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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「道徳・倫理の発生機序」

「道徳・倫理の発生機序」

道徳や倫理(この違いは明確ではないが、「倫理」に「理」という字が入っている以上、「道徳」を「合理的なもの」として集成した体系が「倫理」だと思われる。)は「禁止の体系」だと言われる。そして明らかに部族や社会の秩序維持手段として発生し成長したと思われる。
その根幹となる「禁止」は何か、と言えば、総体的には「欲望の禁止」だろう。ほとんどすべての道徳や倫理、あるいは宗教で「欲望」は禁止対象となっている。
だが、欲望の充足こそは人間が最も求めるもので、人生の目的と言っていい。それが禁止されるのが道徳や倫理だから、普通人が道徳や倫理、あるいは宗教を敬遠し、嫌うのは当然であり、中で「意識の高い人間」たちが、「道徳や倫理や宗教のような『人間性の自然に反するもの』がこれほど歴史の中で重視されてきたからには、それには単なる欲望の満足以上の貴重な精神的価値、人生的価値、社会的価値があるのではないだろうか」と考え、深く考察してきたわけだ。私のこの小論もそのひとつだ。
幼児や小児は道徳や倫理を知らない。そこで、彼らは自分の欲望を満足させるために泣いたり喚いたりして大人を困らせる。この、「欲望の達成は他者の迷惑になる」ということが倫理や道徳の発生機序だろう。大人は幼児や小児が何かを求めて泣きわめくと、それを与えて黙らせるか、脅すか叩いて黙らせる。この「脅し」が宗教での「地獄」などである。「叩くこと」が一般社会の「法律」である。他人の物に手を出す(盗む、奪う)と刑法で罰せられる。これは小児を叩くのと同じである。言葉で説得して相手の行為を止める(黙らせる)のが「道徳」や「倫理」である。だから、基本的に幼児や小児には通用しない。ただ、幼児や小児が欲望の対象として求める物は高価なものではないから、通常はそれを与えるだけで済む。
道徳や倫理は法律より「運用が困難」である。法律の背後には政府があり、警察や軍隊という暴力装置がある。しかし、道徳は基本的に「自分自身が自分の法律であり、法秩序の維持者」なのである。誰の心の中にも「自分ルール」があるが、それは自分の知った大人の影響や、自分の読んだ本の影響でできている。そうした個々人のルールの平均的なものが社会秩序の維持に役立つ場合、それが社会道徳となる。(「公衆道徳」は、普通は公の場でのルールだから、社会道徳とは少し違う。社会道徳は、ひとりでいる時も、個人を規制していることが多い。)
たとえば、「他人に暴力をふるってはならない」というのは基本的な社会道徳だろう。だが、それを守らないどころか、あえて無視する人間もいる。つまり社会の中の野獣だ。学校という治外法権の小世界では、よく見られる人種である。また、刑務所の中などでは、「ルール」はあっても「道徳」は無いだろう。道徳とは自ら進んで服する自己規律なのである。刑務所のような下層社会でなく、逆に社会の上位者の世界には特殊な「自分たちに都合のいいルール」があるようだ。これも「道徳」ではない。道徳の大半は、「他人への肉体的精神的危害を禁じる」もので、それを厳しく守ると他人より上に行けないものなのである。戦争という殺人行為は明白に道徳に反するが、しかし国家の命令では兵士はその殺人行為に従事するしかない。戦争において「戦争反対」を叫んだ宗教者は驚くほど少ないのである。つまり、彼らの「殺すなかれ」は大嘘であるわけだ。
「道徳」は普通は「人生を良く生きるためのアドバイス」であることが多い。しかし、大多数の人にとっては、その背後に道徳の履行を強制する「創造主」のような絶対的存在が無いから、その道徳を守るかどうかは個人の選択に任されている。

まあ、まだ言い落としていることがあるかもしれないが、とりあえずここで筆を擱くことにする。




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妄想との比較という妄想

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、こういう「ありえたかもしれない人生」と比べて、今の人生を不満に思う、という人はどれくらいの割合でいるのだろうか。それをたとえば「結婚」だけに限定して、「他の相手と結婚していたら幸福だっただろう」と思う人は、男よりは女に多いような気がする。まあ、どちらが多いかというのはさほど問題でもないか。
私なども、初恋の女の子と結婚していたら人生はどうなったかと妄想することも無いではないが、その妄想はあまりに馬鹿げているので、まったく想像が先に進まない。
いずれにしても、「単なる妄想との比較」という思考パターンは愚劣なのではないか。
この手の愚痴というのは、だいたい「責任は自分ではなく他人にある」という思考が大前提なように思われる。

