忍者ブログ

独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

酒のメリットとデメリット

小田嶋隆のブログである。最近の氏は八方美人の反対で、八方に喧嘩を売りまくっている印象だが、それ自体はどうでもいい。
私は、酒も煙草も一種の麻薬だと思っているが、人生を幸福にする、は大袈裟でも、ある種の人間の人生の幸福度を高める麻薬だと思っている。麻薬だから害は当然ある。しかし、知恵や知識がその人間を不幸にすることもあるし、異性との関係がその人の人生を不幸のどん底に陥れることもある。まあ、それが人生の面白さでもある。問題は外部にあるのではなく、それと付き合う当人の中にあるという、当たり前の話だ。
私は酒によって人生の喜びのかなりな割合を手に入れたが、その反面肝臓を悪くし、脳細胞を死滅させ、脳梗塞にまでなった。では、酒をまったく飲まない人生が良かったかというと、まったくそうは思わない。酒を飲まなかったら、私は20歳前に自殺していたような気がする。


(以下引用)


 今回は、アルコールの話をしようと思っている。
 どうしてこんなカビの生えた話題をいまさら蒸し返すのかというと、八街で起こった事故の報道をきっかけに、飲酒という行為について自分が考えている内容と、世間一般の人々が「酒」という液体に抱いているイメージが、あまりにもかけ離れていることに気付かされたからだ。
 もちろん、浮いているのは私の方だ。
 私の見解は、孤立している。
 ということは、間違っているのは、私の方なのかもしれない。
 でも、私は、自分が間違っているとは思っていない。
 私は、むしろ、現代日本の社会の中で暮らしている一般的な人々の「酒」へのスタンスが、狂っているのだというふうに考えている。
 その日本人の酒についての誤った考えを攻撃しようとか、厳しく指摘して軌道修正させようとか、正そうとか教導しようとか全否定して爆破しようとか、そういう大それたことを企図しているのではない。

 ただ、ちょうど良い機会でもあるので
「オダジマは酒について、こんなことを考えている」
 というお話を、この場を借りてお知らせするつもりでいる。
 私がこれから書く内容に共感できない読者は、むろん私の見解に従う必要はない。
「なーに言ってやがんだ」
 と、いきなり退けてもらってかまわない。

 私自身、世間にあまた流布している様々な人々による千差万別なご意見を、時々刻々、目に付き次第
「うるせえ」
 のひとことで瞬殺している。
 他人の意見に耳を傾けることは、有益な態度ではある。しかしながら、騒々しい社会の中で生きて行く人間にとっては、相容れない他人の意見を無視することの方が、より現実的かつ重要なプリンシプルだったりする。
 私たちの耳にはおよそ雑多な説教や忠告が、昼夜を問わず、無差別に投げつけられることになっている。
 それらのほとんどを、われわれは、無視している。
 というよりも、
「うるせえ」
 と、他人の言葉を遮断し、黙殺し、廃棄し去る態度が、結果として、私たちの人格を独立させている当のものなのだ。

 そんなわけなので
「他人は地獄だ」
 という箴言こそが、先人が残してくれたアドバイスのうちで最も有用なものだと、私は、そう考えている。
 われわれの個性は、共感できない他人のアドバイスの陰画(ネガ)として自分たちの中に蓄えられる。それらの、いけ好かない意見を排除した後に残る外枠としてのカタチは、自分が自分であり続けるための最後のよすがに相当する。大切に扱わなければならない。

 なので、賛同できない見解や忠告を見かけた時、私は一も二もなく、即座に
「うるせえ」
 とつぶやきながら心を閉ざすことにしている。
 皆さんもそうした方が良いと思う。
 もっとも、
「他人が押し付けてくるアドバイスに耳を傾けるな」
 という私のこのアドバイスを不快に感じる向きは、遠慮なく無視してくれてかまわない。せいぜい同調的な人間として生きてください。
 さて、酒だ。
 八街での事故の報道を受けて、私は、ツイッターに以下の一連のツイートを書き込んだ。
《「飲酒運転」は「飲酒」と「運転」というふたつの「有用」で「社交的な」習慣のすぐ外側にある。「犬を飼うこと」そのものが「犬の糞尿をぶちまけて歩くこと」そのものと同一ではないものの、すぐ隣にある区別のつけにくいふたつの態度であることと似ている……というのは言いすぎでしたね。午前8:15 - 2021年6月30日

