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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

突然のニヒリズムと自殺

かなり貴重というか、希少価値のある体験談である。
まあ、一般に言う「魔が差す」だ。(この場合は「差す」でいいのか?)
そのまま死んでいたら、父親との口論が直接の原因だったわけで、それを知ったら父親はどうなっただろうか。

(以下引用)

10年前に首を吊ったことがある

失敗したというか、そもそも成功するかどうかわからない雑さだったので生きている。

それは本気で死ぬ気ではなかったのでは、と思われるだろうが、後にも先にもあんなに「死」に取り憑かれたことはないし、本当に病的に死ぬ気だったのだと自分ではわかる。

当時の自分は、社会人一年目で、新卒人間自分の他に一人しかおらず、あまり職場に馴染めず鬱々としていた。

こう書いてしまうとさもありなんと思われるだろうが、それ自体別に死ぬほどのことではなかった。

仕事の代わりに趣味が充実していたし、楽しいこともいろいろあったし、明確なパワハラがあったわけでもない。

なんとなく職場のことは好きではないが、やってることはまあ嫌いでもなかった。

なかったのだが、色々なストレス自覚もないまま積み上がっていたらしい。

とある連休の折り、地方住まいの両親が会いに来てくれた。

食事の席で珍しく酒を飲み、少々酔い、気分良く話していたはずが、気がついたら父親口論になっていた。

なんでそんなことになったのか、全く思い出せない。実際、ものすごく些細な話だったのだと思う。

不機嫌に別れて家に帰った。帰り着いて、風呂に入って、なんでかわからんがめちゃめちゃに泣いて、時間はすでに深夜だった。

まりにも突然急に、あっ、死のう、と思った。

自分で言うのもなんだけど、正直昔からメンタルが強いほうではなかった。人生のうち半分以上を「死にてぇ〜」と思いながら生きていた。

生きていたけれども、「死にたい」じゃなくて「死のう」となったのはその時だけだ。

そして「死のう」の質感は、「死にたい」と全然違っていた。

WEBで今できる死に方を検索した。できるだけ苦しみが少ない方法。それらしいのを見つけた。これだと思った。

親しくしてもらっている大家さんに迷惑がかかるとか、今まさに近くに来ている両親のこととかも考えた。

胸が痛むような気持ちを遥かに上回って「死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」と思った。

誰かが困っても、泣いても、死んだ後だからどうでもいい。

そのころ私は趣味WEBサイト運営していて、そこそこ閲覧もされていた。

親しくなった友人も、慕ってくれる閲覧者もいた。

当時はまだ個人サイトを作る人間も多く、そしてなんらかの理由更新が止まってしまったところも多かった。

いつかまた更新されるかも、という期待の残る跡地は切ないので、自分サイトを閉じる日が来たら、ちゃんとその旨を掲示して、これまで見てくれた人への丁寧な感謝文章を書こうと、ずっと前から決めていた。

