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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

ジャズの変質とクルーナーの消滅

私は勘違いしていたが、むしろ「朗々と歌う」歌い手をクルーナーと言うと思っていた。(案外、「クルーズ船」からの連想であるかもしれないwww)つまり、クラシックスタイルである。ビング・クロスビーが、低く抑えた歌い方だ、というのもピンと来ない。ささやくような、という言い方もピンと来ない。「ベルベットボイス」は納得できる。とにかく、「低い声」とか「ささやくような」とかいう印象ではなく、大声を出さなくても「響く」、奥行きのある歌い方、という印象である。だから、「朗々と歌う」のとは正反対と言えばそうなのだが、よく響く声である、という点が下の説明では欠けている気がする。
では、ナット・キング・コールはクルーナーか、と言われたら、少し違う気がする。究極的にボイスコントロールの名人だと思うが、「低い声」とか「ささやくような歌い方」ではないだろう。単に、それ以前のクラシックなジャズシンガーとは異なる新鮮さと繊細さを持った歌い方だったのではないか。
たとえば、「ジャズシンガー」の主人公(もちろん、モデルである歌手と映画の俳優やその歌は別だろうが)の歌い方は、まさに「朗々と歌う」歌い方で、やはりクラシックな唱法だと思う。下の記述に近い歌い方としては、メル・トーメなどがそれではないか。ただし、彼には「軽快な感じ」は無い。そこはやはりビング・クロスビーがそれである。初期のフランク・シナトラもそれに近い。まあ、ジャズ自体が、モダンジャズ以降は変質したために、ジャズシンガーも軽快さを失ったのではないか。


(以下引用)

クルーナー(英語表記)crooner

翻訳|crooner

世界大百科事典 第2版「クルーナー」の解説

クルーナー【crooner】

1930年代に現れた,あるタイプのポピュラー歌手を指す言葉。B.クロスビーがその代表で,ちょっと鼻にかかった柔らかい声と,ジャズから学んだ節まわしを特徴とした。それまでの歌手たちが,張った声でメロディをストレートに歌っていたのに対して,しゃれた軽快な感じが大いに受けた。ソフトな発声はちょうどそのころ普及し始めたマイクロホンをうまく生かしたものでもあった。【中村 とうよう】

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

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添付と貼付

いや、言葉にうるさい私だが、「貼付」の正しい読みが「ちょうふ」だとは知らなかった。誰でも、「貼」の右側を見たら「点」の連想で「てん」としか読まないだろう。「占断」を連想した人でも「せん」と読むはずで、これを「ちょう」と読むのはなぜだろうか。おそらく、「帖」の字があるように、「占」には「ちょう」という音読みがもともとあったのだろうが、「帖」が一般的に「帳」になった現代では「帖」という字そのものになじみが無い人がほとんどではないか。せいぜい「捕物帖」以外には使わないと思う。

(以下引用)

添付と貼付の違いとは?意味や読み方も解説

ビジネス語彙
この記事の読了目安: 約 4 分 49 秒

添付 貼付 違い 読み方 メール

 

添付」と「貼付

この2つの言葉は、
会社の書類やメールを作成するときによく目にすると思います。

「メールに添付してください。」

「写真を貼付してください。」

どちらも似たようなイメージですが、
一体どう使い分ければいいのでしょうか?

さっそく、確認していきましょう。

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添付の意味・読み方

 

まず、「添付」の意味を調べると
次のように書かれています。

【添付(てんぷ)】

書類などに、付け添えること。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

添付てんぷ)」とは、
書類などに付け添(そ)えること」を意味します。

つけそえる」とは、
つけ加える・補足する」などの意味だと思ってください。

つまり、それだけじゃ足りない時に何かを付け加えるようなこと
添付」と言うわけですね。

 

主な使い方としては、以下の通りです。

「提出する書類に、免許証のコピーを添付する。」

この場合、
提出すべき書類が何枚かあることが想定されます。

例えば、5枚なら5枚といった形です。

しかし、この5枚だけでは足りなく、
免許証のコピーも提出する必要があると分かりました。

その場合に、「免許証のコピーも付け足す
という意味で「添付する」と言うわけです。

 