(以下引用)

モヤモヤして眠れないか

ちょっとした愚痴

私の旦那出会った時から現在まで定職に就いた事がが無い。

3度の飯と体を動かす事が大好きで、たまにスポーツコーチ格闘技トレーナーみたいな仕事スポットでする以外は、

基本トレーニング登山等の運動に勤しんでいる。だから家事生計もほぼ全て私が担ってきた。

子供も二人いて、両方とも女の子

長女は外見はどちらかと言えば私に似たんだけど性格旦那に似てしまい、

高校卒業後は旦那と同様定職に就かずに、良く分からない不定業で自称家事手伝いで暮らしている。

もちろん家には一切お金を入れていない。

お小遣いとかも上げて無いけど何か上手い事してるから収入自体はあるみたいだけど。

次女は大学生だけど体型が旦那に似てしまって、女らしさがあまり無い感じでこれはこれで将来が不安

180cm近くの身長で、下手な男よりも背が高いから、そういう意味でも敬遠されていると思う。

実際に未だに彼氏等の気配は無い。(同性にはモテるらしい…)

私自身には家族を養える程度の収入はあるし、それなりに平凡な生活を送って来たつもりなんだけど、

旦那ちゃんと働いて妻は主婦パートで、子供もそれなりにちゃんと育って…みたいな家庭を見ると、

ついつい自分の家庭を比べてしまい、もっと幸せ生活があったんじゃないかと思ってしまう。

旦那を選んで子供を産んだのは自分だし、後悔したってしょうが無いんだけど、それでもたまにモヤモヤして眠れなくなる。

「不完全性定理」

ゲーデルの「不完全性定理」を非常に大雑把に言うと、「論理とかいうものに完全性などない」と言えるのではないかwww (数学の場合は「設定」によって部分的完全性を得るだけだろう。たとえば、ユークリッド平面と非ユークリッド空間の違いのようなものだ。)
下の文章は、「不完全性定理」を日常語で説明したもので、まあ、私も真剣に読んではいないが、思考訓練のネタに転載しておく。

(以下引用)

【日常言語による不完全性定理】

【まえがき】

 このページでは、 正直者のパラドクスを用いた日常言語による不完全性定理の証明を行います。 正直者のパラドクスは、「私は正直者です」という文の真偽を考えると起こります。 もし、「私」が正直者であれば、この文は真となって何の矛盾もありません。 しかし、「私」が嘘つきだったとしても、 嘘つきが自分を正直者と嘘をつくことに何の矛盾もありません。 つまり、「私は正直者です」という文は、真と考えても偽と考えても矛盾せず、 どちらか分からないのです。ここでは、「私」が健全であるなら、 「私は正直者です」が証明も反証もできないこと、 すなわち第一不完全性定理を証明し、それを用いて第二不完全性定理も証明します。

 ただし、ここで証明する第一不完全性定理は、 無矛盾ならば不完全という形ではなく、健全なら不完全という形です。 また、第二不完全性定理は、 無矛盾なら無矛盾であることを証明できないという形ではなく、 健全なら健全であることを証明できないという形の定理です。 健全性とは無矛盾性より強い性質で、証明できるなら真という性質です。 健全なら無矛盾ですが、無矛盾なら健全とは限りません。 しかし、健全性の成り立たない理論は、たとえ無矛盾だとしても使い物にならないので、 論理の信頼性を議論するという意味では、この形の定理の方が重要です。

【準備】

 まず、いくつか準備をしましょう。 「私」という代名詞と正直者という概念にはいくつかの解釈があるのですが、 ここでは第二不完全性定理を証明するのに必要な解釈を採用します。 以下では「私」は人であるかのように書きますが、 実際には公理系を指すと思ってもらうと分かりやすいかもしれません。 想定するのは日常言語を交えた自然数論の公理系です。 自然数論程度の記述能力があれば、 「私は正直者です」という概念を表現できるはずです。 これは厳密には証明が必要なことですが、ここでは認めてしまいましょう。