お知らせのための新規ページを準備して、文章を2行くらい書いたところで思った。

「これもやっぱり死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」

この瞬間の確信は、今思うだに異常だった。

周りが聞いたら些細なことかもしれないけれど、当時の自分の一番の矜持とかこだわりみたいなものが、バツンと切られて散ってしまった。

スイッチが入る、という表現が一番近い。切るのではなく、入るのだ。「死のう」という方向に入ってしまう。

恨んだ人間も、お礼を言いたい人間もそこそこいたけれど、それも全部どうでもよくなってしまった。だから遺書も書こうとしてやめた。

面倒くささのほうが圧倒的に上回っていた。

詳しい方法は書かないが、死に損なって障害が残るのは絶対に避けたかったので、そうなる確率が低い方法をとった。

実行する直前で、就活中に軽い不眠になった時期があり、一時的に処方されていた睡眠導入剤のあまりがあった(このときかかっていたのは普通内科だった)のを思い出した。

全部飲んでしまおうかと思ったが、胃洗浄などになったら死ぬより辛いという話を聞いていたので、普通より効果が出るだろう、くらいの量だけ口にして首を吊った。

死にたいけれど苦しみたくはない自分が本当におかしかった。けれど、死んでしまえたらもうそういうことも考えないんで済むんだな、と思った。

頭がぼんやりしてきて、手と足の感覚がなくなったときものすごい解放感だった。嬉しかった。

死ぬとわかっただけでこんなに楽になるのなら、もっと早く思いついておけばよかったと思った。そのあたりで意識が途切れた。

目が覚めたら翌日の朝で、床にすごい体勢で倒れており、身体中がばきばきに痛くて、首には紐の跡が残っていた。

要は紐の結び方が甘くて、主に薬の効果意識が飛んだあとに自重で解けて、そのまま床で寝ていたらしいのだけれども、起きたら「死のう」の気持ちは吹っ飛んでいた。

びっくりした。死にたくなくなったことではなく、あんなにも盲目的に死のうとしていた自分のことが、まったくもってわからなかった。

魔がさすとか、憑き物とかいうけど、ほんとそんな感じだった。あまりにも明確に「どうかしていた」。

自分のしでかしたことが怖すぎて、トイレで吐いた。ついでにめちゃくちゃ腹が痛くなって困惑していたら、普段の周期より1週間も早く生理が来ており愕然とした。

(一部の女性には、ホルモン作用により生理前の時期に鬱に近い状態になってしまうPMDDという症例があるのだが、このとき生理周期が狂ったことも含め、なんらかのホルモンバランスの不調が原因で、それだった可能性がなくはない)(ただ、一因ではあるかもしれないがそれだけではないし、それが理由とも限らない)

首を吊った紐は捨てた。気に入っていたワンピースベルリボンだった。悲しくて怖くて服も捨てた。もう一度泣いた。

仕事は休んで心療内科に行って、薬をもらった。首の残った紐のあとは、夜には消えていた。翌日は普通仕事に行った。次の日も、その次の日も普通に行った。

薬は最初の処方分だけで不要になった。

それから10年たった今も生きている。

で、それでなにが言いたいかというと、人はあまりに突然死に取り憑かれて、急に死んでしまうことがあるだろうということである

ミステリとかで「あの人は近々こういう予定があって楽しみにしていたか自殺なんてありえない」みたいなシーンを良く見かけるが、結論として全然ありうる。

どんな予定があっても、約束があっても、「死のう」は突然やってくる。

あと、死ぬ前に思い悩んでいたことがあったのではとか、誰かに相談はできなかったのか、みたいな話も出てくる。

もちろん誰かに相談したくて、それができなくて思い詰めて、確固たる意志自死を選んでしまった人も多いと思う。

でも、自分が悩んでいる自覚もなく、ある日突然「死のう」が顔を出すこともある。

準備がなくても、杜撰でも、衝動的でも、一瞬の気の迷いでも、タイミングが重なれば、死ぬときは死んでしまうのだ。

たとえそれが自死であろうが、突然の事故と同じくらいに、本人だってわけもわからず、死んでしまうことは、たぶんある。

から他人の死に対し、できればあまり物語を見ようとしないでほしい。

(以下略)

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Ah, look at all the lonely people

正直な告白で、ホストクラブに通う女性の気持ちが分かって興味深いが、コメントのほとんどが冷酷で、そこも面白い。つまり、女にモテない男たちには、ホストクラブに通う女性は敵なのだろうwww
ちなみに、ホステスをやっている女性などがホストクラブの客になりがちなようだ。中には、トルコ嬢(死語か?)になっても通ったり、あるいは勤めている職場のカネを盗んでも通う女性もいる。それだけ、ホストクラブには或る種の魔力があるのだろう。ただ、中村うさぎと誰か別の女性作家が対談で言っていたが、ホストというのは基本的に恐ろしく無知無教養らしい。むしろ、その無知さ、無教養さを冗談にして笑いが取れるということではないか。客のほうも大半はホストをどこか見下しているのだと思う。
太客と細客という、資本主義の階層構造で客の価値が決まり、その階層構造を客たちが素直に受け入れているというのも興味深い。

2018-06-13

ホストクラブに通うのをやめた話

1年近くホストクラブに通っていた。

歌舞伎町マイナー店。

担当ナンバー上位の幹部だった。

月に遣ってたのは20ちょっと

スクラじゃゴミみたいに安い金額だ。

お金を遣うのが絶対正義世界

そんな世界お金を出せない私は、担当にとって都合のいい便利な客にならなければ客にも見られないと思っていた。

わがまま文句を言ったら嫌われる。

お金を払った上でイヤなことがあっても我慢をするなんて、はたから見たら頭がおかしいと思われるかもしれない。しかし、ホスクラでそれも細客担当を好きになるというのは、こういうものなんだと思っていた。