《「飲酒運転」が危険で非常識で愚かな行動であると考えている皆さんには、「飲酒交際」や「飲酒自分語り」や「飲酒武勇伝」「飲酒説教」が、危険かつ陋劣かつ下品な行動であることについても、できればしかるべき認識を持っていただきたいものです。午前8:34 - 2021年6月30日

《酒を飲むことで判断力と知能を低下させた状態の人間が、それでもなお他人と対等に会話できると考えているのは、やはり酒を飲むことで判断力と知能が低下しているからなのだろうと思っている。午前8:44 - 2021年6月30日

 これらのツイートには、賛同の声がいくつか寄せられた一方で、反発ないしは異論を表明するリプライもそれなりに届けられた。

 私としては、不必要に挑発的な書き方をした自覚もあったので、反発を浴びるのは当然だとは思っていたのだが、それにしても、
「酒」
 を擁護する人が意外なほど多いことには、少々驚かされた。
 実際、飲酒運転が明らかな反社会的行為であり、言語道断の犯罪である点については、ほとんどすべての日本人が、諸手を挙げて同意しているのだが、その一方で、「飲酒」という行為なり習慣そのものが、それ自体として凶悪だと考えている人はほとんど見当たらない。
 つまり、多数派の日本人は
「自動車を運転することさえしなければ、酒を飲むことそのものは、決して恥ずべき行為ではない」
 と考えているわけだ。

 だからこそ
「飲酒運転」
 という
「厳しく罰せられるべき犯罪行為」
 と、
「飲酒」
 という文化的、社会的に好ましいと考えられている習俗を、一緒くたにして断罪したかに見える私の一連のツイートは、思わぬ反撃を食らうことになったのだろう。

 ただ、私は、
「運転しないのであれば飲酒そのものに罪はない」
 という態度は、事実上
「一杯くらい良いじゃないか」
「酔わない程度なら飲んでもかまわないだろ?」
「わきまえて飲めば大丈夫だよね」
 てな調子の酔っぱらいの甘ったれた言い草とそんなに変わらないものなのだと思っている。
 多くの酒にまつわる不祥事は
「一杯くらい良いじゃないか」
 という上目遣いの甘えた態度が引き起こしているところのものだ。
 私は、いくつか寄せられた飲酒擁護のリプライを眺めながら、
「ああ、酒飲みを甘やかす文化は永遠なのだな」
 という感慨に打たれていた。

 酒は、単なる液体ではない。あれは人間と人間の
「関係」
 を取り持つ文化的なツールだ。
 ある時は、厳しい言葉のやりとりを緩和する緩衝材になり、ある時は、同じホモソーシャルに属する男たちがやってのける愚行の事前弁解として機能している。

 それだけではない。
「酒の上」
 ということで事後的に免罪される背景があらかじめ用意されていないと、初対面の異性と口をきくことすらできない人間がたくさんいる。
 そういう酒抜きでは他人とリラックスした関係を構築できない意気地のない人間たちの多くは、結局のところ、酒の力を借りることで社会的な動物としてのノルマを果たしている。
 もちろん、彼らとて血中アルコール濃度が一定のパーセンテージを超えることでただちにリラックスできるわけではない。人間はそれほど単純なマシンではない。

 ただ、
「酒が入っている」
「酒の席だから」
「酒を飲んだ上での会合だから」
 という、双方にとって見え透いている弁解をあらかじめ共有するところから交渉を出発させないと、彼らは先に進むことができない。

 浮き輪にはまりこんだ状態で海水浴をしているスイマーと同じだ。
 彼らとて、泳げないわけではない。
 でも、浮き輪がないと不安で海面に滞在することができない。
 だから、安全弁としての浮き輪をパートナーとすることで、海と和解したふりをしている。
 それほど臆病なのだ。

