忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

他者から欲望されたいという欲望

私は浅学のため女性の哲学者を知らないのだが、それが非常に少ないことは確かだろう。これは「哲学とは何か」という問題(哲学はこの問題に答えているか? www)とも関係してくると思うが、女性は哲学と相性が悪そうである。
と言うのは前置きで、ここで私が問題にしたいのは、女性における「愛されたいという欲望」のことだ。「愛とは欲望である」という、前回に書いたテーゼからすると、「愛されたいという欲望」は「欲望されたい欲望」ということになる。これは奇妙な言い方ではあるが、少しも不合理性は無いと思う。つまり、女性には「男性から欲望されたい欲望」がある、ということだ。それは、無数のマスコミ雑誌やネットに出回る無数のヌード女性(しばしば素人である。)の写真から明白だろう。彼女たちが単にカネのためにヌードになっているとは私は思わない。
さらに言えば、「他者から欲望されることが女の価値を決める」という信念がそこにはあると私は思っている。まあ、これを公言している女性は見たことが無いし、公言したら彼女はその瞬間に「すべての女性の敵」になるだろう。だが、身体の美しい女性や顔の美しい女性でそう思っていない人間がいたら奇跡なのではないか。地味な素人女性が自分のヌードを赤の他人に撮影させたり、それをネットに投稿したりするのは、それを示しているだろうし、女性が化粧をしたり衣服にカネをかけたりするのも「自分を高く評価させたい」わけで、それは「他者から欲望されたい欲望」のなせるわざだろうと私は思うわけだ。
なお、「男にも他者から欲望されたい欲望はあるだろう」と女性側から反撃があるかもしれないが、それは(性的な意味に限定すれば)ごく特殊な性癖の人間だけだと思う。男は何よりも「性的刺激によって性欲が発動する」のであり、ファッションなどに気を使うとしたら、それは単なる趣味嗜好の問題だろう。別に愛されたいから身なりに気を使うわけではない。
最初に書いたことと関連させるなら、男は抽象的思索を好むというのは、男は肉体から遊離した思索で遊ぶことができるということ(これを象徴的に言ったのがリラダンの「生きることなどは召使どもに任せておけ」である。)で、女性の思考は(潜在的にだが)常に自分自身の肉体(特に子宮)から離れないのではないか、と思うわけだが、それは言い過ぎかもしれない。まあ、「女性はエロス的存在である」と恰好良く言えば許されるだろうか。



PR

エロスと愛


澁澤龍彦がある評論的随筆(「愛の形而上学と死刑」)の中でこう書いている。

「エロティシズムは人を物に変えるが、愛は人間を人間として再発見させる」

世間の人間の多く(特に西洋人、いや、地球の人間の大半)は、男女の愛、つまり恋愛の到達点を性的結合だと思っているだろうが、実は「エロティシズムは人を物に変える」のである。つまり、そこでは「性的快感」が最優先になり、相手は人間ではなくただの物になるのだ。誇張的に言えば、相手の男はただのペニスであり、女はただのヴァギナになる。
このことを澁澤龍彦は同じ文章の中で「セックスの本質的な想像性は、オナニズムの地獄におちいる必然性がある」とも言っている。要するに、そこに存在するのは相手という「人間」ではなく、自分の快感だけ、つまり「自分だけ」しか存在していない。これを「オナニズムの地獄」と言っているのだろう。(セックスが想像性を本質とするかどうかの考察は措いておく。)
では、「愛」はどうか。愛とは何よりも、「何かを欲する」ことである。「何かを自分のものにしたい」という欲望が愛である。つまり、英語の「want」が「欲する」意味と「欠乏している」意味を持っているというのは、実に叡知に満ちているわけだ。自分に欠乏している何かを得たいという気持ちが愛である。(あるいは、愛の発生によって自分の中の欠乏が自覚される。)(愛は欲望であるから、与えることも貰うことも不可能である。世間でよく言う「愛を与える」と言う言葉は誤用であり、正しくは「慈善」か「同情」である。また、「花を愛する」などの「愛する」は、「花によって自分の心の中に起こる美的感覚の満足を好む」意味である。花そのものを欲するのではなく、美的情緒が、ここでの「欠乏」の内容だ。)
そういう意味では愛と食欲と物欲に大きな違いは無いが、しかし澁澤龍彦は「愛は人間を人間として再発見させる」と言っている。それはなぜか。ここで言われる愛が「男女の愛」つまり「恋愛」だからだ。彼、または彼女が得たいのは相手の肉体だけではなく、人間(貴重な存在)としての全体なのである。恋愛の対象に肉体的欲望を持つこともあるだろうが、真の恋愛はむしろ相手を崇拝し、相手を地上一寸離れたような崇高な存在と「思いたい」欲望があるはずだ。
こういう美化作用、スタンダールの言う「結晶作用」は崇拝される当人には有難迷惑かもしれないが、そういう要素の無い恋愛は、単に性的欲望に娯楽性が少し加わっただけのものではないか。つまり、ドン・ジュアン(ドン・ファン)は、無数の女を手に入れただろうが、一度も「恋愛」はしていないと推定される。一見恋愛に見えるものも、相手の手に入れにくさが恋愛のゲーム的難度を高めて彼に闘志を燃やさせただけだろう。
話が逸れたが、とりあえず、「愛は人間を人間として再発見させる」というテーゼは正しいと私は認定する。と同時に「エロティシズムは人を物に変える」というテーゼにも同意する。もちろん、だからと言ってエロティシズムが無価値だとか不道徳だとか言う気は無い。実はエロスは倫理と対立的であるのが普通なのだが、それをきちんと論じるのは別の機会にする。