はい人間は強欲な生き物だ。

いい子を演じれば演じるほど不満や文句が生まれてくるのは当たり前のことである

ある日、担当に珍しくシャンパンを煽られた。私のお気に入りヘルプバースデーが近いから前祝いをしてほしいとのこと。もちろんいつもお世話になっているからと鴨を発揮し、月に遣っている総額を1日で遣った。

その日は入店した時間も遅く、担当が卓に着いていたのは実質1時間もなかった。たまにはこんな日があってもいいかと思っていたが、店を出ると速攻でタクシーにぶち込まれた。見返りなんて求めてはいけないと思いつつもさすがにこれには悲しくなった。

お金を遣ったのに満たされない日の帰り道ほど虚しさに襲われる日はない。

あれ、私今日全然酔ってもないし担当感謝されてるわけでもないし、何のために店に行って何のためにシャンパン卸したんだろう?今日ほんとに楽しかったっけ?

こんなことを思っても数日したら担当に呼ばれてまた店に行ってしまう。

そしてまた雑に扱われて落ち込んでそれでも好きだから店には行ってしまうの無限ループ

自分でも好きとか依存とか執着とかお金とか営業とかよくわからなくなってきていた。

そんな時、担当ポロっと言った言葉

「そういえば俺、お前が怒ったとこ見たことないよな〜〜」

担当何の気なしに言ったと思うが、この時の私には刺さりすぎる言葉だった。

呼ばれた時はできる限りお店に行った。

苦手なヘルプの前でもニコニコ笑って担当が卓にいなくても楽しいふりをした。

連絡が雑でも、約束を守ってくれなくても、誕生日を祝ってくれなくても、担当負担にならないよう文句ひとつわずに平気なふりをした。

からといって何を感謝をされるわけでもなく、呼べば来るくらいのちょろい客にしか思われてなくてもそれでいいやと思っていた。

お金を遣えない細客わがままなんて言っちゃいけない。見返りなんて求めちゃいけない。そう思って店に通ってた私のちっちゃいちっちゃいこの頑張りってなんだったんだろう。

なんにも伝わってないじゃん。

なにこれ虚しい虚しい虚しい虚しい。

別にこんなこと思いたくもなかったし感じたくもなかった。こんな風に自滅なんてしていきたくなかった。でももう考え出したら止まらなかったし止められなかった。

私にとっては精一杯の好きと誠意を表したお金担当にとってはきっとしょぼいお金しか思われてなくて、どんな気持ちで遣ってきたかなんて全くもって考えてもいないんだろうなって。

自分は客で担当にとっては所詮お金しかないってこと、ホスクラに通ってる女の子はそんなの最初からみんな分かってます

からこそ、楽しく通ってるうちはせめて店にいる時くらいは、そんなこと思わせないでほしかった。少しくらい必要とされたり大切にされてるかもって勘違いをして、つまらない日常現実逃避をしていたかった。勝手担当を好きでい続けたかった。

きっとこれをホス狂や担当狂いの女の子たちが読んだら、細客が何言ってるんだよって鼻で笑われたのち、勘違いしてんじゃねぇよと私は叩かれまくることでしょう。

お金を遣うのが絶対正義世界

担当の為に人生捨てて風俗1本になる勇気もなければ、見返りを求めないこともできなくなった私の負けです。そして私をこんな気持ちにさせて離れることを選ばせた担当もっと負け。

と思っていたけど、担当は私がいなくなっても別に困ることなんて何もないし、代わりの女の子なんていくらでもいるから全く負けてなんていなかった件。

あー、ただただ虚しい。

記事への反応 - 

ヴィーガンという不健康な生き方

脂肪分やタンパク質を摂取しないと、身体から油気が無くなり、筋肉量が減るようだ。ヴィーガンを自称するボディビルダーもいるが、プロテイン(薬剤としての)で補っているのではないか。
油気は、血管の弾力にも関わるはずで、昔より脳卒中が減ったのは、食生活の中で肉の摂取量が増えたためだろう。

2021年12月16日

1: 2021/12/15(水) 03:21:02.88 ID:Zgdbslspd
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東海アマ氏の「欲望絶対肯定」論