 ともあれ、私のような酒を意識的に遠ざけている人間の口から漏れ出す酒への悪口は、酒を杖として生きている人々の耳には、非難として響くことになっている。でもって、オダジマは、人が人として人と出会い、対話し、喜びや悲しみを分かち合う機会それ自体を全面否定する赤い血の流れていない人間として彼らの不興を買う。

「ははは、友だちがいないんだな(笑)」
「ともに飲む相手のいない人生って、オレには見当もつかんわw」
 なるほど。ご指摘のとおりだ。
 私は差し向かいでテーブルを分かち合う飲み友だちは、一人も持っていない。もちろん、大勢で酒席を囲む仲間もいない。
 しかし、そのことをさびしいと思ったことはない。
 いったいどこの海鳥が深海魚と並んで泳げないことを嘆くだろうか。

 誤解してほしくないのだが、私は
「酒は法律で禁じられるべきだ」
「飲酒という習慣にはより厳しい制限が課されるべきだ」
 と言っているのではない。
 なのになぜなのかアルコールについてネガティブなことを書くと、必ずや
「おまえは禁酒法の施行を主張するのか?」
「この世の中から酒がなくなればすべての問題が解消すると思っているのか」
「酒を飲む人間を例外なくバカ呼ばわりにするのか」
 といった調子の罵倒が寄せられるきまりになっている。

 これは、SNSが普及してからこっち一般的になっている(←さかのぼれば2ちゃんねる由来なのだと思っている)議論のマナーで、彼らの論争技術は
「まず相手の主張を極端化した上で、おもむろにそれを論破しにかかる」
 カタチで発動されることになっている。
 彼らにとって大切なのは、論争相手の主張に異を唱えることではなくて、とにかく敵方の主張を跡形もなく焼き尽くしてみせることだったりする。
「つまりあなたは有権者による投票のすべてが一切の現実的な効果を持っていないと主張なさっているわけですね?」
「要するに、世界中のキッチンがじゃがいもで満たされることが君の希望だというふうに受け止めて差し支えないわけだよね?」
「えっ? もしかして現首相より知能指数の低い人間が、この国に一人もいないと思ってたりする?」
 てな調子の藁人形を持ち出した議論に、私は付き合おうとは思っていない。
 だから、これ以上の議論はしない。

 最後に、議論とは別に、簡単な決意表明をしておく。
 これから私が述べるのは、私自身が
「こうするつもりだ」
 ということにすぎない。
 だから、言うまでもなくその私の方針に読者が従う必要はない。
 共感を抱く必要もない。
「なるほど、オダジマはそういう方針で行くのだな」
 と、言葉のまま受け止めてもらえばそれで十分だ。

 私は、酒そのものが悪だというふうには思っていない。
 飲酒という行為がそれ自体として悪徳だとも考えていない。
 アルコールは、それを習慣的に摂取する人々にとっては、おそらく有用な液体なのだろうし、一定の慰安をもたらすものでもあるのだろうと思っている。

 それ以上に、アルコールは、
「関係」
 を媒介する社会的なツールでもある。
 人々が、
「交際」
 し
「共感」
 を分かち合い、
「ふれあい」
 を求める時、アルコールは、不可欠な背景となっている。
 それを、焼き尽くせと言うつもりはない。
 飲みたい人は飲めばいいし、飲んだ上での人付き合いを大切にしたい人たちは、飲んだり吐き出したりの人生を続行するのが適切だと思う。
 そこのところに私は口出しをするつもりはない。

 ただ、一点、私は、すでに断酒した人間の一人として、少なくとも今後は、酒を飲んでいる人間と同席する機会を拒絶するつもりでいる。

 酒に罪がなくて、飲酒が悪徳でなくて、酔っぱらいに責めるべき点がないのだとしても、酒に酔った人間と酒を飲んでいない人間が同席せねばならないことは、これはひとつの災害にほかならないからだ。