 次に、「私」とは正直者かあるいは嘘つきのことです。 正直者でも嘘つきでもない人はこの世界にはいません。 正直者とは自然数論の真なる文のみを発言する人のことです。 正直者が発言できる文のことを正直者の発言可能文と呼ぶことにします。また、 嘘つきとは自然数論の偽なる文のみを発言する人にことです。 嘘つきが発言できる文のことを嘘つきの発言可能文と呼ぶことにします。 正直者の発言可能文のうち、証明可能な文のことを定理と呼びます。 嘘つきの発言可能文のうち、反証可能な文のことを反定理と呼びます。 明らかに、 定理は正直者の発言可能文の部分集合であり、 反定理は嘘つきの発言可能文の部分集合です。

 また、定理と反定理の間には以下の関係があります。 もし、命題 A が定理ならば、not A は反定理です。 もし、命題 A が反定理ならば、not A は定理です。 さらに、次の条件が成り立つとします。 正直者は正直者の発言可能文の全てを発言する必要はありません。 定理の全てを発言すれば十分です。 嘘つきは嘘つきの発言可能文の全てを発言する必要はありません。 反定理の全てを発言すれば十分です。 つまり、どちらにも黙秘権があります。 以上で準備は終わりです。

【第一不完全性定理】

 これから第一不完全性定理の証明を始めます。 まず、「私は正直者です」が定理であると仮定します。 すると、「私は正直者ではない」が反定理になるはずです。 しかし、「私は正直者ではない」は嘘つきの発言可能文ではありません。 反定理は嘘つきの発言可能文の部分集合なので、 「私は正直者ではない」は反定理ではありません。 これは矛盾なので、「私は正直者です」は定理ではありません。

 次に、「私は正直者です」が反定理であると仮定します。 すると、「私は正直者ではない」が定理になるはずです。 しかし、「私は正直者ではない」は正直者の発言可能文ではありません。 定理は正直者の発言可能文の部分集合なので、 「私は正直者ではない」は定理ではありません。 これは矛盾なので、「私は正直者です」は反定理ではありません。

 「私は正直者です」は定理でも反定理でもないので、 証明することも反証することもできません。 これで第一不完全性定理が証明できました。ただし、「私」が矛盾する場合、 つまり「私」が従っている自然数論が矛盾する場合は、 全ての命題が証明かつ反証できるので、上記の証明は成立しなくなります。 したがって、上記の証明には、「私」は無矛盾であるという条件が必要です。 実際には、正直者という概念を表現するのに、より強い健全性が必要です。 これは、「私」は正直者か嘘つきかのどちらかで、 正直者でも嘘つきでもないという状態がないという条件と同値です。

【第二不完全性定理】

 これから第二不完全性定理の証明を始めます。「私は正直者です」が真だとします。 すると、「私」の発言は全て正しいことになります。 ここで、「私」の定理を任意に1つ選び命題 A とすると、 定理は正直者の発言可能文の部分集合なのですから、A は必ず真になります。 定理は証明できる文のことなので、これは証明できるなら真ということです。 よって、「私は正直者です」という文は健全性を表す文です。

 上記、第一不完全性定理の証明により、 「私は正直者です」は証明も反証もできませんので、 健全性は証明も反証もできません。これで第二不完全性定理が証明できました。

【あとがき】

 このページでは正直者のパラドクスを用いて、 第一不完全性定理と第二不完全性定理をきわめて簡単に証明してしまいました。 特に難しい数式や概念を用いているわけではないので、 たぶん間違いはないと思いますが、証明した当の本人ですらマジか? という心境です。何かとんでもない見落としがある可能性もあるので、 参考にする人は十分に検証してくださいね。

【追記】

 その後詳しく考えて、何でこんなに簡単に不完全性定理が証明できるのか、 そのカラクリが分かりました。日常言語では「私」という代名詞が、 正直者も嘘つきも指すことができます。しかし、数学の言語では、 正直者な私と嘘つきな私を使い分けてやらねばなりません。 つまり、「私は正直者です」という命題を論理式に書き換えてやると、 正直者バージョンと嘘つきバージョンの2通りの論理式ができるということです。 なるほど、それだと数学の言語では上記の証明は通りませんね。 そのほか、無矛盾性と健全性の違いなども影響しているようです。

