肉がなぜ悲しいのか
「肉は悲し」は、わりと高名な仏文学者の訳で、私も漠然と、妙な訳だな、とは思っていたが、よく考えると「悪訳の名訳」という趣がある。「肉体は悲し」と言えば済むものを、「肉は悲し」と言われると、「心の引っかかり」が生じる。そこが大きいのだろう。
まあ、奇警な表現をしさえすればいい、という現代の広告屋みたいな感じもあるが、詩の一面ではある。
まあ、奇警な表現をしさえすればいい、という現代の広告屋みたいな感じもあるが、詩の一面ではある。
マラルメの「肉は悲し、なべての書は読まれたり」とは どういう意味ですか? 解...
2015/10/2218:08:39
ベストアンサーに選ばれた回答
2015/10/2222:50:12
>「肉は悲し、なべての書は読まれたり」
マラルメの「海の微風」とか「海のそよ風」とかと訳されている詩《Brise Marine》の冒頭の一節(下記)ですよね。
>La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
直訳すれば、「肉体は哀しい、ああ!、全ての書物は読まれたり」という意になりますが、この《La chair》や《j'ai lu tous les livres》をどのように解釈するかで、各翻訳間の違いが生じてきそうです。
たとえば、《La chair》は「肉欲」と訳する訳者もいますが、その場合、「どんなに多くの本を読んでも、肉欲だけはいかんともしがたい」という意味になります。
で、私としては、この一節は、「肉欲」をも含む身体が、自分のいかなる理智をもってしても太刀打ちできないという悲哀を表現しているのではないかと解してきました。
なお、「全ての書は読まれたり」というのは、「われは理智の極みに至り得た」と解したいところです。
ということで、《La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.》は、「私はあらゆる本を読んだというのに、わが肉体の秘密、謎を前にしてかくも非力だとは!」と意訳したいところです。
その点、ランボーのいわゆる《賢者の手紙Lettres du voyant》中の一節《われは他者なりJe est un autre》(私の存在は、私の理解を絶している)と通底するような気がしてなりません。
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