一般的には、「添付」の方法としては、
提出書類と補足資料をクリップなどで止めて
まとめて出すことが多いようですね。

また、書類だけでなく、
「メールに添付する」という言い方もします。

この場合は、メール本文とは別に、
画像ファイルとして書類を付け加える」という意味だと考えてください。

要するに、別の独立したデータとして
相手に補足資料を送るということです。

貼付の意味・読み方

 

続いて、「貼付」の意味です。

【貼付(ちょうふ)】

はりつけること。

《慣用読みで「てんぷ」とも》

出典:デジタル大辞泉(小学館)

貼付」は、「ちょうふ」と読みます。

上の説明だと「てんぷ」とも書かれていますが、
この読み方は「慣用読み」と呼ばれるものです。

「慣用読み」とは、
元々は間違った読み方が皆が使う内に
なぜか定着した読み方のことです。

したがって、本来の読み方としては、
ちょうふ」が正しい
ということになります。

そのため、
「貼付」は「ちょうふ」と読むようにしましょう。

 

意味としては、「貼り付けること」を表します。

例えば、以下のような使い方です。

「履歴書に写真を貼付する。」

社会人の方なら、誰しも履歴書に自分の写真を貼った経験があるかと思います。

「糊(のり)」などを使って
一生懸命ずれないようにして貼り付けたでしょう。

このように、何かをペタっと貼り付けること
貼付」と言うのです。



国柱会

私の好きな宮沢賢治について、非常に気になるのが、彼が日蓮宗の教徒で国柱会会員だったらしいことだが、石原莞爾と、宮沢賢治という大物ふたりが会員だったことで、国柱会という存在が非常に意味ありげに思われる。或る種の「世界的把握」あるいは「宇宙的想像力」というのが日蓮宗、あるいは法華経の中にはあるような気がする。まあ、宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の中にキリスト教的思想も書いており、エスペラントに興味を持つなど、必ずしも仏教に凝り固まっていたとは思わない。

(以下引用)


国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義スローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。

思想・信仰[編集]

国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。

教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。

更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。

なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊教祖日蓮宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

歴史[編集]

創始期[編集]

智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。

1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。智学はその中でも神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。

国柱会へ改称以降[編集]

1914年大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改称。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って外郭団体「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。

1923年(大正12年)には議会政治に参画する目的で「立憲養正会」が結成され、国立戒壇建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布、宗教革命を目指した。1929年(昭和4年)には智学の次男・田中澤二が総裁に就任。澤二は前年の第16回衆議院議員総選挙に立候補し落選、澤二の議席獲得はならなかった。しかし1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に同会公認で立候補し落選した田中耕が同年繰り上げ当選し、初めて帝国議会に議席を獲得した。田中耕は1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙にも立候補し再選。地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。同会は新体制運動大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。

1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。

また、著名な会員であった帝国陸軍石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。




乳癌と子宮癌への疑問

自称「キチガイ医」の内海聡のブログ記事だから信じる信じないは勝手だが、聞くに値することも書いてあると思う。
下らない疑問だが、「マンモグラフィー」というのは、乳房を押しつぶしてX線写真を撮る、みたいな手法だと聞いたことがあるが、貧乳の女性はどうするのか。(そもそも乳房が無いのに乳癌になるはずがないだろう、という疑問もあるが、何となく小学生的な疑問のように思う。)欧米あるいは日本以外での国での乳癌発生率は知らないが、あまり聞いたことは無い。つまり、乳癌は「検診で作られている」可能性もあるかと思う。ちなみに「子宮癌」も、海外セレブがそうなったという話はまったく聞かない。男性との性交で移る病気なら、ほとんどフリーセックスの欧米で蔓延しているはずである。

(以下「大摩邇」から転載)

癌検診

内海 聡さんのサイトより
https://note.com/utsuminkoushiki/n/nab4dcfb0c8bd
<転載開始>
  ① 人間ドック
  ② 脳ドック
  ③ 癌検診
  ④ メタボ検診
  ⑤ 定期健康診断
 
これらを五大検診と呼びます。
五大検診は、表向きは国民の健康を守るという建前になっています。
しかし、実情は巨大医療産業の利益を守るために存在します。
五大検診ビジネスは健常人を病人に仕立てて、さらに検査漬け、薬漬け、手術漬けで稼ぐための罠・仕掛けなのです。
人間ドックは日本人だけの奇習です。
人間ドック検診で最も恐ろしいのが、レントゲン検査によるX線被曝です。
 