 この教訓は、日常言語の表現力は数学の言語より強力で、 日常言語では簡単に証明できることでも、 数学の言語で簡単に証明できるとは限らないということですかね。 漠然とした感想ですが、文脈依存と文脈自由の違い等が原因ではないかと思います。

 それにしてもこのネタは危険ですね。 私自身私にまんまとだまされてしまいましたが、 素人をけむに巻くにはうってつけのネタですね。コワいコワい。

女性がなぜDV男やヤクザ男に惚れるのか

私は、恋愛についての女性の思考形態が理解できないのだが、下の「はてな匿名ダイアリー」記事コメントは案外的を射ていると思う。
要は、女は強い男が好き、ということで、(まあ、一般論であるが)DV男やヤクザが案外モテるのはそこだろう。で、弱い男でも演技で強そうに見せればいい、という面もありそうだ。人間というのは他者の内面などそれほど洞察できない。
もちろん、弱い男やダメ男でも女性の母性本能(というものがあると仮定して)を刺激して、好きになることもあるだろう。「めぞん一刻」の響子さんの最初の結婚も、他の女生徒たちから馬鹿にされている冴えない教師への同情心が母性本能を刺激したのではないか。大事なポイントとして、響子さんは女子高だったので、自分の美人さの価値をさほど高く感じていなかっただろう、ということがある。自己評価が高ければ、あんな結婚はしないはずだ。あるいは、三鷹のハンサムさをさほど感じてもいないところを見ると、美的感性に欠陥があった可能性もあるww

ちなみに、私は性的には引退しているので、これはただの趣味的考察である。


(以下引用)

暴力的な男はモテる

オスとして強いという証明からな。

DV男がモテるのは、「自分に平気で暴力を振るえると言うことは女に困ってないんだな。モテる優秀なオスなんだな」と女の脳が判断するから

弱者男性暴力性と加害性を高めればモテるようになるよ。

絵画と私

このひと月ほどの間、絵を描くのが趣味だったのだが、ここ数日スランプである。つまり、「面白いモチーフ」が思い浮かばない。そうすると、描きたいという熱が湧かないわけだ。
まあ、描きたいものはすべて描いて、自分の能力ではこのあたりが限度かな、という気もする。で、描いたものはほとんど満足しているのである。偶然性を利用した部分の多い描き方だから、再現性は無い。まあ、いたずら書き(描き)をヒントにして、それを明確な画にしたものもあって、それには満足している。絵の具の混じり方や筆のタッチなど、自分でも満足できるものが何点かある。それらははっきりと「他者の模倣」ではないオリジナリティがあると自負している。
もちろん、習作として、あるいは練習として、ネット写真の風景を元にして描いた絵もあり、中には満足できるものもある。ただ、写真の風景をそのまま絵にしたわけではないし、それができる技量もない。「できるだけ描かないで、見る人に想像させる」のが私の絵のモットーだ。「情報量を最小限にすることこそが見る人の想像力を刺激する」というわけだ。いわば、水彩絵の具を使った「水墨画」という感じだろうか。逆に、水彩絵の具をいろいろ混ぜて、「原始的印象」を与える絵もある。それも気に入っている。苦手なのは、「光の表現」と「透明な物の表現」で、これは素人でも見事な技術を持った人がいる。
しかし、絵でリアリズムを追求するくらいなら、写真で十分だし、写真に及ばないわけで、私は、絵は技術より描く人の「イマジネーション」が価値があると思っている。たとえば、キリコやダリの絵などだ。あるいはゴッホの絵などだ。しかし、そういう絵や絵描きは少ない。個性があるとされる絵描きは、ほとんどが「少ないパターンを毎度自己模倣している」だけである。日本画の大家はそれしかいない。ピカソなども、「これはピカソの絵だ」と見れば分かるのは数点だけだろう。そういう意味ではキリコもダリも数点しか実は「代表作」は無いと思う。
で、私は既に「自分の代表作」を何点か描いたので、実はこれで画家(笑)を引退してもいいかな、とは思っている。ただし、最近のスランプが、「描くべきものは描きつ」(例の「見るべきものは見つ」)なのか、この先にまた「第二の波」が来るのかどうかは分からない。