「東海アマ」ブログ記事で、「倫理」の重要性を信じる私とは正反対の意見だが、参考のために載せておく。まあ、自分の欲望はほとんど必ず他者の欲望と衝突するのであり、その解決は最終的には暴力しかない。つまり、「新自由主義」の究極である。
ちなみに「ワクワク=快感」という等式は成立しない。「ワクワク」は快感を求める感情であり、快感は「ワクワク」に導かれた行為の結果だ。もちろん、その行為が失敗に終わり、さらなる不満や抑圧感を生み出すことが「社会秩序」の中では普通にある。だから倫理は常に「禁止の体系」なのである。
アイドルタレントに性欲を抱く若者は膨大にいるが、そのタレントを衆人環視の中で強姦する者はいない。東海アマ氏が称揚する性欲など、基本的にオナニーをすれば終わりである。「快感の達成」というのは様々なレベルがあり、「ワクワク」感など、人それぞれである。人を殺すことにワクワクする人間もいれば、自然を眺めてその美しさにワクワクする者もいる。探せば、どんな小さな物の中にもワクワクするものはある。
人は欲望充足のために生きているという説は俗耳に入りやすいが、欲望など便意と同じで、「始末する必要がある」から人を動かすだけだ。四六時中「ウンコをしたい」とだけ考えている人間は精神異常だろう。(便秘に悩む女性のことは措いておく)。

(以下引用)

人は快感=ワクワクを求めて生きていること


 

 バシャールが、「人間にとって一番大切なことは、ワクワクを持ち続けること」と言っていたような気がする。
 確かに、この指摘は晴天の霹靂で、我々の心の誰も気づかなかった奥底の原動機を指摘してくれた。
 我々が未来に希望を持てるとすれば、それはワクワクするような事態に遭遇できることを信じているからだ。死ぬまで苦痛しかない、ワクワクから見放された世界では、もう生きてゆく希望など何一つ残らない。

 しかし、奴隷として苦役を強要される立場でも、与えられる次の食事にワクワクし、希望をつないでいると聞いたこともある。
 また「奴隷は、自分につけられた鎖を自慢する」という言葉もある。
 だから、ワクワクとは何なのか? という問いは深い課題だ。
 他人を痛めつけることにワクワクする人だっている。人を騙すことにワクワクする人もいる。ワクワクは、必ずしも良いことばかりではない。

 人が人生に希望を失って自殺したりする鬱から引き戻すのに、その人にとって、ワクワクするような情報を与えることが最大の効果を発揮するのだろう。

 いったい、人間は何にワクワクするのだろう?
 ざっと思いつくのは、コンプレックスに包まれた状態から解放され、優越感に浸れること。これは深い差別社会にがんじがらめにされた者ならではの発想で、たぶんポリネシアなんかの自由で平等な社会では成立しない感情なのだろう。
 我々日本人は、上は天皇から下は死刑囚までの人間の序列支配に挟まれて、死ぬまで自分の置かれた階段の高さに一喜一憂しながら、他人を羨み、また小馬鹿にする価値観に溺れているので、誰も、心のワクワクに気づこうとしない。

 誰でも容易に、最初に考えるワクワクは、たぶん性欲を満たすことではないだろうか?
 年老いても、LGBTになっても性欲は残る。
 性交やSMプレイ、アナルセックスといった生々しい快感が、もちろん人をワクワクさせることは、ラブホテルに向かう男女の表情を見ていれば鮮明に分かる。
 みんな、何気なくしらばくれていても、強烈なワクワクを内に秘めた表情をしている。

 このワクワク感は鮮烈で、LGBTの掲示板を覗いてみると、露骨で生々しい性欲のワクワクが手にとるように分かる。見ているうちに、普段何気なく使っていた公園の駐車場なんかが出会いの場になっていて、公園のトイレに入ることも、はばかられるようになった。
 よくも、ここまでエゲツなくなれるもんだというのが正直な感想だが、これも、私が前時代の序列価値観に束縛されているからで、人間の飾らない本当の心根を示している貴重な表現なのかもしれない。

 性欲が50歳程度で消えてゆくというのは真っ赤な嘘だ。男どもは、自分の娘よりも若い女性が働く風俗店に平気で入ってゆく。世間体よりも性欲が勝っている。
 また、50歳前後にもなると世間体を気にして、エッチを想像するのも恥ずかしいことと、自分を金縛りにしてしまう男女も多いが、意思で性欲を縛り付けていても、抑圧された欲望は火山のマグマのように出口を探して彷徨っている。

