たいていの女性はどういう男とくっつくかによって自分の一生が決まったのである。だが、基本的に男は「恋愛の食い逃げ」ができたから、男にとって恋愛は冒険的な意味合いは少ない。だから恋愛に冒険性など求めないわけだ。むしろ冒険であっては困るというのが正直なところだろう。

(追記)同じ本の中に小谷野敦は「恋愛というエゴの暴走」という表現をしており、これも秀逸な言葉だと思う。恋愛は一見相手のことを思い詰めているように見えるが、実は「恋をしている自分に陶酔しているだけ」という場合が多いのではないか。これは今敏の「千年女優」で示された思想でもあるように思う。
恋愛においては、相手ではなく、相手をネタにして自分が作り上げた妄想が、「恋愛対象の本質」だというのは、スタンダールが「恋愛論」で明示した思想だ。彼はそれを「結晶作用」という美しい表現をしているが、内実は「エゴの暴走」なのである。

ただし、相手のためには自分のすべてを犠牲にしてもいいという恋愛もあり、それはエゴの暴走的な恋愛とは別物だろう。つまり、恋愛にはふたつある、と見るべきだろう。女性より男性の恋愛のほうに、この種の「エゴを消滅させる恋愛」が時に見られるような気がする。愚劣な映画だったと私は思っているが、「タイタニック」で男は死に、女は生き残ったというのが、わりと象徴的な感じはあるwww

(追記2)

これも同じ本の中にある言葉だが、「結婚や性関係によって自分自身が憧憬の対象としての価値低下を引き起こすというメカニズム」は、「結婚や性関係は恋愛の終わりである」、というメカニズムと言ってもいい。だから、すべての恋愛物語は結婚か性関係の締結で終わるのだが、その読者や視聴者は、それが「話の終わり」だとしか思わず、「恋愛の終わり」であることに気づいていない。つまり、そこで恋愛は死んで、結婚生活や性関係という別の相に移行するのであり、相手への幻想もそこで終わるわけだ。
そう考えると、見合い結婚や仲人結婚という昔の習慣、つまり「恋愛抜きで結婚する制度」は案外賢明だったかもしれない。なぜなら、そこには幻想が無く、したがって「失望」も無いからだ。逆に、そこから「夫(妻)への恋愛」が始まる可能性すらある。相手の実態を知った上で愛情が持てるなら、それこそ最高の関係だろう。