 これまで、新年会やら打ち合わせやら温泉旅行やら出版物の打ち上げやらトークイベントの景気づけやらで、結果としてアルコールを摂取している人々と同席する場にかなりの頻度で付き合ってきた自覚がある。
 自分はなんと無駄な努力をしていたのだろうかと、あらためて反省している。
 なので、せめて、今後に関しては、酒席への参加を一切ごめんこうむる設定を押し通したいと願っている。
 弁解すればだが、私が、あまたの酒席の末席に連なったのは、私の側のサービス精神の発露にすぎない。
 楽しかったからではない。
 なんとなく断りきれずに意気地なく酒席に引っ張られていただけの話で、楽しいふりをしてさしあげていたのは、私の性格の弱さがそうさせていたのだと思っている。

 かえすがえすも、くだらない経験だった。
 酒を飲んだ状態の人間が持ち出してくる話題に、啓発された記憶は、少なくとも私の側にはない。単純な話、酒飲みの相手は苦痛だった。

 酒のもたらす効用のひとつは、対面する相手が自分を迷惑がっていることへの鈍感さを身につけられることだ。
 それゆえ、先方があからさまな上の空の相槌を繰り返していても、酔っぱらいの側は、自分がつまらない話をまくしたてていることを、自覚せずに済む。
 だからこそ、酒席はまわる。
 酒席では、自分の話に耳を傾けている人間が一人もいないことに気付いていない人間たちだけが、延々としゃべり続けている。
 つまり、酒は、誰も聴かない話を大量に生産することによって、宴会の表面上の賑わいを演出する稀有な液体なのであって、それゆえ、時が経過するにつれて、愚かな人たちは、酒抜きでは対話を続行することができなくなる。
 まったく、うまくできた話ではないか。

 こんなことを書くと
「その言い方は、あんまり杓子定規で余裕を欠いているのではないか」
「誰にでも欠点はあります。大人なら他人の無神経や粗雑さに対して、もっと寛大であってしかるべきだと思いますよ」
 てな調子のアドバイスをしてくる人間がきっとあらわれる。
 あなたがたの言わんとしていることは、もっともだと思う。
 理屈としては、私も、大いに納得している。
 しかし、誰かの欠点や失礼さや声のデカさを許容するだけの余裕が、もし仮に、自分に備わっているのだとしたら、私は、その余裕なり寛大さなりを、酒を飲む人間を許容することのために浪費したいとは思わない。

 この秋には65歳になる私が、かろうじて持ちこたえているなけなしの寛大さを、私が、一つ残らずまるごと自分自身のために費やしたいと考えたとして、それは罪だろうか。
 今後、酒を飲む何人かのリアルな知り合いが、酒を飲まないからという理由で私に絶交を言い渡すのだとしても、それはそれで仕方のないことだ。
 ついでに申せば、この先、一生涯人々が集まる酒席に招待されない結末になるのだとしても、私はそのことをさして残念には思わない。

 寄るとさわると、なにかにつけて酒食をともにしたがる人間たちの、過度に同調的な振る舞いの連鎖と繰り返しが、この国の社会を腐らせているものの本体だと私は考えている。
 オリンピックという狂った祭典も、もとをただせば、意地汚い連中が相互に提供しあっている「酒食の饗応」を拡大したものだ。

 最後に、リアルな知り合いに向けてメッセージをお伝えしておく。
 今後、オダジマを酒席に招待したり、酒絡みの会合に呼んだり、同様の旅行に誘ったりすることは、できれば断念してほしい。
 こんな調子の、カドの立つカタチでの拒絶は、できれば振り回したくなかったのだが、酒と縁を切るためにはカドを立てなければならない。そうやって、無用な人間との縁を切断しにかかるほかに、酒の進入路を塞ぐ手立てはないのだよ。とても残念なことに。
 オリンピックは、中止できないと思う。
 あれは、飲み始めてしまった酒と同じだ。
 ゲロになることがわかりきっていても、飲む人間は最後まで飲むだろう。
 私は、付き合わないつもりだ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)



PR