 私は50歳前後で、数年間も血尿が続いて、尿の出が悪くなったりする症状があったので、前立腺癌を抑制するシテロンという男性ホルモン抑制剤を10年近くも飲み続けていたのだが、これを飲んでいると、性欲がほぼ強制的に遮断される。
 効果は実に強烈で、過剰性欲に悩んでいる人には最高だが、ただし副作用も強い。

 これは女性に対する関心が完全に消え失せる。もちろん男性に対する関心も出ない。目の前で見目麗しい若い女性が素っ裸になっていても、何一つ心を動かされない。関心が湧かないのだ。
 だから、性欲が、どれくらい性ホルモンの支配を受けているか思い知らされた。

 「やりたい、ワクワク」というものの正体は、性ホルモンだったのだ。
 シテロンは副作用で、乳房肥大が起きるので、私はLGBTに間違えられることも多い。若ければ、そのままLGBTとしての人生を送るのも一興だが、残念ながら歳をとりすぎて、「LGBT老人」を相手にしてくれる目出度い人物もいない。
 まあ、世間が求める性欲ワクワクは50歳あたりまでなので、私は遅すぎた。それでも、シテロンを中止して性欲が戻れば、女性になったつもりでレズプレイをしてみたいなんて性的妄想に苛まれることもある。

 若ければ、きっと出会い掲示板なんかに書き込んで性欲に狂っていたかもしれない。
 だが、60歳近くになって、突然、自分の心の抑制から解放されて、性欲を謳歌することに目覚める人もいる。どちらかといえば女性が多い。
 今の60歳以上の人々は、昔の封建的な男女観の影響を受けていて「はしたない」なんて自己規制感情とともに、「夫婦のあるべき姿」とか「真面目な人間性」とかの作り上げられた虚像に縛られている人が多い。

 だが、人間の本質は、何よりもワクワクと快感を求める動物なのだ。
 どんな封建的な名家の一員に収まっていても、快感を得たいという欲望から逃れることはできない。押し殺せば押し殺すほどに、心の底に欲求が渦巻いてゆく。
 ちょうど、宮本恒一の「忘れられた日本人」のなかで、有名な「土佐源氏」という本があるのだが、これなど、人間の本当の心が何をもたらすのか、実に深く示してくれる。
 人間の心に隠された真実に光を当てた名著中の名著だ。
 https://story.nakagawa-masashichi.jp/56730

 結局、人間というものは、幼い頃からすり込まれた世間体や封建的価値観による抑圧のなかで、「性欲ははしたない」という鎖に縛られて生きてきたが、ある日、その鎖が、思い込みだけで、本当は糸こんにゃくか、うどんのように簡単に壊れる虚構にすぎないと気づくと、突然、心のなかで何か爆発が起きて、60歳近い人が抑制を失った性欲に溺れるのだ。

 だが、容姿の衰えは隠しようもなく、若者たちは相手にしてくれない。狂いたくとも狂う相手がいないという焦燥のなかで、中高年、老人向けの出会いサイトは恐ろしいほど盛況で、その内容は驚くほどえげつない。
 それでも、支配者が民衆の心を支配してきた封建的虚構から解き放たれた人々が、ネットの自由な世界に触れて、人生の真実を見いだすというストーリーは素晴らしい。

 私の世代のような老人たちが、封建的価値観のくびきから解放されて、自由なセックスを楽しむということは、目指してきた「人間解放」の成果だと考えている。
 穏やかで、抑制の効いた関係もいいが、露骨な性欲に突き動かされた荒々しい性的満足もいい。変態セックスも素晴らしい。アナルでも、なんでもやったらいい。
 人生の大半をがんじがらめに束縛されてきた、ワクワクを追求することで、虚構の仮面が剥がれ落ちてしまえばいい。

 もちろん、そうした性的自由は、一夫一婦制の倫理観を根底から破壊することになる。
 だから、旦那様、奥様と仲良く人生を終えたい人は、これまでどおりの貞操価値観を大切にしてゆくことになる。
 でも社会が一夫一婦制から抜け出そうとしていることは、高知県の男女関係に現れている。
 https://master-jack.net/2018/06/02/%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%9C%AA%E5%A9%9A%E7%8E%87%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%84%EF%BC%93%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E3%80%82/

