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独楽帳

青天を行く白雲のごとき浮遊思考の落書き帳

「無意識のバイアス」が生じる理由

「紙屋研究所」から転載。
正直言って、私は差別問題にはあまり興味が無いので、これは思考課題として保存するだけである。
私が指摘したいのは、差別する側の「差別の快感」と「差別という娯楽」の点である。そこを追求しないと、差別の根本的解消はできないのではないだろうか。他者を劣った存在とみなし、自分を優れた存在と思うことは、誰にとっても快感なのである。つまり人間の普遍的心性だ。そこにこそ「無意識のバイアス」が生まれるのではないか。

(以下引用)

ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』

 リモート読書会は、ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店、山岡希美訳、 高史明解説)。

 

 

 著者・エバーハートの主張する「無意識のバイアス」のメカニズムを正確に理解することがまずは必要だ。

  1. 格差社会(差別社会)の中で大量の格差・差別的現象に触れることによって
  2. 脳の器質的なしくみ・構造によって引き起こされる

…というものだとぼくは理解した。

 大量の差別現象の中で起きる脳の構造によるものである以上、そういうバイアスを持ってしまうのは、その人が思想的な差別主義者だからではない。あるいは心の奥底に差別意識を持っているからではない。誰にでも起こりうることなのだ、とエバーハートは言う。

潜在的なバイアスは人種差別主義の別名ではない。実際、潜在的なバイアスの影響を受けるのに、あなたが人種差別主義者であるかどうかは関係ないのだ。潜在的なバイアスは私たちの脳の構造と格差社会がつくり出した歪んだレンズのようなものである。

(ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス人はなぜ人種差別をするのか』KindleNo.123-125) 

 ぼくは、この本を読んで、表題から想像される「バイアスが引き起こされる自然科学的なメカニズム」のようなものにはあまり関心を持たなかった。

 一番ぼくにとって「驚き」だったのは、米国の黒人を取り巻く状況が、依然差別的なものであるというエバーハートの説明、彼女が説く米国における黒人の状況、というものに一番「驚いた」のである。それが本書を読んでのぼくの最大の「収穫」だった。

 ぼくなりに読み取ったのは次の4点である。

  1. 黒人は依然として米国社会で警察から不当な扱いを受け、一瞬で殺されるかもしれないという危険にさらされた意識を持っている。
  2. 刑事司法においても不利に扱われ、長い拘留で借金を背負うかも、失業するかも、親権を失うかも…という不安にさらされるあまりに、それを回避するために、してもいない罪を認める「自白」をしてしまう。
  3. コミュニティや教育において依然として実質的な隔離が行われている。
  4. ビジネスや採用の場面において、黒人差別は事実上行われている。

 え? お前、つい最近起きて全米・全世界が震撼したジョージ・フロイド殺害事件やその後に起こったBLM運動をまさか知らないの? と言われそうだけども、1.〜4.をとトータルに聞くことで、黒人への差別・抑圧構図が依然として、黒人の日常的な意識を支配し規制するほどに強力なものだという認識が構成された。逆に言えばそういう認識がなかったのである。つまり早い話が、「差別はもうだいたい終わったのではないか」。これだけ衝撃を受けている、ということはぼくは結局その程度の認識をしていたということなのだろう。

 これは日本ではたぶんポイントになる点で、本書の解説でも、黒人社会の差別の現状への認識が「BLM運動への冷笑」を生んでいると述べている。

 ぼくは福岡で行われたBLMを叫ぶデモにも参加した。

 しかし、あらためて米国の黒人差別の状況の皮膚感覚について問われるなら上記のような有様なのだ。

 読書会参加者のPさんは米国で暮らしていたことがあり、黒人が暮らしている区画の状況やたいていの黒人の子どもが処世術として警察への態度を親からどう教えられるかなどについて話があった。

 もう一人の参加者Qさんは、荻上チキが本書を紹介していたのを聞いて、この「無意識のバイアス」の解決策に興味・関心を持って本書を読んだことを紹介した。

 Qさんは、本書の中で「賢明なフィードバック」という介入に注目していた。

 単なる日記を書かせたグループと、自分のアイデンティティや価値観に関わることをふりかえらせる日記を書かせたグループとでは後者の方が「明らかに高い成績を収めていた」。