定期健診には、病気を防いだり、寿命を延ばす効果はありません。
欧米では、行政も企業も定期健診などしていません。
定期健診は日本だけの奇習です。
日本では労働安全衛生法で雇用主に強制されており、拒否すると処罰されます。
特に怖いのが、胸部X線撮影を国家が強制している事です。
定期とは言えませんがマンモグラフィーの恐怖の検査の代表格です。
欧米には人間ドックはありません。
脳ドックもありません。
日本の人間ドックの一日利用コースが約280万人、二日コースだと約25万人。
人間ドックという言葉自体造語で、海外でヒューマンドックといっても通じません。
人間ドックは92%近くが異常と判定されますが、異常の枠を圧倒的に広げることで医療業界が儲かるからです。
そして日本は医療費増大、死人だらけに実際なっています。
 
人間ドックや検診で使われるものの代表、CT検査。イギリスの研究機関はCT普及率世界一の日本の、CTによる発ガン率は3.2%でイギリスの五倍と発表してます。
CTと並んで人気が高いのがPETですが、CTより線量が高いうえ公式データでも85%の癌を誤診、体内を内部被爆させます。
マンモグラフィーが乳癌を増やし誤診を増やします。
あるアメリカの研究では、マンモグラフィーで癌と診断された女性の殆どは癌ではなかったと報告されています。
 
定期健診はどうかということこちらも最悪です。
ある研究では肺がん健診の実効性を調べたところ、健診を受けたほうが死亡率が高まりました。
アメリカを含む各国でも同様の大規模調査が行われ、まったく同じような結果が出ました。
ところがこれらの研究の約10年後に日本では、毎年肺がん検診を受けると、肺がんによる死亡率は半分になると、嘘が報道されました。
ところがこの調査はグループ分けさえろくに行っていなかったのです。
 
OECDデータでは1年間に病院に通う数字が、日本は13.4回でトップ。
福祉先進国と言われるスウェーデンでさえわずか2.8回。
フィンランドの研究では15年かけて行われた調査もあり、健診を受け医者の指導を受けたほうが、死亡、心臓死、自殺すべてにおいて増えました。
こういう調査をどんどん受けて欧米は健診をやらなくなったわけですが、このような職場健診を法律で義務付けられているのは世界で日本だけです。
 
では、海外ではすべての検診は放棄されているのでしょうか。実はそうでもありません。
やりたい人は自由意思でやることは可能ですが、ここでも統計のトリックがあります。
海外で検診が多いというデータの場合、日本のような法定検診のデータではなく、自主性を含めたデータ、かかりつけ医に頼んで行う非侵襲性的な検診を含めるため、日本と比較できないのです。
日本は病気作りのための検診ですが、欧米の方がまだマシなのです。
 
つまりたとえば欧米では乳がん検診に類するものをする場合、マンモグラフィーではなく触診が当たり前であり、あとはビタミンDの測定などで危険性を判断し、それを食事や生活指導に結びつけるのです。
これも検診といえば検診ですが、これらを含めてしまうと日本より欧米が検診比率が高い分野もあります。
日本では本質的な予防は決して行いません。
そうすると医療業界や製薬業界、政治家や大企業が衰退してしまうからです。

「大審問官」とジュズイット

「カラマーゾフの兄弟」の中でローマ・カトリック教会、特にジュズイットが批判され、フリー・メイソンとの類似性が書かれているのだが、ジュズイットについての簡単なメモである。
まあ、要するに、ローマ・カトリックの最右派、法王絶対主義的な存在と言える。ドストエフスキーから見れば、ローマカトリックはキリスト精神の捻じ曲げであり、ローマ法王は「キリストの権威の簒奪者」であるわけだ。つまり、「大審問官」とはローマカトリックそのもの(象徴的人格化)だと言えるだろう。


(以下引用)


弾圧と復興[編集]

ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。

このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し[7](彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された[8]。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。

スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。

20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マレー英語版がおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言英語版」の草稿を書いたことで知られる[9]