 ワクワクすることは、「自分が本当にやりたいこと」を端的に教えてくれる。
 今、ワクワクしながら夢中になって取り組んでいる仕事、食事の時間さえ忘れて、集中していること。
 これが、本当に自分の心が求めているものだ。

 なかには、変態性欲行為に夢中になっている人もいるだろうが、それはそれでよい。
 結局、ワクワクは快感の延長である。人は快感を得られることをしたいのだ。
 それが世の中を変えてゆく。
 みんなが一番快感を得られる世界を想像してみればいい。
 それは少なくとも、ナチズムや中国共産党のようなファッシズムではないはずだ。

 ヘーゲルの示した「世界は合理性に向かう=絶対精神へ」という命題も、人々がもっとも強い快感を得られる世界に向かってゆくという意味だろう。
 我々が、どういうときに快感を得ることができるのか?
 これを心の底に置いておけば、それが社会の進む道である。

 こうした意味で、船井幸雄が示した「長所伸展法=短所是正法」のメカニズムも、今では、長所伸展法がもたらす素晴らしい世界=快感の強い世界が、どれほど社会を前進させているか気づく人も多くなった。
 逆に短所是正法=叱りつける、文句を言いまくる、短所を厳しく指摘するという、およそ不快感をもたらすだけの人間支配が、社会をどれほど逆行させ、人を不幸にしているかも知られるようになった。

 これなどは、社会を規定する根底に、ワクワクと快感があることさえ理解できれば、誰にでも分かることだと思う。
 しかし、さんざん他人から文句を言われてきた人に、その恨みを他人にぶつける人もいる。そうしてワクワク感を得ているのかもしれないが、それは、自分を縛る鎖をより太く強固にするだけだ。

 自分を縛り付けている、たくさんの鎖から解き放たれよう。価値を定めるのは世間体ではない。他人の指摘でもない。ワクワクする自分の心を満足させるため、鎖を引きちぎって前進してゆくのだ。

降圧剤、使うべきか使わざるべきか

私も昔風に「年齢+90」が年齢に応じた正常血圧だと思うのだが、今かかっている医師は「140以下が正常血圧」と頑固に信じているので、なかなか対応が難しい。
実は降圧剤が原因と思われる身体の不調がいくつもあるのだが、「そういうの(副作用)は稀な例で、単なる思い込みだ」とされてしまうのである。しかし、製薬会社の能書きがそれほど信頼できるなら、薬害事件がこれほど頻発しないだろう。新コロワクチンのいきさつなど見ても、製薬会社が正直なはずがない。降圧剤などは、製薬会社の打ち出の小づちだろうから、副作用など過小に評価しているに決まっている。

(以下引用)

本当のところ血圧はいくつまでなら安心か

現場の医師はこのガイドラインに従って患者を高血圧と診断し、降圧剤を処方している。ガイドラインが改訂されるたび、降圧剤を服用する人の数はそれに比例して増えていく。

「私が卒業した69年当時、降圧剤を服用している人はおよそ300万人でした。それがいまや1500万人とか2000万人といわれている。製薬会社は笑いが止まりませんよ」(松本医師)

医師の多くはガイドラインに従っている。多忙な医師にガイドラインが正しいかどうかを検証する時間はない。とりあえずこのガイドラインに従っておけば万が一のときも安心、という思いがあるのかもしれない。

「年齢とともに血圧が高くなるのは自然なこと」と松本医師はいう。「年をとれば血管は硬くなる(動脈硬化)。弾力を失った血管は拡張・収縮しにくくなるので、体のすみずみまで血液を送り込むのが難しくなります。そこで心臓は血圧を上げて、血流をよくします」

▼「上は180、下は110まで大丈夫」

それでは本当のところ、血圧はいくつまでなら安心なのか。浜医師は、「上は180、下は110まで大丈夫。これは各種の疫学調査から明らかです」と断言する。松本医師は、「やはり上は年齢プラス90が目安。しかしそれを大幅に超えた状態がずっと続くのでなければ気にしなくていい」という。

しかし高血圧を放置すると、脳卒中など生命に関わる病気になるという。その点は大丈夫なのだろうか。

「脳卒中には3種類あります。すなわち脳出血、脳梗塞、くも膜下出血です。50年前はほとんどが脳出血でしたが、いま脳出血は激減していて、脳梗塞が8割です。くも膜下出血はいまも昔も全体の3%程度」(松本医師)