この研究は特に、早い段階での学力不振に対し、より大きな心理的脆弱性を示す黒人の学生において、心理状態と学習過程の関連性を裏づけている。肯定感の利点は、平均以下の学力で最も苦しんでいる成績の低いアフリカ系アメリカ人の子どもたちの間で最も顕著であった。彼らにとって、早い段階で受ける落第点は「他の子たちほど頭がよくない」「学校ではよい成績がとれない」というステレオタイプを確証するものとして認識される恐れがある。価値観の肯定課題によって、自らの妥当性に対する感覚を回復させ、心理的ストレスを軽減させ、成績不振へ至る悪循環を断ち切ることができた。(前掲書KindleNo.3375-3380)

 さらに同じような介入として「賢明なフィードバック」がある。

 白人の教師から同じように作文の課題を与えられた黒人の生徒群と白人の生徒群をつくり、批判的なコメントをつけながら「もっとできるはずだ」というメッセージを送ると、再提出の割合が黒人群で大きく伸びた。内容も優れていた。これは黒人群ではそういう明示的な安心感・信頼感を渇望している、という解釈ができるのだと言う。

 Qさんは、「これって生活綴り方運動みたいだと思った」と述べた。自分にとって忘れがたい体験となった小学校のクラスでは先生が作文を書かせて自分の生活を見つめなおさせていた。生活を客観的に捉えさせ、そこに必要な教育的介入を与えることで、得難い体験をクラスとしてした、今でもそのクラスのことは忘れない、とQさんが述べた。

 実は、Pさんもエバーハートが刑務所で囚人たちに作文を書かせてそこに批判的なコメントをつけて激励したところ、ものすごく熱い反応が返ってきた箇所に心を打たれていた。

 PさんもQさんも、こうした差別問題に与える教育の介入というものの力に強い感動を覚えたのである。

 ただ、ぼくはそこには少し距離があった。

 それらのエピソードは、差別されている側、つまり打ちひしがれ、尊厳を失わされている人たちにとって教育は大きな力を発揮するという証明ではあるが、差別する側のバイアスを正す力に果たしてなるかどうかは疑わしい。仮になるにしても、そうした丁寧な教育や啓発によって変えられる部分は、限られている上に、なかなか手間がかかる。いや…確かに特効薬はないのだから、手間がかかるし、初めは限定的なものなのだろう。それを倦まず弛まずやるしかないのかもしれない。

 

 ぼくは、解決策として注目した部分についていえば、多様な人たちとの交流は、交流自体では偏見の除去の解決にはならず、逆に偏見を強化してしまう恐れもある、という本書の主張であった。

当時、人種バイアスは一般的に無知の産物であると考えられていたのだ。そこで、人々を互いに交流させるだけで、誰もが大まかなステレオタイプを個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な人種的態度を和らげることができると考えられていた。バイアスの壁が緩和されれば、社会的統合は少数派の台頭を可能にするであろうと。……

しかしながら、バイアスへの解決策を約束した学校の人種的統合は、主唱者たちが予想していなかった障壁をもたらすことになった。結局のところ、ただ単純に同じ教室に座っているというだけでは、時代遅れの偏見はなくならないのだ。……

他の人が信頼する権威のある教師から、日常的に軽蔑されることで、不平等の規範が支持されているのである。……

交流は衝突を改善するのではなく、悪化させる可能性があることを発見した。

(前掲書KindleNo.3138-3163)

 

 エバーハートが紹介する「単なる交流」の中で起きていた教師による差別は相当に露骨なものである。今日これほどの差別が許容されているとは思えないのだが、エバーハートが別のところで書いているように、「無意識のバイアス」はちょっとした表情やしぐさの中に現れ、それは社会的に伝染してしまう。だから、この部分は解決策を書いているというよりも、「交流により解決する」という「解決策」のナイーブさを指摘している箇所として読んだ。

 それは、黒人の話ではないが、例えば、日本で「同じ偏差値のような人々だけでなく多様な人がいる学校やクラスの方がいい」という主張が一理ある反面で、かえって差別感覚を助長してしまう難しさについても考えてしまった。そこにはやはり意識的な教育介入がなければ、偏見を強化してしまう危険があるのだろう。

 

 という具合に、ぼくは本書に何か解決策を見出した、という読み方をしなかったし、できなかった。差別についての現状、起きる仕組み、解決の難しさについてむしろ思い知らされるような一冊となった。

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