ついでながら、「Love」という言葉に神の愛から性愛まで含めたのは英語圏の人間の恋愛観念を混濁、いや、汚濁させたと私は思っている。(人間は自分の母語あるいは主言語でしか考えられないからである。)このこともいつか論じたい。




サバイバル主体の人生訓

まあ、風呂と布団は生活維持の基本みたいなものだ。自衛隊員(軍人)だからこそ平和に感謝する、というのも当然である。戦争国家アメリカでも、政治家が戦争を煽り、軍人は冷静に戦争の抑止を言うのが多いらしい。ただし、軍隊上層部は外部に対し「(敵性国家によって)戦争が起こる危険性」は常にアピールする。当たり前である。戦争発生の危険性が軍隊の存在意義なのだから。

「ヤバいときは笑え」というのは、笑うことで目の前の危機だけに囚われた心が冷静になるからだろう。

(以下引用)


陸上自衛隊で学んだ人生訓「痛みは電気信号に過ぎない」「靴下には金をかけろ」「飯は食えるときに食え」「寝れるときに寝ろ」「ヤバいときは笑え」「靴は磨け」「テンションは自分であげろ」「風呂と布団に感謝しろ」「平和に感謝しろ」これらに気がついてから人生一気に充実した。


未成年者同志の性交がなぜ法的問題にならないのか

私はもちろん、大人と未成年者の性交は(合意があっても、一般的に未成年者の判断能力が未熟だというのはほぼ確実なので)法的に禁じるべきだと思うし、重い罰則があっていいと思うのだが、それなら、「未成年同士の性交」も法的に禁じるべきではないのか。たとえば小学生同志で性交するなど言語道断だろう。もちろん、中学生も同じだ。なぜ、未成年者同志の性交が法律で禁止されないのか、その法理的根拠が私には分からない。

(以下引用)

日本のロリコン風土は気持ち悪いが18歳未満性交禁止を主張する人も気味悪い。思い出すのは米国でそれを黒人弾圧に活用された事だ。高校生同士の恋愛は珍しくないが男子が黒人で女子が白人の場合は別。男子はレイプ犯にされてしまう。日本でも必ずそうなる。男子が在日韓国朝鮮人の場合レイプ犯にされる

子供の喧嘩に親(暴力団ww)が出る

念のために言えば、「子供の喧嘩に親が出る」は、親の愚行として諫める言葉である。
だが、いじめなどの場合、下手をすると子供の自殺に至ることもあるので、親や教師は大変だ。

神奈川・大和 暴力団関係者が小学生同士のトラブルに介入

社会 | 神奈川新聞 | 2021年6月8日(火) 11:50

 大和市の市立小学校で昨年、保護者の暴力団関係者が児童間のトラブルを巡って、他の保護者に土下座を強要するなどしていたことが7日までに、関係者への取材で分かった。

 保護者有志は当時の校長ら学校側の対応が不適切だったとして、市教育委員会に第三者による検証を要請。

 市教委は神奈川新聞社の取材に「当事者の児童が特定される」などとして検証内容を明らかにしていない。

校長「謝った方がいい」

 関係者によると、昨年8月以降、保護者の暴力団関係者が「自分の子どもがいじめられている」などと学校側に訴えた。

 関係する保護者同士で話し合いが行われたが、同12月、暴力団関係者が自宅に保護者の夫婦を呼び出し、「家族全員ぐじゃぐじゃにしてやろうか」などと怒鳴って謝罪を要求し、土下座を強要した。

 相談を受けた大和署は今年2月、強要容疑で暴力団関係者を逮捕。同5月に執行猶予付きの有罪判決が出た。

 関係者によると、同様の行為は、ほかの複数の保護者にも及び、暴力団関係者が学校側に校長室などに関係する保護者を呼び出すよう求めたこともあった。

 関係者は神奈川新聞社の取材に「『いじめていない』と主張した児童がいたにもかかわらず、学校側は十分に確認せず、当時の校長らから『暴力団関係者だから早く謝った方がいい』との趣旨の助言があった」などと証言した。

 また、学校側が昨年11月に開かれた運動会の代替行事に、この暴力団関係者の仲間の立ち入りを容認したことも判明。

 コロナ禍で行事の参観人数は制限されていた。児童が怖がり、不安を感じた保護者が学区外に転居する事態にもなったという。

第三者による検証求める